第14話 出航は不安と希望に満ちて

 イスラズールに向かう船団は、五隻の船で構成されている。二隻は、オリバレス伯爵が乗って来た船とその護衛船。既に一度、大海を渡ったその二隻は、大陸の基準で見ればやや時代遅れのブリガンティン型ではあるものの、マルディバル港で補修を受け、補給も万全に済ませている。

 そして、高速帆船クリッパーが三隻。うち二隻はヴェルフェンツァーン侯爵家の出資によるもの、残りはマルディバル王家が──フェルゼンラングの密かな援助も受けつつ──調えたものだ。アンナリーザが乗り込み、かつ旗艦となる一隻は、出資者であり、狼の牙ヴェルフェンツァーンの名を掲げる侯爵家に敬意を表して《海狼ルポディマーレ》号と名付けられた。


 五隻とも、たっぷりの酒と食料と交易品で船倉が満たされている。計算上は、たとえ一隻や二隻が沈没したとしても、乗員をほかの船に避難させて航海を完遂させることができることになっている。船を操る水夫たちも、好条件を喧伝した甲斐あって経験を積んだ者たちが集まってくれた。イスラズールへの航路は初めてでも──少なくとも公的には。公言できることではないので──、《東》や《南》には何度となく渡った者が揃っている。


 よほどの事態がない限り無事に戻れないということはない体勢を整えてなお、父母や兄は万が一、を心配せずにはいられないようだったけれど。


「アンナリーザ。くれぐれも気を付けて。また会えるように祈っているわ」

「はい、お母様。私も同じ思いです」


 それでも、一度固く抱擁して放してくれた母は、まだ理性的だった。ドレス姿のアンナリーザが乗船できるように仮に築かれた、《海狼》号と港を繋ぐ木製の階段のもと、見送りに集まった民や、居並ぶ正装の儀仗兵の目も憚らず。一歩も進めないくらいにしっかりと彼女を抱き締め、手を握っては何度も聞いた注意を繰り返す、父と兄に比べれば。


「ユリウス殿と同じ船だからな。未婚の王族として、双方の名誉のためにも、振る舞いには心しなさい」

「もちろんですわ、お父様。決して慎みを忘れたりはしませんから」


 既に乗船しているユリウスが、父の言葉を漏れ聞いて苦笑する気配が背中に伝わってくる。たぶん、人前ではディートハルトに言及できない分、ふたり分の用心を込めての言葉だから、余計に大げさになっているのだ。父により懸念されているかもしれない王子様は、従者に扮して使用人の枠での乗船だから、甲板には姿を見せていない。でも、この場にいたところで彼が父の不安を正しく理解してくれるかどうかは微妙なところだった。


 兄のティボルトもまた、整った眉を寄せて、妹の手を握り潰さんばかりに力を込めている。


「あとは、海賊だな。広い海でそうそう出くわすこともないだろうが──」

「容易い獲物ではないのは、見れば分かると思いますわ。海賊ならなおさら。身のほどを弁えてくれると、良いのですけれど」


 ユリウスがもたらしてくれた情報は、かなり信憑性があるものだった。つまり、大陸沿岸を追われた海賊が、《西》の──イスラズール周辺の海域に潜んでいるのではないか、という。

 軍に追われて大破したはずの船が、いつの間にか修復されて悠々と帆に風をはらませている。噂が途絶えたから死んだと思われていた海賊が、ひょっこりと姿を見せる。そんな逸話は必ず、西寄りの海で起きていた。もちろん、マルディバルの立地ゆえにそう思えるだけで、《東》にも《南》にも、不法者の隠れ家があってもおかしくはないのだけれど。


(そもそもイスラズールを見つけた者たちの中にも、海賊はいたのだし……)


 イスラズールは隠れ家を提供し、海賊は見返りとして正規の交易では入手できない大陸の品を供する──そんな取引があるのかもしれない、とは突飛な発想ではないだろう。各国政府に禁輸政策を了承させることはできても、民間の商会や、まして海賊が密かに西へ渡ることまでは取り締まり切れないという点は、アルフレートも認めている。


(だから、イスラズールに武器が流れている可能性もある……のね)


 オリバレス伯爵は、海賊対策と称して詰み込んだ武装──銃とか大砲とか──を見て、大げさな、と笑っていた。行きの航海では海賊船の影さえ見えなかったのに、と。それが惚けているのか、何も知らされていないのか、事実無用の心配なのかは、分からない。


「お前を救出するための艦隊は、すぐに呼び集めておこう。いつでも出発できるように。だから、危険を感じたら迷うことなく報せるのだぞ」

「お兄様……そんな、戦争になってしまいますから。落ち着いて吉報をお待ちくださいますように」


 ティボルトがどこまでも真面目なのが伝わってくるだけに、アンナリーザもまた真剣に諫めた。兄の気持ちは嬉しいし、心強い。でも、そのうえで争いをするために旅立つのではないのだ。あくまでも、今世の祖国マルディバルと──そして願わくば、前世の息子が生きる国にとって良い結果をもたらせるように。それを第一に考えて行動しなくては。


 だから──アンナリーザは努めて明るく微笑んだ。


「──笑って送り出してくださいませ。しばらく会えなくなるのですもの。お父様やお義母様、お兄様の笑顔を目に刻んで行きたいですわ」

「アンナリーザ……」


 父も兄も、まだまだ言い足りないようではあった。でも、アンナリーザのおねだりに応じて、ぎこちなくも笑顔らしい表情を浮かべてくれた。数か月は会うことができない──二度と見られない可能性も皆無ではない、家族の顔だった。


「──行って参ります。すぐに戻りますから、心配なさらないで」


 目の奥が熱くなるのを堪えてアンナリーザは明るく告げて、ドレスの裾を翻した。別れ際に父たちに見せるのは、笑顔でなければならないから。勢い良く、元気良く──そう見えるように、少しはしたないかもしれないけれど、《海狼》号の甲板を目指して段を駆け上がる。


「王女の出発である。祝砲を上げよ……!」


 背中に、父が命じるのが聞こえる。先日の花火とよく似た音が、今は光と色を伴わずに空に響く。砲声に押されるようにして、アンナリーザは最後の一段で少しよろけたけれど──


「アンナリーザ様、お気をつけて」

「あ、ありがとうございます、ユリウス様」


 素早く手を伸ばしたユリウスの腕の中に、受け止められた。そのままの格好で陸に向かって手を振ると、見送りの者たちの歓声が応えてくれる。彼女の名を、祖国の名を叫び、無事を祈る幾つもの声は、帆をはらませる追い風のよう。──そんな感慨を抱く間に、《海狼》号は離岸する。最初はゆっくりと、けれどすぐに風と波に乗って、岸の人たちはみるみるうちにぼやけていく。


(出発したんだわ……とうとう。私はまた、イスラズールに向かっている……!)


 エルフリーデの時も、父王は盛大な見送りの式典を開いてくれた。でも、彼女の胸に届くことはなかった。もう二度と会えないかもしれないのに、そして事実そうだったのに、前世の父母も兄たちも末の王女に対してあまりにもあっさりしていたから。今のアンナリーザよりもずっと幼い少女の胸には、売られていくのだ、という絶望と悲しみだけが深く刻まれた。


 それに比べれば、本気で案じ、何かあれば助け出すとまで言ってくれる家族がいる今の状況は遥かに希望が持てるものだった。


(でも──それでも……)


 不安と寂しさを、まったく感じないという訳にはいかない。同じ思いを抱えているであろう侍女たちやベアトリーチェに心細さを感じさせないよう、翳った表情を見せないよう、アンナリーザは水平線に消えつつあるマルディバルの港街を見つめ、手すりを握りしめた、のだけれど──


「いよいよ、ですね。胸が高鳴ります」

「ディートハルト様……楽しそうですのね……」


 青い空と青い海に実に映える、爽やかな笑顔のディートハルトにぽん、と肩を叩かれて、あらゆる感傷は引っ込んでしまった。それは、この方は家族との別れはとうに済ませて来たのかもしれないけれど。それでも、初めて大陸を離れるのだろうにちょっとした水遊びに出かけたくらいのはいったいどう捉えたものだろう。


「とても、楽しみですよ。姫君との長い旅になるのですから」

「え、ええ……?」


 そう──船の上で、不便かつ危険な、落ち着かない日々を過ごすことになるはずなのに。何でもなさそうな笑顔で言われると、心配することなど何もないような気になってしまう──ような気が、しないでもない。


「私がいることもお忘れになりませんように、殿下」

「無論。お互いに何の気兼ねもなく振る舞えるようになってすっきりしたな、ユリウス」


 太陽の下だからか、海の上だからか、ずいぶんと解放的に語らうフェルゼンラングの貴公子たちは、アンナリーザの緊張を解そうとしてくれているのだ、と。彼女は考えることにした。事実はともあれ、感傷に浸っている場合ではないことを思い出せたのは、良いことだろう。


(ユリウス様はともかく……ディートハルト様のことはどこまで教えたら良いかしら?)


 突然馴れ馴れしい振る舞いを始めたに、不審げに首を傾げたり眉を寄せたりする侍女もいる。フェルゼンラングの王子様だなんて知ったら、船が揺れるような騒動になるのは確実だろう。そう、それを宥めなければ、という意味でも、アンナリーザは忙しい。


(前を向くのよ、アンナリーザ。動き続けるの。今度こそ、後悔なんてしないんだから……!)


 自分にそう言い聞かせた意気込みのまま、アンナリーザはぱん、と手を叩いた。貴公子たちと侍女たちの注目を、一身に集めるために。そうして、潮風に髪とドレスをなびかせながら、告げる。


「おふたりとも、まずは侍女たちに挨拶をさせてくださいませ。共に過ごすのですから、名前をきちんと覚えてくださいますよう。おふたりからも──特にディートハルト様も、改めて自己紹介を、お願いいたします!」


 きっと、航海の間だけでも忙しくて慌ただしくて賑やかになるのだろう。でも──それもきっと楽しいのだろう。今のアンナリーザなら、そう信じられる。


 航海は、今まさに始まったばかりだった。




      * * *


今話で第4章が終わります。「出航!」ということで物語上の第一部完でもあります。第5章は「波は揺れる 心も揺れる」と題して航海中のアンナリーザたちの様子を描いていきます。

また、次回からは基本的に土曜日と水曜日の21時頃に更新していこうと思います。という訳で、次回の更新は8月13日(土)夜です。引き続きお楽しみいただけると幸いです。


物語の区切りということで、今後の参考にご意見ご感想をいただけるととても嬉しいです。また、面白いと思っていただけたら★を入れていただけると励みになります。


今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

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