第9話 《彩鯨》号の背に光は集って

 窓の外からは波のざわめきが聞こえてきていた。目を向ければ、漆黒の闇──の中に、幾つもの光の点が揺れている。空に輝くの満点の星、波間に煌めくのは《彩鯨アイア・バレーナ》号での祝宴に出席すべく集った貴顕の船だ。それぞれの船の中では、貴婦人たちが髪型やドレスの最終確認に余念がないはずだ。今のアンナリーザと同じように。


「とても、素敵ですわ、アンナリーザ様……!」


 ドレスを纏い、髪を結い上げたアンナリーザを見上げて、侍女がほう、と溜息を吐いた。鏡に映る自分の姿は確かに満足のいくものだったから、アンナリーザも自信を持って頷ける。


「ありがとう。さすがベアトリーチェの最新作ね。想像以上の出来栄えよ」


 ドレスの色は、白。夜の屋外の席ということで、わずかな光源でも宴の主役が引き立つようにとの選択だった。とはいえ単調にはならないよう、張りのあるタフタ生地に、レースで縁取った薄絹を重ねて、さらに真珠を散りばめている。身動きするたびに、生地自体の光沢とレースを彩る金糸銀糸の煌めき、真珠の柔らかな輝きが躍るだろう。胸元にはイスラズールから贈られた星入り青玉スターサファイアも贅沢に光を放っている。

 腰の位置を高く作ったことで、胸元のほぼ真下から床に引きずる長いトレーンまで、優雅なドレープが白い輝きを纏いながら流れ落ちる。自分が輝きの中心になれるということ、我ながらうっとりとしまうほどだ。


「恐れ入ります。アンナリーザ様のお美しさと若々しさがあってのことでございます」


 納品物の点検のために《彩鯨アイア・バレーナ》号に乗り込んでいたベアトリーチェも、率直な称賛の言葉に──それに、願わくばアンナリーザの晴れ姿に、いつもは硬い頬を緩めた。貴族の地位を持たない彼女も、今宵ばかりは貴婦人さながらに絹のドレスで盛装している。王女のドレスを手掛けたのは何者かと、話題になるに違いないから。もっとも、知ったところでほとんどの来賓にとってベアトリーチェのドレスは届かぬ星になるのだろうけれど。


「皆さまに思い切り自慢するつもりよ。──ベアトリーチェを、何か月も独占できるって」

「待たせる方々には、イスラズールの宝石や、蝶や花の意匠でご満足いただきたいものです」


 目を細めるベアトリーチェはアンナリーザの髪に輝く例の蝶に熱い視線を送っている。例の、マリアネラからの手紙を運んだ宝石の蝶だ。今夜のアンナリーザは、結い上げた髪に黄金の薔薇をかたどったティアラを乗せて、さらに宝石の蝶を留めている。花に──彼女自身に惹かれて蝶がはねを休めているという演出だ。


「そうね、蝶も花も、とても大きくて色鮮やかだから──だ、そうだから。良い刺激になると良いわ」

「はい。貴重な機会をいただき、まことに光栄でございます……!」


 蝶の細工の輝きはもちろんのこと、ベアトリーチェにとってはそれほど眩い翅の蝶が現実にいるということのほうが驚きだったようだ。宝石だからこそ生み出せる美ではなく、生きて、自由に動き回る煌めきだなんて、と。

 そもそもベアトリーチェは、熟考の末にイスラズール行きを承諾してくれようとしていた。そこへ、返事のために王宮に上がった時にこの蝶を見て、かの地の生態系の不思議を聞いて、創作意欲に火がいたらしい。大陸ではまだ知る者のない草花の色や形を、レースや刺繍や、意匠に取り込むことができたら、と──上手く行けば、ベアトリーチェの情熱は流行を通じてマルディバルにさらなる名誉と富をもたらしてくれるかもしれない。


(ユリウス様とも話が合いそうで、本当に良かったわ)


 今夜、アンナリーザに課せられた仕事は多い。イスラズールの宝石を社交界中に見せびらかさなければならないし、貴族の中にも礼を述べるべき出資者はいる。特に身分高い者とは一曲ずつ踊るべきだろうし、あのオリバレス伯爵もおろそかにはできないし。社交の合間を縫ってベアトリーチェとユリウスも引き合わせたい。そう、それに、ベアトリーチェのイスラズール行きも喧伝しないと。


(息を吐く暇もなさそうね……!)


 そしてもちろん、食べたり飲んだりする暇も。一分の隙も見せずに完璧な王女として振る舞わなければ。と──アンナリーザが決意と覚悟を固めた時、扉をそっと叩く音が響いた。


「アンナリーザ。支度は終わったか? 迎えに来たぞ」

「まあ、お父様。お気の早いこと……!」


 侍女が扉を開けると、そこにいたのは盛装を整えた父だった。背後に控えた従者や侍従で、《彩鯨アイア・バレーナ》号の──王宮に比べれば──狭い通路は完全に詰まってしまっている。


「晴れやかな場で見たほうが、ドレスも宝石も映えると申し上げたのだけど。どうしても、水入らずの時間が取りたいと仰って聞かなくて」

「お母様まで。もう、すぐにお会いできるはずでしたのに」


 ……王だけでなく、王妃も来ていたからこその混雑だったらしい。《彩鯨アイア・バレーナ》号にももう少し広い控室はあるし、すぐにもそこで家族が顔を合わせるはずで使用人の移動に支障をきたしかねない王と王妃の行動は、もしかしたら迂闊なのかもしれないけれど──


「ティボルトを待たせておくのにも苦労したのだ。後で声を掛けてやると良い。──うむ、美しい。イスラズールの民も魅了されよう」

「……はい。そうであれば良いと思います」


 危険な長旅を前に、少しでも長く共に過ごしたいという父母の思いはよく分かったから、アンナリーザは苦言を呑み込んで頷いた。貴重な時間を、言い争いで浪費する訳にはいかないから。出発するまでは、良い子であろうと決めていた。


「では、行こうか。皆も乗船し始めていることだろう」


 《彩鯨アイア・バレーナ》号での催しは、何かと陸の王宮とは訳が違う。来賓は、馬車ではなく自家用の船で乗り付けるのだ。高い踵の靴を履いた貴婦人たちが海に落ちることがないよう、主だった船同士は手すりを備えた橋で連結される。一夜限りの水上の城が、マルディバルの海に生まれようとしているはずだ。


 そうと思うと、潮騒だけでなく、人の話し声や衣擦きぬずれの音、食器が触れ合う音も聞こえてくるような気がするから不思議なものだ。巨大な船を少し沈ませる数多の客が、アンナリーザを見るために集っている。


「はい、お父様」


 王女として人目に晒されるのは慣れてはいても、国を挙げた事業の顔として注目されるのは初めてだった。緊張による息苦しさを努めて宥めて、アンナリーザは父の腕を取った。。


      * * *


 今宵のマルディバル湾を遠目に見たら、《彩鯨アイア・バレーナ》号の辺りだけが明るく輝いて見えるだろう。幾つもの篝火かがりびによって、頭上に輝く月や星を掻き消すほどの眩さが、巨船の広い甲板に顕現している。風向きによっては、港の商船や宿屋にも、楽団の調べが届くのかもしれない。


「今宵はよく集まってくれた。諸卿らが知っての通り、マルディバルはイスラズールとの友好を願って王女を送り出す。これまでにもそうであったように、青い海が我が国に富と名誉をもたらすよう──そなたらもアンナリーザの出発を祝い、航海の無事を祈っておくれ」


 空の下での祝宴で、すべての出席者の耳に届くように声を響かせるのは、マルディバル王家に生まれた者にはなくてはならない技だった。父の口上によって起きた拍手と歓声が収まると、アンナリーザも大きく息を吸い、声を張り上げる。


「若輩の身で大役をいただき、光栄に震えております。皆さまの祝福が、帆をはらませる追い風となりますように。しるべの星になりますように。マルディバルの娘の船出を、寿ことほいでくださいますように……!」


 アンナリーザの高い声が夜空と海に吸い込まれると、一瞬の沈黙の後、一段と大きな歓声が湧いた。それが、乾杯と、宴の始まりの合図だった。無数の杯に葡萄酒が注がれ、芳醇な香りが潮の香に混ざる。楽団は手に手に持った楽器を構え、軽やかな調べが流れ始める。


 アンナリーザの最初の相手は、これまでは父か兄が努めていたものだけれど──


「アンナリーザ、行っておいで」

「ええ、お兄様」


 今宵ばかりは、特別だった。例によって少し不本意そうな兄のティボルトの目線の先には、盛装したユリウスが緊張した面持ちでアンナリーザに手を差し伸べている。たぶん、海の上での舞踏は初めてだからだろう。


(私がリードして差し上げたほうが良いのかしら……?)


 大事な出資者に、恥をかかせたりしないように。マルディバルの宴ともてなしを、楽しんでもらえるように。──そんなことを考えながら、長い裾を背後に従えて、笑みを浮かべて。アンナリーザはユリウスと踊り始めた。

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