第3話 金よりも香辛料よりも貴重な

 できるだけさりげなく告げたつもりだったけれど、言葉の内容の重さを隠し切ることはできなかっただろう。ベアトリーチェは完全にペンを手放してしまった。冷静な表情しか見せたことがない彼女に、目を真ん丸にさせることに成功したなんて。ある意味快挙なのかもしれなかった。


「私が──私も、イスラズールに?」

「ええ」

「期間は、いつからいつまで、になるでしょうか」

「この夏中には出航したいわね、つまりは、ドレスの納期もそれくらいになるのだけれど。往復の航海にふた月──それに、良い風を待つなら帰るのは来年の春になるかも」


 ベアトリーチェの問いに、アンナリーザは笑顔のまま淀みなく答える。用意してきたことでもあるし、虚偽を交えていると疑われる余地を見せてはならない。誠実に情報を開示していると、思ってもらわなければ。


「ほかのお客様のことなら、父の名でご遠慮願うこともできるわ。貴女には弟子もいるはずよね、ベアトリーチェ?」


 権力を振りかざすのは本意ではないけれど、父にも了解を取りつけている。ベアトリーチェに同行してもらう利点はあると、納得してもらえたのだ。もちろん、あとに残す弟子に引継ぎをする手間暇は確実にかかってしまうし、ベアトリーチェがそれを喜ぶはずはないのだけれど──


「ええ……どうしても断れない御方はいらっしゃらない、と思います」

「──行ってくれるの!?」


 眉を寄せて記憶を探るような表情をしていたベアトリーチェは、ゆっくりと、けれどはっきりと、思った以上に前向きな答えをくれた。不覚にも、そしてはしたなくも大きな声を上げてしまったアンナリーザに、ベアトリーチェは揶揄うような笑みを浮かべた。


「喜んで行きたいとは、まだ申せません。ですが、ほかの方を気にせず流行を生み出せるのは……控えめに言っても、心惹かれます。それに、アンナリーザ様にも父君様にも、まだ御考えがあってのことだろうと存じますので」


 ベアトリーチェの栗色の目が、彼女が操る針やハサミの鋭さでアンナリーザを見つめている。有能かつ多忙なデザイナーを一年近く拘束するなら、報酬以上の利点を提示しなければ叶わないだろう。


「今回の交易の成功と、これからのイスラズールとの関係のために、貴女の力が必要なの」


 アンナリーザは膝の上で手を揃えると、表情も口調も真剣なものに改めた。若く可愛らしい王女様、の顔が通用するのは年配の男の商人たちまでだ。同性のベアトリーチェに対しては、また別の態度が有効だろう。


「衣装の流行を作ることで、イスラズールの社交界──というものがあるなら──に影響を持ちたいというのはさっきも言った通りよ。あちらは開拓者の国で、男性の発言権が強いとは聞くけれど、それでも妻や娘の言葉にまったく耳を貸さないはずはないわ」

「ごもっともです」


 ベアトリーチェが頷いたのは、もしかしたら社交辞令だったかもしれない。でも、少なくとも彼女はディートハルト王子よりも礼儀正しい。

 デザイナーを同行させたい、という意向はフェルゼンラングにも伝えたけれど、あの王子様は、聞いた瞬間に「これだから女の子は」と言いたげな笑みを浮かべたのだ。イスラズールでドレスやお菓子を売り込みたいという甘い夢のような考えに、アンナリーザが固執していると思ったらしい。


(あの方には目的のすべてを教えてないから別に良いけど!)


 ベアトリーチェには見えないように、膝の上で拳を握って蘇った苛立ちを散らす。息を吸って、吐いて──そして続けた次の言葉は、少しひそめた声で囁くことになった。


「これは、《北》の方から聞いたのだけれど、イスラズール王には亡くなったお妃のほかに女性がいるらしいの」


 アルフレートとディートハルト王子の存在は、ベアトリーチェにはまだ明かせない。だから、ユリウスのことだと理解してもらえるような曖昧な表現を選んだ。まあ、は彼の父君にも結婚生活を嘆く手紙を送っていたから、まったくの嘘ということにもならないだろう。


「ああ……よくあることでは、ございますね」

「ええ。お父様が縁談を断ってくださって良かったわ」


 本当に、よくあることではあるのだ。王侯貴族が愛を結婚の外に求めるのも、政略結婚の夫婦が不仲のままで終わるのも。だからベアトリーチェは軽く眉を寄せただけで済ませたし、アンナリーザもさらりと頷くだけだ。


(マリアネラには娘もいたわ……)


 レイナルドの最初の子で、だから彼にとても可愛がられていた。が最後に見た時はまだ三歳くらいだったけれど、今は母親によく似た美女に成長しているかもしれない。あの母子に気に入られるドレスを、と思うとお腹の中が煮えたぎるようだけれど──それは、が覚えるべき感情では、ない。


 だから深呼吸をまたひとつして、話を続ける。ベアトリーチェの説得に専念しなくては。


「貴女が必要なもうひとつの理由は、お金が欲しいからよ。イスラズールのきんではなく、おかねが」

「と、仰いますと……?」


 今度こそ、ベアトリーチェにも見当がついていないようだったから、アンナリーザは少しだけ微笑んだ。


「マルディバル王家から貴女へのお支払いには、クロスタ金貨を使っているわね。《北》のクローネ金貨、《南》のアシャラ銀貨を使う人もいるでしょうし、《東》の方銀銭ほうぎんせんでも、受け付けないことはないでしょうけれど」

「ああ……イスラズールの現行の通貨が分からない、のですね?」


 アンナリーザが広げてみせた掌の中に、ベアトリーチェは各国の通貨の幻を見て取ってくれたようだった。さすがの理解の早さに、アンナリーザの声も頷きも、知らず、大きくなってしまう。


「そうなの。国同士の交易なら金や宝石で支払ってもらえば良いけれど、それではあちらで身動き取れないもの」


 エルフリーデが存命の頃は、フェルゼンラングの通貨も流通していた。でも、あれから二十年だし、両国の国交は途絶えたしで、今はどうなっているか分からない。イスラズールの使者にそれとなく聞いても、必要なものがあれば手配するからと、取り合ってもらえなかった。他国の者が国内で自由に動くことを歓迎しないのは、当然のことではあるのだけれど。


「だから、必ず欲しがる者がいる、しかも、それなりの金額の品が必要だとお考えなのですね?」


 ベアトリーチェが珍しいほどはっきりと口元をほころばせたのは、自身への評価を悟ったからだった、と思いたかった。イスラズールの貴婦人が流行に飢えていることはきっと間違いないけれど、大陸のデザイナーなら誰でも良いという訳ではないのだ。必ずかの地の女性を魅了してくれる技術とセンス。それに、アンナリーザの意図を即座に理解してくれる知性と見識を持ち合わせた人でなければ。


「そう! お酒やお菓子でも良いのかもしれないけれど、あまり場所を取るのも困るし、お菓子は材料がどれだけ手に入るか分からないし──」

「その点、私は連れていけば良いだけですものね。布も糸も針も、イスラズールにまったくないということはないでしょう」


 言葉で頷く代わりに、アンナリーザは両手を伸ばしてベアトリーチェの手を包み込んだ。彼女のそれより幾らか硬く、筋張った手指が生み出す美と繊細さを思って、心からの畏敬を込めて押しいただく。


「貴女の手と頭脳は無から財宝を生み出し得るわ。その点では、ベアトリーチェ、貴女は金よりも香辛料よりも貴重な宝物だわ……!」

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