第4話 輝く宝石とどす黒く苦い記憶

 心を込めたアンナリーザの言葉は、ベアトリーチェの胸に届いたのだろうか。薄い唇の端がむずむずと引き攣ったように見えたのは、喜びが漏れるのを堪えたようにも見えた。実際、彼女が次に発した声は、常と変わらず冷静で穏やかなものだった。


「大変嬉しい御言葉です、アンナリーザ様。とても、光栄に存じます」

「そう言ってもらえて私も嬉しいわ。では──ベアトリーチェ、前向きに検討してもらえるのかしら」


 それでも、即座に断られなかっただけ、十分希望が持てる答えだった。慣れた地を離れるのも、海を越える長旅も恐ろしいもの。その不安や恐怖を上回る魅力の欠片なりとも、アンナリーザの提案の中に感じ取ってくれたなら僥倖だ。


「ご注文のドレスの案がまとまりましたら、王宮にお届けに参ります。生地選びと仮縫いまでできるように。その時に、正式にご回答するということではいかがでしょうか。日付は──急げば、この辺りには」


 言いながら、ベアトリーチェは手元の紙片に幾つかの日付と、さらにその横に幾つかの単語を綴った。案出しと、生地候補の手配に掛かる予定表だった。これまでに何度か依頼した際の経験から分かる。ベアトリーチェは本当に急いで仕上げようとしてくれているし、考えを纏める姿勢を見せてくれている、と。


「ありがとう。もちろんそれで結構よ」


 また一歩、交易成功に至る道を進めたことに安堵して、アンナリーザは心からの笑みを浮かべた。


      * * *


 ドレスを新調するからには、それに合う装飾品も考えなければならない。そしてこちらは、ベアトリーチェの趣味の良い館を訪ねるような、楽しいことにはならなさそうだった。というか、限りなく公務に近い性質を帯びている。


 イスラズールの使者がもったいぶった手つきで天鵞絨ベルベット張りの箱を開けると、眩い輝きがアンナリーザの目を射った。隣の母も同様に、太陽を見上げた時のように碧い目を細めている。


「美しい王妃陛下と王女殿下に、我が王からの友好の証でございます」

「イスラズールの豊かさは、噂に聞く以上のもののようですね。どれも、素晴らしい色と輝きだこと……!」


 箱の中に鎮座していたのは、大粒の宝石の裸石ルースだった。青玉、紅玉、緑柱石──中には、中心に六条の星を抱いているものもある。丸く磨いただけでカットを施していないのは、こちらで用途に合わせて削り出せるように、ということなのだろう。


(イスラズールの研磨技術は、今はどうなっているのかしら)


 あるいは、未熟な技術を大陸に見せるのは恥だという感覚があるのかどうか。


 エルフリーデの記憶によると、二十年前のイスラズールでも宝石はこのていどの加工で大陸行きの船に載せられていたはずだ。もっと細かなカットを現地で施せるよう、フェルゼンラングの名高い宝石細工師が渡航したこともあったけれど、彼らは今はどうしているのだろう。両国の関係の悪化と共に、追放されたり帰国したりしているのかもしれない。


「出航の準備がすべて整った暁には、《彩鯨アイア・バレーナ》号で盛大な祝宴を開く予定です。その際にお披露目できるように細工師にはかっておきましょう。もちろん、その際はイスラズール産のものだと列席者に伝えなくては」

「まことにありがたいご配慮でございます、王妃陛下」

「ドレスを新調しているところですの。いただいた宝石のお陰で楽しみが増しますわ。レイナルド陛下のご厚意に感謝申し上げます」


 母に続けて、アンナリーザも口添えする。どの宝石をどう使うか──首飾りとかティアラとかブローチとか──は、母と相談ながら分け合うことになるだろう。ベアトリーチェのドレス案を見れば、さらに意匠をどうするかの想像も膨らむはず。女同士でああでもないこうでもないと語り合うのは、きっととても楽しい時間だ。……そこには、宝石の送り主が誰だったか、は関係がない。たぶん。


「嬉しい御言葉、恐れ入ります。王も喜ばれることでしょう」

「私も、直接お礼を申し上げる日が楽しみですわ」


 イスラズールの現状を思うと気が重いけれど、外交の一環で特産品を贈り合うのはよくあることだ。マルディバルからも、真珠や珊瑚を贈る。ちなみに、こちらはマリアネラの存在は知らないことになっているから、あくまでも名目は王の衣装を彩るためだ。

 だから、ここまでは母もアンナリーザも儀礼上の微笑みを保つことができた。でも──


「そしてこれは、アンナリーザ殿下に。必ずお渡しするよう、仰せつかって参りました」

「まあ……」


 さらにもうひとつ、いくらか小さな箱を差し出されて、アンナリーザは母と目を見交わした。小さいとは言っても、使者の両手を優に隠すくらいの大きさはある、今度の箱も天鵞絨張りに、金銀の精緻な装飾が施されている。宝飾品が収められているのは、開けるまでもなく明らかだった。


(私宛にわざわざ、なんておかしいわ……!?)


 母が小さく頷いたのを、アンナリーザは言って良い、という意味だと解釈した。娘の身の安全のため、礼儀を守るよりも言うべきことをはっきりと主張して良い場面だという許可が出たのだ。


「ですが、それは──最初のお話のために、ということではありませんの? 今となってはいただくことなんてできませんわ」


 縁談は、はっきりと断ったはずなのに。宝石には罪がないと考えようとしたところだったのに。宝石の輝きによって他国の姫を買おうとする、イスラズールの──レイナルドの手口はエルフリーデの時とまるで変わっていない。前世からの怨みと怒りも加わって、アンナリーザの声は鋭く尖った。


「いいえ、受け取っていただかねば私がお叱りを受けてしまいます」

「レイナルド陛下にお会いした時に、お詫びは重々お伝えします。ご心配には及びませんわ、オリバレス伯爵」


 使者の名を、アンナリーザは口に含まされた毒を吐き出すつもりで口にした。ほとんど睨むように見つめるその男の顔は、間違いなくが──アンナリーザが──初めて出会ったものだ。でも、その名には確かに聞き覚えがある。遥かなイスラズールの地で、エルフリーデとして聞いた。その名は、マリアネラの親しい一族だった。


      * * *


 は、夫の執務室を訪ねるのに勇気を振り絞らなければならなかった。アルフレートの滞在中なら同行してもらうこともできたけれど、彼はあいにく祖国フェルゼンラングに一時帰国している最中だった。


「レイナルド。オリバレス家に伯爵位を授けたというのは本当ですか? ナサリオに領地を与えるというのは」

「それがどうした。お前に何の関係がある」


 一応は王妃であるはずの彼女を、レイナルドは座ったままで迎えた。例によって彼にしなだれかかっていたマリアネラは、戸惑いながらも立ち上がろうとしたようだったけれど、レイナルドに腕を引かれて、いっそう彼の間近に抱き寄せられる。


「関係は、ございます」


 レイナルドの翡翠の目は、彼の赤い髪と同じく、苛立ちと不快に燃えているようだった。どうして妻をこのような目で見るのだろう。エルフリーデの目にも、恐怖と嫌悪がありありと浮かんでいるから、だろうか。


(こんな男が私の夫だなんて……)


 たぶん、その一点においては彼女とレイナルドは想いを同じくしているのだろう。絶望に喉が塞がれるのを感じながら、それでもエルフリーデは震える声を絞り出した。


「ナサリオの民からの陳情です。かの地には、そもそも入植以来、開拓を主導してきた家があると……! 実質的には領主を務めていたにも関わらず、土地を知らない者に横から攫われるのは、不法というものでございます」

「王の命だ。不法ではない」


 王だとて、法には従わなければならないだろうに。権力を振りかざして民を虐げる王は、王ではない──でも、大陸での常識は、イスラズールでは通用しない。王とは国を守り導く者ではなく、単にもっとも強い者だと多くの者が誤解している。当の王でさえ、そうなのだ。


 事実、エルフリーデの諫言に、レイナルドはうるさそうに顔を顰めただけだった。


「その者は引き続き開拓に務めれば良い。土地のためを思うなら、新しい領主に仕えるのに否やはあるまい」

「領主に仕えて、収穫を税として収めよと命じられるのですか? 未開の土地を耕した報酬がこれでは、あまりに──」

「イスラズールを未開と嘲るのか!」

「そのようなことでは、ございません……!」


 レイナルドが怒鳴りながら立ち上がると、怒りに燃える双眸はエルフリーデからは見上げる位置にある。言葉尻を捉えた言いがかりは馬鹿馬鹿しい、と思えるのは頭のほんの片隅でだけのことだった。

 低く、唸るような怒声に、握られた拳。彼が足を踏み出すだけで感じる圧迫感。それらのすべてにエルフリーデは竦んで、声を出すどころか身動きすらできなくなってしまう。王妃付きの侍女も従者も、王の怒りを買ってまで彼女を庇ってくれはしない。


(殴られる……!?)


 とっさに目をつむろうとして──


「あの……王妃様。オリバレスの小父様は良い人ですから」


 でも、不意に聞こえたふんわりとした声に、エルフリーデは目を見開いた。レイナルドに置き去りにされて、長椅子の上で身体をかしげさせたマリアネラが、場違いにふわふわと微笑んでいる。エルフリーデの懇願も、レイナルドの激昂も、まるでなかったかのように。


「だから──レイナルド様にお願いしましたの。良い人だから、元いた人たちとも仲良くできると思います。だから、王妃様が心配なさることでは──」

「……何を言っているの?」


 自らの唇から勝手にこぼれ出た呟きを、エルフリーデの耳は他人事のように聞いた。そんなことを話しているのではない。レイナルドとはまったく別の意味で、そう思うのに、何が間違っているのか言葉にできそうにない。──その機会も、彼女には与えられそうにない。


「マリアネラに助けられたな。さっさと消えろ。お前の陰気な顔は見たくない」

「──っ」


 言いたいことは山ほどあったし、夫に追い出される形は屈辱でしかなかった。でも、結局は従うしかないのを、エルフリーデは分かっていた。レイナルドはもはや彼女には目もくれず、マリアネラの頬に手を伸ばしている。マリアネラはうっとりと目を細めて、卵のように整った頭をレイナルドの胸に委ねるのだろう。そんな場面は、見たくない。


「……失礼、いたします……!」


 それに、目に浮かんだ涙がこぼれ落ちるところを、ふたりには決して見せたくなかった。

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