第7話 お飾りの王妃から動く王女へ
例えば、こんなやり取りを覚えている。
確か、マリアネラに着替えを手伝わせていたか髪を結わせていたか、そんな場面だったと思う。夫の頬や唇をくすぐるあの女の指先が、彼女自身に触れるおぞましさに肌が粟立つのを感じながら、エルフリーデは重い口を開いたのだ。
「……ねえ」
「はい、何でしょうか、王妃様」
決死の想いで口を開いたエルフリーデと裏腹に、マリアネラの声は
「貴女に頼みたいことがあるの」
「まあ、王妃様に頼っていただけるなんて光栄ですわ」
夫の愛人に頭を下げる屈辱に、エルフリーデは青褪めて唇を震わせているというのに。マリアネラはまったく気付いていないように、満開の薔薇のように微笑んでいた。あの笑顔を覚えているということは、たぶん鏡越しにということだろうから、やっぱり髪を触れさせていた時かもしれない。とにかく──
「レイナルドにおねだりをしてちょうだい。大陸の野菜や果物が食べてみたい、と。私の話を聞いて興味をもったことにでもして……」
彼女が夫の愛も権限もない王妃だということを、イスラズールの誰もが知っている。それでもエルフリーデは王妃で、かつ、フェルゼンラングの王女だった。だから、大陸からの知識や技術、それを得るための伝手を願って訪れる者は後を絶たない。
(なのに何もできないなんて……!)
祖国の父たちは、イスラズールの資源にしか興味がないのが海を
父は、
祖国の意向は、たぶんマリアネラとお茶やおしゃべりに興じろということだろう。それによってレイナルドとの仲が深まれば、というていどのこと、愛人を通じて王を動かせとは思っていないはず。……父たちは、エルフリーデが自分の意志を持つことを望んでいない。
「安定して採れる作物が増えれば、皆の暮らしが楽になるでしょう。貴女の言葉なら、彼も聞くかもしれない……!」
でも、お飾りの王妃でいることにエルフリーデは耐えられなかった。王であるレイナルドが民を顧みないなら、王妃が心を配らなくては。そのためには、大嫌いなマリアネラだって利用してやる。そう、決意したというのに──
「まあ、王妃様。そんな恐ろしいことはできませんわ」
「そんな。なぜ……!」
マリアネラは、大げさに身震いすると勢いよく首を振った。結っていない蜂蜜色の髪が揺れて、エルフリーデの肩を打つ。そう、彼女は座っていて、相手は立っていた。なのに、マリアネラは
「難しいことは女の仕事ではないのですもの。余計なことをしては、王妃様のためにもなりませんわ」
「余計なこと……!?」
この女にまで何もするな、と言われるなんて。声を荒げるエルフリーデと裏腹に、マリアネラはふわふわと微笑むばかりだった。眉だけは困ったように下げながら、口元は弧を描く──これもまた器用な表情だった。
「はい。レイナルド様には、今のことは内緒にしておきますから。そうすれば何も心配要りませんもの」
面倒にならないように黙っておいてやる、とでも言いたげだった。夫の不興は覚悟の上での諫言だったというのに、どうして子供が悪戯をしでかしたような扱いを受けるのだろう。あまりに不可解で──そして、唇に指をあてるマリアネラの表情が可愛らしくて。エルフリーデは、言葉を失ってしまった。
* * *
この数日と言うもの、アンナリーザは
マリアネラからのものと思しき下手な筆跡の手紙にあった、正しい王と言う言葉──普通に解釈すれば、王と王妃の間に生まれた子、エルフリーデが育てられなかった息子、クラウディオのことだと思うのだけれど。でも、そうとも信じられない。
(マリアネラが、王位の正統性について考えるとは思えないわ……)
だって、マリアネラがクラウディオを正統な王と呼ぶとしたら、あの子はあの女に育てられたということになってしまう。それも、ただ面倒を見るだけではなくて、王の実質的な妻として
(そんなのは嫌。あって欲しくない……! ……でも、私がどうにかできることではない……)
自分の中だけで嫌な記憶と向かい合い、嫌な予感と想像に怯えてはのたうち回るうちに、熱は下がった。開き直ったということだと、思う。イスラズールで何が起きているとしても、大陸で知ることはできないから。何もかも、行ってみないと分からない。
(怖いだなんて思ってる暇はないわ)
できることがあるとしたら、航海の成功と自身の安全のために手を打つことくらいだと、改めて腹を
もちろん、公的にマルディバルに滞在中ということになっているのは、ユリウスだけだ。だから、招待状を送ったのは「侯爵子息が寄寓しているフェルゼンラングの某貴族の別荘」なのだけれど、ユリウスは書状を即座にアルフレートに渡すだろうから、実態としては何ら滞ることはない。
と、いう訳で。アンナリーザの姿を見た瞬間に、アルフレートは少し痩せた頬に笑みを浮かべた。
「アンナリーザ様。ご不調だったと伺いましたが、変わらずのお美しさで安心いたしました」
「まあ、お上手ですこと。──侯爵様も、お疲れのご様子ですわね?」
この間、アルフレートにはディートハルトと一緒に乗船予定の
「もったいないお心遣いでございます」
王子のお守りで負ったであろう心労を、アンナリーザは言葉にせずに労って、アルフレートも多くを語らずにしみじみと頭を下げることで受け止めた。王族の言動について、批判的なもの言いは避けるものだ。
それでも、アルフレートはすぐに髭を蓄えた口元に微笑を浮かべる。その表情には、大きな事業に一区切りが見えた自負が見て取れた。
「とはいえ、これで船も積み荷も整いました。あとは良い風を待つばかり──まずはお
「そのように願います。それに、イスラズールの歴史にも」
自分たちのためだけではなく。イスラズールにも利益をもたらすための旅にしたいのだ、と。匂わせてから、アンナリーザは改めて笑みを浮かべた。晴れやかだけれど、多少相手に構えさせるような──これから大事な話をするぞ、と伝えるための表情だ。
「ところで、侯爵様おひとりをお呼びしたのは、見ていただきたいものがあるからでしたの」
「さようでございましたか……?」
これまでの諸々の経緯によって、アルフレートは小娘相手と油断してはくれないようだ。──ならば、こちらもいっそう気を引き締めなければ。決意を笑顔の影に隠して、アンナリーザは可愛らしく見えるであろう角度で小首を傾げた。
「この手紙の差出人と内容について、侯爵様にはお心当たりがあると思うのですけれど──いかがでしょうか?」
そうして茶器と菓子の皿の横に広げたのは、蝶の宝石箱に忍ばされていた、例の手紙だった。
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