第3話 嵐の風も好奇心は抑えられない

 フェルゼンラングの者たちが全員退出したところで、アンナリーザは残った女たちを見渡して微笑みかけた。


「皆も、具合が悪かったら遠慮なく休んでね」


 マルディバル育ちと言っても、アンナリーザ付きの侍女たちは貴族の出だ。皆、船での長旅は初めてなのに、王女のために勇気を奮って同行してくれたのだ。主としては気遣ってあげなければ、と思ったのだけど──


「ありがとうございます、アンナリーザ様。でも……閉じ籠っているのも、恐ろしいですから」

「ええ。皆さまと一緒にいさせてくださいませ」

「ひとりでいる時に沈んでしまったら、と思うと……」


 声にも表情にも力がないながら、彼女たちははっきりと首を振った。言われてみればもっともなことだ。激しい波や風の音は今も外から聞こえるけれど、ランプをいくつかともしたきりの食堂は薄暗く息詰まるようだけど、寄り集まって話をしていれば、少しは気が紛れるかもしれない。


「そうね、初めての嵐だものね……」


 アンナリーザの相槌は、耳をつんざく雷鳴によって掻き消された。もしや、どれかの船のマストにでも落雷したのではないかと思うほどの近さだった。女たちは一様に首を竦めて息を呑み──ようやく何ごともなさそうだ、と確かめたところで、ひとりの侍女がおずおずと口を開いた。


「あの、アンナリーザ様」

「なあに?」


 危険な旅へと連れ出した主として、余裕を保たなければ。侍女たちの不安を宥めなければ──そう、密かに念じたアンナリーザの決意は、空回りすることになった。船酔いと恐怖に青褪めた顔で、けれどやけに力強く前のめりに、その侍女は王女に問いかけたのだ。


「ユリウス様とディートハルト様、どちらの御方が素敵だと思われますか……!?」

「……え?」


 咄嗟に意味を計りかねて瞬きするうちに、侍女たちは一斉に身を乗り出した。同時にそれぞれが口を開いたものだから、船外の嵐にも負けない、さえずる鳥の巣に突っ込んだかのような軽やかで華やかなひと騒ぎが巻き起こる。


「私、やはり王女殿下が嫁がれるなら王子様でなくては、と思いますの」

「ユリウス様は、気遣いの素敵な方ですわ。先ほどもご覧になったでしょう?」

「あら、でもひとつ所に落ち着かない家風でいらっしゃるとか、父君様も変わった御方なのでしょう?」

「では、ディートハルト様のほうが相応しいと思われますの? 少し……浮ついているようにも見えるのですけれど」

「とにかく、おふたりとも美しい貴公子です」

「ええ、どちらの御方もアンナリーザ様にはよくお似合いですわ」

「ユリウス様の銀髪も、黒のおぐしのディートハルト様も──」

「──ですから、アンナリーザ様のお心次第、ですわね?」


 すべての発言を、きちんと聞き取れた訳ではないのだけれど。とにかく、侍女たちはアンナリーザの意見を求めるということで心をひとつにしたようだった。


「え、っと……」


 やけに熱のこもった視線に貫かれて、アンナリーザは居心地悪く食卓に目を落とした。食欲はさほどなかったけれど、間を持たせるためにパンをちぎって口にしてみる。……甘くて、香辛料や干した果実の風味が、美味しい。出航から数日を経ても風味は変わっていないようで、作ってもらって良かった、と思う。


(みんな、航海で退屈しているのよ。刺激が欲しいんだわ)


 パンを咀嚼しながら、アンナリーザは自分に言い聞かせた。恋の噂話は楽しいものだ。狭い船内では会う人も限られる訳で。中でも身分が高い男女が三人そろっているとなれば、仕える者たちは勝手に想像を膨らませるのだろう。共に寝起きをする中では彼の身分を隠し通すのは難しいから、さっさと明かしたのだけれど──彼女たちには、妄想の種を与えてしまったのかもしれない。


「お父様とお母様とお兄様も仰っていたでしょう? 私は、マルディバルの王女として恥ずかしくない振る舞いをしないと」


 侍女たちの興奮を宥めるつもりで、アンナリーザは言葉を濁した。というか、彼女の本心でもあるのだけれど。彼女は国の名を背負って外交と交易の旅路にいるのであって。ユリウスもディートハルトも、政治的な事情と理由と目的があって同行しているのに過ぎない。おかしな期待は、早めに諦めてもらったほうが良いだろう。


「それは、もちろんでございます!」

「殿方が不埒なことをなさらないように、私どもがしっかりと見張っておりますから」

「イスラズール王からも必ずお守りいたします」

「でも、マルディバルに帰られた暁には、何の障りもございませんもの」

「帰国と同時におめでたい報せがあれば、陛下も喜ばれますでしょう」


 十分に、冷静な振る舞いを見せたつもりだったのだけど──侍女たちの熱は一向に冷める気配がなかった。ベアトリーチェも、加わってこそいないけれど、目元がはっきりと緩んでいるからこの状況を楽しんでいるらしい。


「さあ──でも、お兄様が許してくださるかは分からないし」

「愛の力があれば、ティボルト殿下を認めさせることもできますわ、きっと」


 ティボルトと、ユリウスかディートハルトが決闘するところでも思い浮かべたのかもしれない。侍女たちはきゃあ、と口々に悲鳴のような歓声をあげた。


(まったく、もう……)


 かまびすしい、とは思うけれど。でも、口を噤めば外の嵐が嫌でも耳に入って来る。船底一枚を隔てた深く暗い水底を意識しないで済むのなら、噂の的になっても良いのかもしれない。


      * * *


 嵐は一晩中続いた。夜が明けても空はどんよりと暗く、大粒の雨が甲板を叩いていた。アンナリーザも、ほんの一瞬船室から顔を出しただけで、じっくりと天気を確かめることはできなかったけれど。何しろまだまだ風も強く波も高く、まかり間違って海に堕ちたりしたら一大事ということだから。


「とはいえ、このていどは航海にはつきものですから。強い風が好機にもなり得ますから、隙を見て帆を上げるつもりです」


 《海狼ルポディマーレ》号の船長は、四十を幾つか越えた辺りに見える体格の良い男だった。船乗りとは荒くれ者ばかり、という印象を裏切って、アンナリーザに恭しく報告する物腰と言葉遣いは、マルディバルの王宮に出入りしていても違和感がない、丁重なものだった。部下の水夫を思い切り怒鳴りつけている場面も既に見ているから、時と場合をきっちりと使い分けることができる人なのだろう。


 ひと晩揉まれて、さすがにぐったりとした顔の侍女に囲まれて、彼女自身も取れない疲れを感じながら、アンナリーザは船の維持に奔走してくれた船長をねぎらった。


「皆さまの経験と技術を信じてお任せいたします。くれぐれも無理はなさいませんように。それに、ちゃんと休憩もとってくださいますように」

「恐れ入ります、王女殿下。皆さまはご心配なく、ゆっくりとお休みになりますように」

「そのようにいたします。大人しくしておりますわ」


 高貴なお荷物たちが邪魔をしない、という確約を得た船長は満足したようで、アンナリーザの手に口づけると退出していった。


「フェルゼンラングの方々は大丈夫かしら。私たちで食事と──身体をくものを運んで差し上げましょう」


 朝になってもなお薄暗く、しかも絶え間なく揺れる食堂を見渡して、アンナリーザは呟いた。マルディバル人たちは、人の気配を求めて自然に食堂に集まった。でも、フェルゼンラング人の部屋からはうめき声や泣き声が聞こえるばかり。昨夜の段階では、ユリウスは辛うじてしっかりと立っていたけれど、彼だけが元気でもどうにもならないだろう。


「良い考えですわ、アンナリーザ様」


 暗い船室での息苦しく無為な時間に、指針が与えられたからだろうか。侍女たちは一様に顔を輝かせた。


「それでは私、入っても良い状況なのか、声を掛けて参りますわ」

「私は、食事の準備をいたしますね」

「お願いね。私も手伝うから」


 アンナリーザたちの申し出は、殿方たちから拝むような勢いで歓迎された。予想していた通り、救援物資がなければ彼らは部屋の外に出るのも憚られるような事態になっていたらしい。


「こちらからお願いするのも心苦しいと思っていたところでした。大変嬉しく存じます」


 眼鏡のレンズを汚れで曇らせたユリウスは、心からほっとしたように頬に笑みを浮かべていた。比較的気力体力に余裕があった彼も、激しい揺れで散らかり切った部屋の中、倒れた従者に囲まれて途方に暮れていたということだった。


「いずれはお互い様ということもあるでしょう。どうかお気になさらずに」


 こういう場面を想定していたかは分からないけれど、ベアトリーチェは洗いやすく丈夫な麻の生地のドレスも作ってくれていた。ちょうど良く装飾も少ないこともあって、こういう場面にはうってつけだった。ユリウスたちの罪悪感を軽減すべく、微笑んだ時──おずおずと、彼女の名を呼ぶ声が掛かった。


「あの、アンナリーザ様──ディートハルト殿下なのですが。アンナリーザ様に食事を運んでいただきたいとの仰せなのですけれど……?」

「私を、名指しで?」


 光栄に思うべきか図々しいと思うべきか、判断に悩んでアンナリーザは首を傾げた。昨夜、話をしたばかりだし、殿方が寝ているところに入っていくのは慎みがないとも思う。でも──


「姫君にそのようなことはさせられません。私が代理を務めます」

「いいえ。ユリウス様もお疲れでしょうから。食事をして、綺麗にしていてくださいませ」


 迷ったのは、一瞬だった。狭いうえに物資も人でも限られている船の中でのこと、より余裕がある者が動くべきだろう。


 食事の盆と、水で絞ったタオルを抱えて、アンナリーザはディートハルトの部屋を目指した。

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