第11話 今度こそは悔いがないように

 篝火の灯りが遮られる物陰に入ると、光源は仄かな月と星の光だけ。宴の眩さに慣れていたアンナリーザの目には、一瞬、真っ暗闇だと思えたほどだった。でも、数度、瞬きをすると分かる。積み上げた酒樽や予備の椅子などの影に佇んでいたのは、確かに彼女が知る人物だった。


「アルフ──ラクセンバッハ侯爵様! 貴方ともあろう方が、こんな無茶をなさるなんて……!」


 アルフレート、と呼び捨てにしかけたのは、気づかれていないと良い。心の中での呼び方が漏れてしまうくらいに、アンナリーザは驚いていたし動揺していた。だって、アルフレートは五十も近い良い大人で、経験を積んだ冷徹な外交官で──だから、身分を隠してのお忍びだなんて、今さらやるはずはないのだ。


 でも、確かに彼だった。夜の闇の中でも間違いようがない。宮廷の舞踏会さながらに優雅に振る舞うディートハルトとは違って、さすがに緊張しているようではあったけれど。


「父君様には、改めて誠心誠意、お詫び申し上げます。オリバレス伯爵が発った後ならば、私が姿を見せても問題ございませんからな」


 それに、アルフレートは従者の扮装が似合っていた。控えめな物腰に、洗練された品の良い仕草。こんな執事が欲しいと、きっと誰もが思い浮かべるような佇まいだった。でも、開き直ったようなふてぶてしい笑みが従順な使用人の印象を覆してしまう。


(アルフレート……こんな顔も、するのね)


 柔和で、若いころには気弱にさえ見えたこともあったのに。意外な一面を、今さらながらに知った気がして、アンナリーザは苦情も忘れてまじまじと彼を見つめた。と、アルフレートは小さく息を吐いて笑みを翳らせた。


「……殿下をユリウス殿だけに任せる訳にはいかなかったのです。それはお分かりいただけましょう」

「ええ……とても」


 ふたりの視線を受けて首を傾げる、ディートハルトの碧い目が闇に煌めいていた。アルフレートの溜息混じりの呟きも、アンナリーザの心を込めた頷きも、王子様の腑に落ちていないようだった。


(確かに、この方をひとりで放っておくことなんてできないでしょうけれど──)


 でも、それならディートハルトを連れて来ない方向に全力を尽くして欲しかった。王女の不在がいつ見咎められるか気が気ではないし、人が探しに来てしまったら、いるはずのないフェルゼンラングのたちの存在をどう弁明すれば良いのか、困ったことになってしまう。


「侯爵様、あの」

「承知しております」


 時間も余裕もないのは、アルフレートも承知しているようだった。多くを聞く前に、彼は懐から小さな箱を取り出すとアンナリーザの手に押し付けた。


「どうしてもお渡ししたいものがございました。これを、お持ちくださいますように」

「そんな──何なのですか……!?」


 オリバレス伯爵に蝶を押し付けられた時とよく似た状況に、アンナリーザは咄嗟に手を引こうとする。でも、アルフレートはそれを許さず、彼女の手を包み込むようにして強引に箱の蓋を開かせた。そこに、収まっていたのは──


「きゃ──」


 掌に収まるほどの、華奢な拳銃だった。銃把グリップに施された銀の装飾が、星灯りで密やかに輝いている。精密な機構ではあるのだろうし、黒い天鵞絨ベルベットに収まった姿は一種の芸術品にさえ見える。でも、それは間違いなく恐ろしい武器だった。


 手を震えさせるアンナリーザを、アルフレートはしっかりと支えた。二十年振りに──そしてアンナリーザとして今の人生では初めて感じる彼の体温に、頬が熱くなるのが分かる。ここが暗がりでなかったら、彼にも、ディートハルトにも見られてしまっただろう。


「先日の勇ましさはどうなさいましたか。言葉だけでレイナルド王に立ち向かうおつもりでしたか? イスラズールは開拓者の国、腕に覚えがある者もまだまだ多いでしょう」


 叱咤するようなアルフレートの声も、初めて聞く響きをしていた。手を握られたからだけでなく、厳しいその声の調子とその内容によっても、アンナリーザは動揺してしまう。


「でも……でも、私は争いに行くのではありませんわ……!」

「残念ながら、非力な者の言葉は顧みられないのですよ」


 銃を持たされているだけでも爆弾を抱えたように恐ろしいというのに。アルフレートはなおも恐ろしいことを、厳しい口調と顔つきで囁いてきた。人目を憚っているから、なのだろうけれど──握った手の熱と、耳元に感じる吐息と。銃の重さと相まって、やけに心臓の鼓動が早くなってしまう。


「姫君とは、非力なものなのでしょうな、本来は。私のこの行いも間違っている。世間知らずの王女殿下の御言葉に心が動かされてはならないし、何があろうと我が王の命令を遂行すべきなのですが──」

「違うと仰るのですか!?」


 外交官にあるまじきことを仄めかされて、アンナリーザは思わず声を上げていた。幸いに、宴のほうでは誰かの何かの発言によって歓声が湧いて、聞きつけられることはなかったと思うけれど。


「もっと早くこうしておけば、と思ったのですよ。エルフリーデ様にもをお渡ししていればどうだっただろうか、と」

「……王を脅す王妃なんて聞いたことがありませんわ……」


 アルフレートは、やっと手を放してくれた。自分だけの力で銃の存在を抱えながら、アンナリーザは呆然と呟いた。エルフリーデだった時にこの重みが手中にあったら──彼女はどうしていただろう。レイナルドに突き付けるなんて、恐ろしくてできなかった? 取り上げられてより酷い目に遭わせられたかもしれない。でも、その逆も──あの男にまともに話を聞かせることも──できたかもしれない。


「やりたいようにやる、と言い放つ王女様にもお目に掛かったことがございませんでした」


 アルフレートは、彼女に選択肢をくれたのだ。交渉の可能性を広げてくれた。彼は知らないけれど、二十年越しに、エルフリーデの死を越えて。あの時して欲しかったをしてくれた。


(嬉しい……かしら……?)


 やっと肩の力を抜くことができて、アンナリーザは少し微笑んだ。


「私、銃の使い方なんて存じませんわ」

「殿下とユリウス殿が知っています。航海中に教わってください」


 アルフレートの目線を受けて、ディートハルトは眩く微笑んだ。文字通りに。彼の白い歯が光るのが見えたから。


「それに、イスラズールで火器を持つ者は少ないですから。見せるだけでも一定の効果はございましょう。というか、それ以外の使い方をなさることがないように願いたいのですが」

「そう……そうですわね。心します」


 銃器についての知識はなくても、こんな華奢な銃で何発も撃てないであろうことくらいは分かる。イスラズールの民の知識はアンナリーザに劣るかもしれないけれど、御守りていどと心得るのが良いのだろう。それでも、アルフレートが彼女のために職務を逸脱してくれたのだと思うと、心強い。


「……貴方がここまでしてくださるとは思ってもみませんでした」


 かつては──エルフリーデには、何もしてくれなかった彼なのに。二十年も経って、縁薄い異国の王女にはずいぶんと手厚いことだと思ってしまう。不審というよりは純粋な疑問をぽろりとこぼすと、アルフレートは苦笑しつつ頭を振った。追憶を、振り払おうとするかのような仕草だった。


「エルフリーデ様にはできなかったことを──と言ったところで、アンナリーザ様もあの御方も喜ばれないでしょうな。貴女様はあの御方とは違う。その、別の方だというだけではなくて、お姿も気性も、何もかもが……」


 遠くを見る彼の目が、前世の自分エルフリーデを見ていると思うと少し居心地が悪かった。アンナリーザの表情をどう捉えたのか、アルフレートはすぐにの彼女に視線を戻してくれたけれど。


「だから、今度こそは悔いがないように、ということなのでございましょうな」

「年配の御方に悔いを残させる訳には参りませんわね。いただいたは、心して使います。そして──必ず無事に戻るように努めます。……ありがとう、ございます」


 素直な感謝の言葉が、アンナリーザの唇から自然にこぼれ落ちた。それが意外だったのか、アルフレートは驚いたように目を見開いた。彼がどう答えようとしたのか──でも、アンナリーザは知ることができなかった。アルフレートが口を開く前に、真昼のような明るさが彼の顔を照らしたのだ。続けて、大砲のような音が立て続けに鳴り響く。


「──花火だ。すごいな、こんなに……!」


 ディートハルトも、かつてなく砕けた口調で驚嘆を顕わにしていた。宴の最後を締めくくる花火が、次々と夜空に打ち上げられ始めたのだ。

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