第13話 真夜中の報せ(一方そのころイスラズールでは)
イスラズールの第一の港ベレロニードに、深夜に密かに入港する船があった。
あるいは、その船は機密の命令を受けていたのかもしれない。正体を明らかにしていなかったのも、その密命ゆえかも。入港したといっても接岸はせず、岸から迎えに来た小舟が乗っていた数人の者を受け入れると、母船は夜闇に紛れてまた去って行ったから。それも、すべて灯りを
* * *
船から降りた者たちは、上陸すると用意されていた馬に乗り、王宮までの道を駆けた。星灯りを頼りの道のりは、大陸の主要な街道を行くよりもずっと高度な馬術を要求される。イスラズールでは、王の住まいまでの道といえどもすべてが舗装されている訳ではないからだ。雨季にあって、地面が泥でぬかるんでいなかったのは彼らにとっては僥倖だっただろう。
彼らは、闇の中に眠る王宮に吸い込まれていった。船の到着の日時は計りづらいものだ。今夜、使いが戻ると予測して待っていられるものではない。ただ──彼らの帰還そのものはあらかじめ分かって、かつ期待されていたのだろう。王宮のあちこちに、立て続けに灯りが点り、人が起きる気配が夜を騒がせた。
そしてしばしの後──王宮の奥の一室で、イスラズール王レイナルドは上機嫌で酒杯を傾けていた。寝間着姿の王に酌をするのは、やはり寝ていたところを叩き起こされたパロドローラ女公爵マリアネラだ。いつもは夢見るように潤んだ目が、今は眠気の膜に覆われて文字通りに半ば夢の中に漂っている。
実質上の妻を抱き寄せて、蜂蜜色の髪に口づけながら、レイナルドはマリアネラの手に書状を握らせた。闇の中を駆けて来た者たちによって、海の向こうから届けられた書簡だった。彼が密かに送った
「吉報だぞ、マリアネラ。お前の親族のオリバレス伯爵が良くやってくれた」
ふわふわとした眼差しで文字を撫でてから、マリアネラは
「レイナルド様……私、難しいことは読めないのですわ。何が書いてあるのでしょう? 教えてくださいませ」
読めないことを恥じる様子もなく、それを承知の夫がわざと書状を渡してきたことへの不快も見せない。どこまでも素直に夫に頼る姿は、レイナルドを満足させたようだった。干した酒杯を──密輸した蒸留酒だった──再び満たさせてから、愚かで可愛らしい
「マルディバルは縁談を断った……これは、フェルゼンラングの入れ知恵かもしれないな」
「まあ……また……?」
「執念深いことだ。過ぎたことをいつまでも……!」
エルフリーデの死について、レイナルドは心も身体も弱かったのだから仕方ない、と認識している。フェルゼンラングが彼に非があるかのように喧伝するのも、縁談を持ち込んだ諸国がそれを真に受けて破談にするのも、理解しがたく不快なことだった。マルディバルについても、そこまではこの二十年に何度となく繰り返したのと同じ帰結になったのだが──
「──だが、マルディバルは宝石に目が眩んだようだ。王女を使節に立てて、交易の交渉を行うことについては同意した、とある」
今回、使節に立てたオリバレス伯爵に課した第一の使命は、縁談を成立させることではなかった。どうせフェルゼンラングが介入することは織り込んだ上で、次の矢を放つよう──国交を開く申し出をするように命じていたのだ。イスラズールの富は、大陸諸国には魅力的に映ること、レイナルドはよく知っている。宝石に心が動かない女はごく少ないということも。
マルディバルの王も王女も、手付金とばかりに贈った宝石に心が動いたということなのだろう。
「それは……王女様がいらっしゃるということ、ですわよね……? この、イスラズールに……」
心細げに呟いたマリアネラは、王女の存在を恐れているのだろうとレイナルドは考えた。彼女が知る唯一の王女という存在は、エルフリーデだけだった。頑固で高慢で、何かとマリアネラを目の
「心配するな、マリアネラ。若いだけの小娘が現われたところで、目移りしたりなどするものか」
「ええ、もちろん。信じておりますわ、レイナルド様」
より間近に抱きしめれば、マリアネラはレイナルドの胸に身体を委ね、細い指が健気にしがみついてくる。幾つになってもこの女は少女のように頼りなく可愛らしく、彼の心を捉えて離さない。守ってやらなければ、と思わせる。──マルディバル王女の容姿のていどは不明だが、甘やかされた小娘が比べ物になるとは思えなかった。
「それに──」
こつり、と額と額を合わせて、眩い碧い目を覗き込んで、囁く。既に何度も告げたことではあるが、マリアネラには何度言い聞かせても足りないようだから。
「その王女は俺たちの
大陸との交易のためと民や臣下が
だが、大陸諸国が認める伴侶がいないからという理由で、彼の息子まで侮られるのは我慢ならない。大陸からの交易品が入らないのも、確かに不都合ではある。ならば、イスラズールに囲い込んだ上で説得するのが良いだろう。イスラズールの資源を直に見せつければ、ここでの法は大陸のそれとは違うのだと理解させれば、王女も納得するはずだ。彼の子は王女とは年回りも近いし、父親ながら見た目も才気も中々のものだと思っている。
母親としても、心が休まることだろうと思うのに。マリアネラの顔色は冴えなかった。
「王妃様は……最後まできちんとお話をできませんでしたわ……」
「俺の妻はお前だけだ。形だけそうであった死人のことを王妃などと口にするな」
疎ましかった前妻を悼むような呟きが不快で、レイナルドは思わず唸った。すると、マリアネラは狼狽えたように眼差しを揺るがせた。
「ごめんなさい……! あの……マルディバルの王女様のこと、私、頑張りますから。色々と……分かっていただけるように」
おろおろと手を伸べて、縋りつくように見上げるマリアネラのしおらしさを見て、レイナルドの機嫌は一瞬にして回復した。なぜか震える妻を宥めて、頬に額に口づけを落とし、優しく髪を梳いてやる。
「今度こそ物分かりの良い女であって欲しいものだな。小国の王女が、そこまで気位が高いということもないだろうが」
「……ええ……」
妻の身体が強張ったままなのが、やや不満ではあったが。愚かな女のこと、王女との対面を思って震えているのだろうとレイナルドは解釈した。マリアネラの美貌なら不安に思うことなどなにもないのだろうに。
「──王女を出迎える時にはあの蝶の飾りを着けたらどうだ? 華やかで良いだろう」
寝起きの妻が、装飾品を身に着けていないのにふと気付いて、提案してみる。先日贈った宝石の蝶を思い出したのだ。絢爛な輝きを放つ豪奢な
「あれは──あの、いえ。……はい。良い考えだと思いますわ」
「そうだろう」
ようやく笑みを浮かべたマリアネラの表情が、まだどこか硬いのが気懸かりではあったが──それだけ不安なのだろうと察して、レイナルドは優しく抱き締めてやった。
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