第12話 夜空の花は航路を照らす

 空に散りばめられた星を、人が作った炎の花の煌めきが圧倒していく。赤や黄色、青に緑──黒い夜空に花弁を広げるような形のもの、高く火柱を上げるようなもの。色とりどりの輝きは、宴に集った貴顕の衣装や宝石を、いっそう眩く輝かせるだろう。《彩鯨アイア・バレーナ》号の周辺に配した船では、職人が花火を絶やさないように走り回っているはずだった。


 空を彩る花火の色に見蕩れていたのも一瞬のことだった。アルフレートは、アンナリーザの耳元に早口で囁く。


「宴もたけなわ、という訳ですな。王女殿下がいらっしゃらないのでは収まりますまい。──早く、お戻りを」

「え、ええ」


 確かに、そろそろ彼女の姿を探す者も出てくるかもしれない。宴の終わりには、アンナリーザはまた挨拶を述べなければいけないし。

 美しい拳銃を収めた小箱を胸元に抱いて、ドレスの裾を翻して──駆け出す前に、アンナリーザはアルフレートを見上げた。彼女エルフリーデの記憶にあるよりもずっと老いて、疲れさえ滲ませた彼の顔を。


「……またお話がしたいと思っております。無事に帰ることができたなら。イスラズールには、きっと思い出もおありなのでしょうね……?」


 エルフリーデとしては、アルフレートに言いたいことは山ほどあった。けれどそのほとんどは恨み言や泣き言で、しかもアンナリーザとしては口にできないことだった。陰謀に巻き込まれる形になったことについても、理不尽だと思う。必要もないのに彼と会おうとするなんて、少し前なら考えられなかったのだけれど。


にお言付けしたい方はいらっしゃいませんか? お気に懸けていらっしゃることは……?」


 フェルゼンラングの企みを聞き出してやろうということではなく、純粋な配慮として問うたのを、分かってくれたのだろうか。アルフレートは穏やかに苦笑した。


「かの地にあるのは後悔ばかりですな。何を見ても聞いても、もしも、を考えずにいられそうにはありませんが──」


 また、彼は遠い、届かない過去を見る眼差しをした。花火の煌めきが、皺の刻まれ始めた頬にいっそう濃いかげを刻む。──でも、アンナリーザに微笑みかけた時のアルフレートの目には、精気と呼べるものが宿っていると、見えた。


「王女殿下のお話ならば、また違うかもしれません。エルフリーデ様が叶わなかった分──と、私が言うのもおこがましいのですが──思う存分、活躍なさいますように」

「ええ……きっと。素敵なお話をお土産にしたいと思います……!」


 無事に帰る理由が増えたのを感じながら、アンナリーザは力強く頷いた。アルフレートは確かに、またとない餞別せんべつをくれたと思う。我を通す覚悟、その手段、故郷で待つ人を。


 今度こそ、お別れの挨拶の時だ。出航の儀式には、アルフレートは参列できないから。心からの敬意と親愛の情を込めて、アンナリーザはドレスの裾を裁くと腰を下げ、頭と目線を垂れた。


「ごきげんよう、侯爵様」

「ごきげんよう──良い風と波をお祈り申し上げます」


 アルフレートの返礼も、この上なく優雅で洗練されたものだった。最後に微笑みを交わし──アンナリーザは、前世から知る人に背を向けた。


 父たちがいる、王族用の席を目指して足を踏み出した瞬間、アンナリーザは気付いてしまった。


(これ……どうしたら良いのかしら)


 貴婦人の盛装にものを隠す余地なんてないのだ。アルフレートからもらった拳銃の箱は、見た目は宝石箱のように豪奢な装飾が施されているけれど、父か兄に見咎められたら開けて見せない訳にはいかないし、中身を見られたら言い訳するのが面倒なことになる。


 迷いによって足を止めかけたところで、手袋をした手がさっと伸びて、箱をアンナリーザの手中から取り去っていった。ディートハルトだ。


「私がお預かりします。出航の時に必ずお渡ししますね」

「あ──は、はい。よろしく、お願いいたします」


 どこをどう見ても王子様にしか見えない──まったく従者らしくない──貴公子の美貌を、アンナリーザは瞬きしながら見上げた。いつも通りに、状況を今ひとつ分かっていないような気がしてならない爽やかな笑顔、なのだけれど。


(臣下のたっての願いを、危険を冒して叶えてあげた……ということになるのかしら?)


 アルフレートと共に、変装してまで《彩鯨アイア・バレーナ》号に乗り込んでくれたということは。……それさえも、ことの重要性が分かっていなかっただけかもしれないけれど。とにかく、彼は意外と優しくて、しかも大物なのかもしれない。


 複雑な思いを呑み込み切れないまま、アンナリーザは首を傾げ──言うべきことを、言った。


「……ありがとうございます」

「とんでもない。旅が、楽しみですね」


 アルフレートへの配慮の分も込めての感謝だったのだけれど、ディートハルトは単に箱を預かることについてだけだと捉えたのかもしれない。やはり、掴みどころのない御方だった。


 ディートハルトがアンナリーザの手に口づけて身体を翻したのと、ティボルトの声が彼女を呼んだのはほぼ同時だった。


「アンナリーザ、どこへ行っていた? 心配したぞ」

「申し訳ございません、お兄様。従者の方にも声をかけていただいたものですから」


 アンナリーザは慌てて兄に駆け寄ると、その腕にしがみついた。王女に話しかけた従者を、兄が罰しようなどと思わないように。幸い、ディートハルトは素早く人込みに紛れることに成功したようだった。王子様が忍び込んでいたことは、誰にも気づかれていない……だろう。


 兄がアンナリーザを探していたのは、父母の命令を受けてのことのようだった。兄妹が小走りでやってくるのを見て、母は安堵したように微笑んだから。


「早くこちらへいらっしゃい、アンナリーザ。花火がよく見えますから」

「はあい、お母様」


 王族用の席は、一段高くしつらえられた壇になっている。つまりはほかの来客からも国王一家の姿がよく見えるということ。宴の最大の催しを、アンナリーザがちゃんと見ているという体裁が必要なのだ。


 そして壇上には、主賓であるユリウスも彼女を待っていた。銀髪の貴公子は、アンナリーザが隣に並ぶのを待ちかねていたかのように身をかがめ、彼女の耳に囁いた。


「驚かせて申し訳ございませんでした。おふたりとも、どうしてもと仰ったので……」

「いいえ! 有意義なお話ができまました」


 手引きをしたのが彼自身なのだから、ユリウスはもちろんアルフレートとディートハルトのを知っているのだ。ディートハルトと踊ったのも見ていたかもしれないし、彼女が一時姿を消していた理由を察しているのだろう。


「侯爵様にご挨拶ができて、私も嬉しく思いましたわ。贈り物もしていただきましたの。ユリウス様が使い方を教えてくださるのですよね……?」


 花火の音が鳴り響く中でのことだし、来客の話し声によっても場内は賑やかだ。内緒話をするにはうってつけの場のはずだけれど、父母や兄が間近にいると思うと、アンナリーザの鼓動は速まった。それになぜか、頬も熱くなるような気がする。


「はい、喜んで。使う機会などないように務めますが」

「とても、心強いですわ。いえ、贈り物が、ではなくて。お気遣いをいただけることが」


 銃をもらって喜ぶ娘だと思われるのは、よろしくない。それにしても、鼓動の速さに押されて不自然に早口になってしまわなかっただろうか。もはや、夜空を見上げる余裕はなかった。花火の煌めきは、ユリウスの眼鏡のレンズにうつる反射として見るだけで。彼との密かなやり取りを、気付かれず、かつおかしなことを口走ることなく終えなければと、それだけで。


 アンナリーザの焦りを感じたのだろうか。ユリウスの翠の目が、ふ、と笑んだ。手袋をした手が彼女の髪に──そこを飾る蝶に伸びて、けれど触れずに止まる。


「髪飾りがとてもよくお似合いです。花火の色が映えて、はねが燃えているかのようで──」

「あ、ありがとうございます」


 彼女自身では見られないけれど、きっと宝石の翅は一段と美しいのだろう。ユリウスにしてみれば、異国への憧れも募って当然だ。


「イスラズールの地を踏まれるのが、とても楽しみでいらっしゃるのでしょうね……?」

「ええ、とても」


 大きく頷いたユリウスの頬も赤くなっているのは、花火か篝火の色が映えたからだろう。声に力がこもっているのも、本物の蝶が飛ぶ様を思い描いたからに違いない。


(ユリウス様もディートハルト様も、楽しみだと仰ってくださったのね……)


 それぞれぽろりと出た言葉だから、ふたりとも、たぶん本心で言ってくれているのだろう。旅行ではないのに、と呆れる気持ちは、少しはある。でも──アンナリーザ自身も、心が浮き立つのを止められなかった。


 花火の眩い光に圧倒されて、西の空も海も今は闇に沈んでいる。先の知れない不安も、もちろん感じるけれど──新しい航路は新しい未来を拓くのだろうと、信じたかった。

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