第10話 招かれざる客もまた宴に踊る

 最初の曲はワルツだった。波に揺られる《彩鯨アイア・バレーナ》号の動きそのものを思わせるゆったりとした三拍子は、足ならしにはぴったりだ。踊りながら言葉を交わす余裕があるのも、ちょうど良かった。


 少し高いところにあるユリウスの顔を見上げて、アンナリーザはそっと囁きかけた。


「あの……気になっていたのですけれど。踊られても、大丈夫なのでしょうか?」


 今日も、彼は眼鏡をかけている。人の顔が分からなくては社交にならないから当然だけど、踊っているうちに滑り落ちてしまわないのか心配だった。


「速い曲や激しい曲は苦手です。……というか、周囲の方が危険なので」

「まあ、やっぱり?」


 回転した拍子に眼鏡が吹っ飛ぶところを想像してしまって、アンナリーザは吹き出しそうになった。そうして体勢が崩れたのを、ユリウスは卒なく支えてリードしてくれる。野性侯爵ヴィルダーフュルストの子息といえど、フェルゼンラングの貴公子はさすがにこういう席には慣れていたようだ。船の甲板の木材は宮廷の大理石の床とは違う感触だけど、彼のステップには危なげがない。順番を待つ貴婦人も多いだろうに、ワルツしか踊る気がないなら残念だった。


「ワルツが終わったら、お相手の栄誉はティボルト殿下にお譲りしましょう。ずっとこちらを見ていらっしゃいますから」


 本当だった。

 ユリウスと組んでくるくると回るアンナリーザの視界に、ティボルトの顔が入ってはまた通り過ぎる。兄もどこかの令嬢と踊っているのに、妹ばかりに気を取られているのはいかがなものだろう。


(私がいない間に、縁談が纏まったりしないのかしら……?)


 マルディバルでも周辺の港国でも、兄に憧れる姫君は多いのだろうに。アンナリーザも、義姉や甥姪との交流が楽しみなのに。……特に、イスラズール行きが不首尾に終わった場合、彼女は一生実家に留まることになるかもしれないのだから。


 ともあれ、今は晴れがましい席で、目の前にはユリウスがいる。兄のことはひとまず意識の外にやって、アンナリーザはダンスの相手に微笑みかけた。


「ヴェルフェンツァーン侯爵家は、冒険を好む家風と伺いました。森や山の中ではどうなさっているのですか?」

「予備を幾つも持ち歩いているのですよ。多少の修理なら自分でできますし。帰国するまで持たせることはできるでしょう」


 ワルツの緩やかな拍子は、踊りながら話をするのにも最適だった。船の中でも、話す機会はたっぷりあるのだろうけれど──ふたりきりで、となると貴重な時間だから。


「大立ち回りはないように、願います。万が一にも予備がなくなることはないように──ちゃんと、私の顔を見ていただきたいですもの」

「私も同感です」


 ユリウスが深く頷いたのは、眼鏡の予備の心配か、それともアンナリーザの顔を見ていたいと思ってくれていたのか──追及する前に、曲は終わってしまった。次の曲では相手を変えなければならない。ふたりはそれぞれ、違う人の塊に呑み込まれた。


 予想した通り、アンナリーザは喉を潤す暇さえなく、押し寄せる人波に立ち向かう羽目になった。


「アンナリーザ様、素晴らしい髪飾りですわね……! とてもよくお似合いですわ」

「ありがとう。イスラズールにはこんな蝶が飛んでいるそうですのよ。この目で見るのが楽しみですの」

「今回の交易には我が家も出資させていただきました。波と星にご無事を祈っております」

「感謝申し上げます。西からの風が吉報を運びますように」

「ベアトリーチェをお連れになるとか。そのような衣装を披露なさっておいて、酷いことをなさいますわね?」

「あら、でも、本人はイスラズールで良い着想が得られそうだと申しておりましたから。帰国の折にはきっと新しい流行を生んでくれます。しばしの間、お待ちくださいませ」


 一曲相手を務めることもあれば、会話だけで済むこともある。父や母や兄が傍にいる時も、彼女だけの時も。何かしらの口実で誰かしらを紹介されたかと思えば、別れを惜しみ無事を祈るために呼び掛けられることも。──そして、当然のようにイスラズールの使者、オリバレス伯爵も主賓のひとりとして遇さなければならない。


「我が王からの贈り物を身に着けていただき、大変嬉しく存じます、王女殿下。殿下の輝くおぐしには、はねを広げた蝶も似合うかと存じましたが……?」


 母とアンナリーザが身に着けたイスラズールの宝石の評判は上々で、伯爵も鼻高々のようだった。それでも、蝶が両翅を広げた意匠にしておけば、輝きも倍になっていたのに、と一抹の不満が見え隠れするあたり、イスラズールの外交の不慣れさが透けていた。


「夜の空は蝶も飛びづらいだろうと思いましたの。羽ばたかせるのは、レイナルド陛下に御礼を申し上げる時にしようかと考えております」


 オリバレス伯爵は、感情が漏れていることに気付いていないようだ。それに、彼さえ知らない情報を、アンナリーザが握っていることも。


(やっぱり、本来は対になる意匠なのね。そして、あの手紙はマリアネラが独断でやったこと……この方でさえ、誰が片翅を持っているのか知らないみたい……?)


 アンナリーザの反応次第で、伯爵が不審に思うことを想定できなかったのだとしたら、しょせんマリアネラの浅知恵なのか、何か事情があったのか──いずれにしても、イスラズールに行かなければ分からないことだ。


「今は、陛下にお会いするのがとても楽しみですわ」


 あながち嘘でもなく言い切ったところで、オリバレス伯爵はほかの来賓に声を掛けられてアンナリーザの前から辞していった。一方の彼女には、またも踊りの申し込みが舞い込んでくる。


「アンナリーザ様。次は私と踊っていただけますか?」

「ええ、もちろ、ん……!?」


 王女の義務として快諾しようとして、アンナリーザの声は途中でひっくり返った。


「どうして……貴方が……!?」


 星空も輝くほどの眩い笑みで、アンナリーザに手を差し伸べていたのは、ディートハルト王子だったのだ。


「私の顔を知る者はマルディバルにはほとんどいません。ユリウスの従者扱いで乗船させてもらいました」


 それは、確かに。間近な令嬢たちの囁きや目線は感じるけれど、皆、アンナリーザの衣装や宝石、ディートハルトの美貌──悔しいことにこの王子様は顔は良い──を話題にしているだけのようだ。今宵、招かれたフェルゼンラング人はユリウスだけ、それも、国の政策とはかかわりのない個人的な投資ということになっている。王子がこの場にいるなんて、誰も──フェルゼンラングを警戒しているであろうオリバレス伯爵でさえ想像していないだろう。その、はずではあるのだけれど。


「でも──こんな、目立つことをなさっては」


 もう少し、何というか人目を憚る風情ふぜいを見せてほしかった。堂々としていたほうが見咎められないものかもしれないけれど、ディートハルトはそこまで考えていない気がしてならなかった。


 差し伸べられた手を無視して突っ立っている訳にもいかなくて、アンナリーザは仕方なくディートハルトの手を取った。曲が、緩やかなワルツに戻っているのを幸いに、踊りながら小声で問い詰めることにする。


「……とても従者には見えませんわ。従者はもっと密やかに控えるものだと思っておりました」

「申し訳ありません。慣れていないものですから」


 それは、そうだろう。笑顔を保ったまま、アンナリーザはこっそりと溜息を吐いた。


「令嬢の列ができてしまいそうです。名前を聞かれたらどうなさるおつもりですか」


 さすがに王子様だけあって、ディートハルトのリードは巧みだった。くるりとアンナリーザを回転させて、ドレスのトレーンを舞わせて、彼は綺麗な笑みを浮かべた。


「ファルケンシュタイン伯爵とでも名乗りましょうか。ご存知ですか? フェルゼンラングの王族は、しばしばこの変名を好んでお忍びするのですが」


 ディートハルトが得意げに囁くその称号を、アンナリーザはもちろん。フェルゼンラングの民は、ファルケンシュタイン伯爵なる人物が現われても、そっとしておくことを弁えている。もしかしたら、密かに背筋を正したりするかもしれないけれど。王様も王子様も、ひとりで街や村を散策したい時もあるのだと、分かってくれているのだ。堅苦しいあの国にしては、気の利いた伝統だと思う。


 でも、それはつまり──


(知っている人は知っている名前ということじゃない!)


 踊っている時でなければ、両手で頭を抱えて叫びたいところだった。けれどもディートハルトは上機嫌らしく、大きく踏み出す長い脚についていこうとすると、声を張り上げる余裕もなさそうだった。


「最初で最後かもしれないのです。海の上での祝宴を、どうしても見たかったものですから」

「そのような──ご身分を明かして来ていただけることを、私も父も待ち望んでおります」


 ディートハルトが、なぜか憂いに満ちた眼差しをした気がした。碧い目が、夜の海のような昏い色に染まったような。──でも、本当に気のせいだったのかもしれない。彼の表情を窺おうと、アンナリーザが少し背伸びをすると、ディートハルトは待ち構えていたように彼女の耳に唇を寄せたのだ。


「それに、ラクセンバッハ侯爵も貴女に挨拶したがっています。今夜は彼が従者の扮装ですよ。なかなか似合っているので、是非、会って差し上げてください」

「ディートハルト様……!?」


 今、何と言ったのだろう。耳を疑い目を瞠るアンナリーザに、ディートハルトは悪戯っぽく微笑んだ。……気がつけば、踊っているうちにふたりは会場の隅に来ていた。たくさんの篝火は、《彩鯨アイア・バレーナ》号の甲板のすべてを照らしている訳ではない。使用人が料理や飲み物の準備に動き回る一角は、むしろ影になるように調整されている。ディートハルトは、そんな暗がりのひとつにアンナリーザを導いた。

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