第6話 蝶の翅は彼方からの手紙を運ぶ

 イスラズールの使者──オリバレス伯爵との会談を終えた後、アンナリーザは微熱を出して部屋に押し込められることになった。ここのところの多忙による過労だろう、との医師の見立てだった。


「まったく、無理をし過ぎるからだ……!」


 アンナリーザの枕元で、兄のティボルトがナイフを操って桃の皮を剥いている。

 兄妹とはいえ、年ごろの娘の寝室に殿方が居座るのは褒められたことではないけれど、アンナリーザが無理をしないための監視のつもりなのだろうと思う。それに、イスラズールに発てば、次に会えるのはいつになるか分からない。兄に限らず、家族水入らずで過ごせる時間は今やとても貴重なものだ。たぶん、後で父と母もそれぞれ訪ねてくることだろう。


「まあ、もうお前が動く場面も少ないだろう。出航まではゆっくり過ごせば良い。今のうちに友人に挨拶もしたいだろうし……」

「そうね、お兄様。ありがとう」


 兄がこの期に及んで行くのを止めろ、と言い出さなかったのでアンナリーザはほっとした。王女の顔と名前を使って人と物と金を集めた以上、もはや彼女は船団のとして欠けてはならない存在になってしまった。やっぱり怖いとか行きたくないだなんて口にしたら、他の者たちの士気をぐことにもなってしまう。


(私はまたイスラズールに行くの……何があっても、何が待っているとしても……)


 兄が銀のフォークに刺して差し出す桃の一切れをそっと口で受け取りながら、アンナリーザは自分に言い聞かせた。よく冷えた果肉が、少し熱を帯びた喉を通っていくのが心地良い。一国の王子に甲斐甲斐しく世話を焼いてもらうなんて、この上ない贅沢ではないだろうか。


「積み荷も順調に整っているとか。お兄様だってお仕事が増えてしまったのに……」

「何、国のため──これも公務のうちだからな。それに、侯爵子息もよく手伝ってくれた」


 恥ずかしさと申し訳なさを込めて呟くと、兄は顔を顰めて応じた。皿に投げ出したナイフが、からん、と高い済んだ音を立てる。手を汚した果汁を拭いて、自らもフォークを取りながら、ティボルトはユリウスの姿を思い浮かべているらしい。侍女や官吏から聞いたところ、異国の貴公子は兄と上手くやっているということだったけれど──本人は、認めるのが癪だ、と言わんばかりの態度なのが少しおかしい。


「フェルゼンラングの貴公子など、箱入りかと思っていたが。意外と世間を知っているようだった。……だから頼りにもなるだろう」

「ええ、そうだと良いわ。ユリウス様ともディートハルト様とも、もう少しお話したいと思っております。あ、もちろん元気になってから、ですわよ?」

「……当然だ」


 若い殿方を寝室に招いたりはしない、と。冗談めかして言ってみると、ティボルトは猛獣が牙を剥くような顔つきでうなった。例によっての過保護ぶりを見せられて、アンナリーザは声を立てて笑ってしまう。──笑っている間は、部屋の片隅にしまってあるあの小箱を意識しないでおくことができそうだった。


 熱を出してしまった理由は過労なんかではないのを、アンナリーザ自身、一番よく知っていた。イスラズールから届いた宝石箱──その、中身が彼女の心を手ひどく殴りつけたのだ。この大事な時に寝台に縛り付けられることになったのは、のせいだ。箱の中に鎮座していた眩い煌めき、その影に隠れるように仕込まれていた、の。


      * * *


 箱の中には、星か虹でも閉じ込めていたのかもしれない。そんな、夢のような考えが頭を過ぎってしまうほど、蓋を開けた瞬間に目を射った輝きは眩しかった。


「まあ──」


 惚けたような溜息を零しながら、アンナリーザは瞬きしてどうにか輝きに目を慣れさせた。室内の灯りを乱反射して絢爛けんらんな光の渦を生むのは、青や緑の宝石だった。ひとつひとつは爪の先より小さいけれど、磨き上げられ、精緻にカットされて金の枠に嵌められている。ところどころに紅い石も配しつつ描かれる模様、枠の形は──


(蝶──これは、イスラズールの蝶、だわ……!)


 懐かしい──に見た蝶の乱舞が眼前に蘇った気がして、アンナリーザは目眩のような感覚を覚えた。青い空を背景に、眩い光をまき散らしながら飛ぶ、青い蝶。その一頭がはねを休めた隙に、捕らえて宝石に閉じ込めたかのような。そんな、見事な細工で、見事な宝石だった。


「とても素晴らしいお品です。イスラズールにはこのような蝶がいるのですね……」

「お気に召していただいて光栄でございます。一粒一粒は小さいとはいえ、これだけの数の宝石の色と質を揃えるのはとても苦労したそうですので」


 アンナリーザが感動に声を震わせたのは、イスラズールの蝶の群れを思い出したからであって。宝石に言及するオリバレス伯爵の得意げな声は、高揚に水を差してしまうものだった。そう──だから、アンナリーザはふと、疑問に思ったのだ。黒い天鵞絨ベルベットに縫い留められたような蝶が、翅を閉じた姿に作られていることに。


(この蝶、翅の裏は地味な色だったはず。意匠に使うなら、翅を広げたところにするはずだけど……?)


 そのためには宝石の数が倍必要になってしまう。集められなかっただけかもしれないし、片翅の姿でもその蝶は十分に大きく、存在感があった。髪飾りでもブローチでも、その日の装いの主役になることだろう。でも、イスラズールの職人は蝶を身近に見ているはずで──疑問に駆られて、蝶の翅の付け根の辺りにそっと指を伸ばしたアンナリーザは、背筋に雷が落ちたような感覚を覚えて息を呑んだ。


(……金具がある。取り外しができるようになっているのね。やっぱり、本来は両翅でついになる意匠なのではないかしら?)


 たぶん、気分によって宝石の蝶に翅を広げさせたり閉じさせたり、あるいは片翅だけで使ったりを楽しむ仕掛けなのだ。となると、どうして不完全な姿で贈ったのか、だけど──


「本当にありがとうございます。ひと目で気に入ってしまったので、誰にも見せたくないくらい」


 その理由に気付いたアンナリーザは、慌てて箱の蓋を閉めた。他の者には見せてはならないと、咄嗟に思ったのだ。眩い輝きが失せた室内は、急に一段暗くなったように見える。


「まあ、アンナリーザ。そんなに……?」

「お母様にも内緒です。……ひとりで、気が済むまでじっくり眺めたら、ちゃんとお披露目しますから」


 母は、外交の場にしては不機嫌をあらわにし過ぎていた娘のことを、密かに案じていたのだろう。アンナリーザが子供っぽく──わざとらしく──箱を胸元に抱えると、安堵したように微笑んでいた。オリバレス伯爵はもちろん、満足そうに目を細めている。


 だから、アンナリーザだけのはずだ。蝶の翅に隠れるように、小さくたたんだ紙片が仕込まれているのを目に留めたのは。


      * * *


 ちゃんと休むように、と言い聞かせてから兄はアンナリーザの寝室を後にした。


「お兄様の言いつけ通り、少し寝るわ。みんな、下がってちょうだい」


 侍女が恭しくお辞儀をして退室した後、大人しく横になったりはもちろんしない。音を立てないようにそっと寝台を滑り出し、裸足の足で絨毯を踏んで、目指す先は本棚だ。目立たない一冊の間に挟んでおいた紙片は──ちゃんと、ある。何度見ても幻なんかではない。もう覚えてしまったその文章を、アンナリーザはもう一度なぞった。


 マルディバルの王女様へ

 フェルゼンラングに騙されてはいけません。あの人たちはイスラズールのことを考えてはいません。悪いことを考えています。正しい人が王にならなければいけません。そのためにお手伝いをしてくださいますように。この蝶を持つ人は、貴女の味方です。


 何度読んでも、もちろん内容は変わらない。それに、アンナリーザの感想も。


「すごく下手な字だわ……文章も頭が悪そうだし……」


 小さな紙片に書き付けるのだから、書式を守れないのは分かるけれど。それにしても子供が書いたような筆跡だし、語彙も言葉遣いもどこか幼い。陰謀を巡らせている、くらい書けば良いのに。こんな文章を書く者に心当たりは──あった。


 オリバレス伯爵は、この手紙のことを知らないのかもしれない。箱を開けて、宝石の蝶を手に取った者にしか見えないようなところに隠してあったから。それでも彼を通じて届けようとしたなら、手紙の書き手は絞られるのではないか、と思う。ましてこんな筆跡の者は。


(マリアネラに字が書けたのね……)


 王妃付きの侍女ということになっていながら、にはあの女がペンを持っているのを見た記憶がない。イスラズールでは、女への教育は不要と見なされる傾向があった。

 四十を越えた女が子供のような文章を綴る姿を思い浮かべるのは、どこか哀れな気もした。そう思えるのは、今の彼女がで、イスラズールもレイナルドもはるか遠くだから、でしかないかもしれないけれど。でも、とにかく。手紙に気付いてしまった以上、アンナリーザが考えなければならないことがひとつ増えた。それについて考えていたから、熱が出てしまったのだろうと自分では思う。


 考えなければいけないこと──つまり、マリアネラにとっての正しいイスラズール王とは誰なのか、ということだ。

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