第13話 真夜中の報せ(一方そのころイスラズールでは)

 イスラズールの第一の港ベレロニードに、深夜に密かに入港する船があった。


 船の巣ベレロニードの名の通り、外洋の高波も風も受けない入り江は、イスラズールの発見以来、百年に渡って、航海者が長旅で傷んだ船を休ませてきた隠れ家だ。この二十年ほどは、停泊するのは王の所有の大型船か、フェルゼンラングの禁輸政策を掻い潜って辿り着いた密輸船、あるいは大陸諸国からの追手を逃れた海賊船ばかりだったが。今宵の船も同類なのだろう、少なくとも所属する国を表す旗の類は掲げていない。人目を憚るような時刻の入港は、船倉に積んだ品を期待した民が集まるのを避けるためだろう。砂糖に香辛料、煙草に酒──イスラズールでは自生しないか生産できない嗜好品は、もっぱら密輸品に頼るしかない現状だから、大陸からの船は出自を問わずに歓迎されるのが今のこの国では常だった。


 あるいは、その船は機密の命令を受けていたのかもしれない。正体を明らかにしていなかったのも、その密命ゆえかも。入港したといっても接岸はせず、岸から迎えに来た小舟が乗っていた数人の者を受け入れると、母船は夜闇に紛れてまた去って行ったから。それも、すべて灯りをともすことさえしない中でのことだった。船は、民が眠っている間に岬を隔てた別の入り江に錨を下ろすことだろう。


      * * *


 船から降りた者たちは、上陸すると用意されていた馬に乗り、王宮までの道を駆けた。星灯りを頼りの道のりは、大陸の主要な街道を行くよりもずっと高度な馬術を要求される。イスラズールでは、王の住まいまでの道といえどもすべてが舗装されている訳ではないからだ。雨季にあって、地面が泥でぬかるんでいなかったのは彼らにとっては僥倖だっただろう。


 彼らは、闇の中に眠る王宮に吸い込まれていった。船の到着の日時は計りづらいものだ。今夜、使いが戻ると予測して待っていられるものではない。ただ──彼らの帰還そのものはあらかじめ分かって、かつ期待されていたのだろう。王宮のあちこちに、立て続けに灯りが点り、人が起きる気配が夜を騒がせた。


 そしてしばしの後──王宮の奥の一室で、イスラズール王レイナルドは上機嫌で酒杯を傾けていた。寝間着姿の王に酌をするのは、やはり寝ていたところを叩き起こされたパロドローラ女公爵マリアネラだ。いつもは夢見るように潤んだ目が、今は眠気の膜に覆われて文字通りに半ば夢の中に漂っている。


 実質上の妻を抱き寄せて、蜂蜜色の髪に口づけながら、レイナルドはマリアネラの手に書状を握らせた。闇の中を駆けて来た者たちによって、海の向こうから届けられた書簡だった。彼が密かに送ったの使節が、その首尾を報告してきたのだ。とはいえ使節はいまだ大陸に留まっている。金で雇われた海賊船が、書簡を託されてきた、ということだった。


「吉報だぞ、マリアネラ。お前の親族のオリバレス伯爵が良くやってくれた」


 ふわふわとした眼差しで文字を撫でてから、マリアネラはにしなだれかかりながら書状を返した。


「レイナルド様……私、難しいことは読めないのですわ。何が書いてあるのでしょう? 教えてくださいませ」


 読めないことを恥じる様子もなく、それを承知の夫がわざと書状を渡してきたことへの不快も見せない。どこまでも素直に夫に頼る姿は、レイナルドを満足させたようだった。干した酒杯を──密輸した蒸留酒だった──再び満たさせてから、愚かで可愛らしいに、上機嫌で教えてやる。


「マルディバルは縁談を断った……これは、フェルゼンラングの入れ知恵かもしれないな」

「まあ……また……?」

「執念深いことだ。過ぎたことをいつまでも……!」


 エルフリーデの死について、レイナルドは心も身体も弱かったのだから仕方ない、と認識している。フェルゼンラングが彼に非があるかのように喧伝するのも、縁談を持ち込んだ諸国がそれを真に受けて破談にするのも、理解しがたく不快なことだった。マルディバルについても、そこまではこの二十年に何度となく繰り返したのと同じ帰結になったのだが──


「──だが、マルディバルは宝石に目が眩んだようだ。王女を使節に立てて、交易の交渉を行うことについては同意した、とある」


 今回、使節に立てたオリバレス伯爵に課した第一の使命は、縁談を成立させることではなかった。どうせフェルゼンラングが介入することは織り込んだ上で、次の矢を放つよう──国交を開く申し出をするように命じていたのだ。イスラズールの富は、大陸諸国には魅力的に映ること、レイナルドはよく知っている。宝石に心が動かない女はごく少ないということも。

 マルディバルの王も王女も、手付金とばかりに贈った宝石に心が動いたということなのだろう。


「それは……王女様がいらっしゃるということ、ですわよね……? この、イスラズールに……」


 心細げに呟いたマリアネラは、王女の存在を恐れているのだろうとレイナルドは考えた。彼女が知る唯一の王女という存在は、エルフリーデだけだった。頑固で高慢で、何かとマリアネラを目のかたきにしたあの女と同種の存在がまた現われるとなれば、優しい妻が心を痛めるのも無理はない。


「心配するな、マリアネラ。若いだけの小娘が現われたところで、目移りしたりなどするものか」

「ええ、もちろん。信じておりますわ、レイナルド様」


 より間近に抱きしめれば、マリアネラはレイナルドの胸に身体を委ね、細い指が健気にしがみついてくる。幾つになってもこの女は少女のように頼りなく可愛らしく、彼の心を捉えて離さない。守ってやらなければ、と思わせる。──マルディバル王女の容姿のていどは不明だが、甘やかされた小娘が比べ物になるとは思えなかった。


「それに──」


 こつり、と額と額を合わせて、眩い碧い目を覗き込んで、囁く。既に何度も告げたことではあるが、マリアネラには何度言い聞かせても足りないようだから。


「その王女は俺たちのになる。お前が色々と教えてやれば良い。エルフリーデは聞かなかったが──年長者からの言葉となれば、また違うだろう」


 大陸との交易のためと民や臣下がつつくから、二十年に渡って再婚を試みては破談を繰り返して来たのだ。大陸あちらの常識がおかしいのは重々承知したが、だからといってレイナルドの矜持が傷つかないということはない。だから──彼は諦めた。というか、放棄することにした。少なくとも、彼自身の結婚については。


 だが、大陸諸国が認める伴侶がいないからという理由で、彼の息子まで侮られるのは我慢ならない。大陸からの交易品が入らないのも、確かに不都合ではある。ならば、イスラズールに囲い込んだ上で説得するのが良いだろう。イスラズールの資源を直に見せつければ、ここでの法は大陸のそれとは違うのだと理解させれば、王女も納得するはずだ。彼の子は王女とは年回りも近いし、父親ながら見た目も才気も中々のものだと思っている。


 母親としても、心が休まることだろうと思うのに。マリアネラの顔色は冴えなかった。


「王妃様は……最後まできちんとお話をできませんでしたわ……」

「俺の妻はお前だけだ。形だけそうであった死人のことを王妃などと口にするな」


 疎ましかった前妻を悼むような呟きが不快で、レイナルドは思わず唸った。すると、マリアネラは狼狽えたように眼差しを揺るがせた。


「ごめんなさい……! あの……マルディバルの王女様のこと、私、頑張りますから。色々と……分かっていただけるように」


 おろおろと手を伸べて、縋りつくように見上げるマリアネラのしおらしさを見て、レイナルドの機嫌は一瞬にして回復した。なぜか震える妻を宥めて、頬に額に口づけを落とし、優しく髪を梳いてやる。


「今度こそ物分かりの良い女であって欲しいものだな。小国の王女が、そこまで気位が高いということもないだろうが」

「……ええ……」


 妻の身体が強張ったままなのが、やや不満ではあったが。愚かな女のこと、王女との対面を思って震えているのだろうとレイナルドは解釈した。マリアネラの美貌なら不安に思うことなどなにもないのだろうに。


「──王女を出迎える時にはあの蝶の飾りを着けたらどうだ? 華やかで良いだろう」


 寝起きの妻が、装飾品を身に着けていないのにふと気付いて、提案してみる。先日贈った宝石の蝶を思い出したのだ。絢爛な輝きを放つ豪奢なはねは、異国の王女にイスラズールの富と、義母となる女の美しさを見せつけるだろう。


「あれは──あの、いえ。……はい。良い考えだと思いますわ」

「そうだろう」


 ようやく笑みを浮かべたマリアネラの表情が、まだどこか硬いのが気懸かりではあったが──それだけ不安なのだろうと察して、レイナルドは優しく抱き締めてやった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る