第2話 麗しの王子様は話を聞かない

 次の商会に向かうため、アンナリーザは王家の紋章をあしらった馬車に乗り込んだ。扉を開けて、乗車を手助けしてくれるのは黒い髪のだった。黒髪──そして深い碧の目と端整な顔立ちの彼は、堂々と彼女の隣の席を占めた。従者にあるまじき振る舞いはそれでは終わらず、そのはアンナリーザと目線を合わせて微笑んだ。


「さすがはマルディバルの王女でいらっしゃいます。海と交易の国の。商人というのは──私は、会ったことがない種類の人々なので」


 従者の扮装でアンナリーザに付き添っていたのは、フェルゼンラングの第三王子、ディートハルトだった。兄と予想した通り、彼はイスラズール行きの使節には身分を隠して潜入する。かしずかれて育った王子様であるがゆえに、人前で命令を発したりしないよう、お忍びに慣れておけ、という意向らしい。


(アルフレートも苦労するわね……)


 異国の地で世間知らずの王子の言動を監督するなんて、たぶん外交官の仕事ではないだろうに。前世の記憶よりもだいぶ老けた、今のアルフレートの姿を思い浮かべて、アンナリーザは密かに同情する。もちろん、の教育を押し付けられた彼女のほうも、十分同情されるべき立場にいると思うけれど。


「恐れ入ります。でも、あの方々は礼儀正しく信頼もおける方々ですわよ? 違う大陸の方々と交渉するのに、信義を重んじないのではお話になりませんもの」


 フェルゼンラングの宮廷が格式張って自由がないこと、彼女もよくよく知ってはいる。だからディートハルトにとっては何もかもが新鮮なのだろうし、強面の商人たちの風貌には身構えもするのだろう。彼の見識が広がるのはきっと良いことなのだろうから、アンナリーザとしても協力したくない訳ではない、のだけれど。この王子様の言動は、どうにも「分かっていない」感じがして不安だった。


(マルディバルがここまでしているのだから、フェルゼンラングも誠意を見せてくれるわよね?)


 王子様の同行を承知したのは、無条件に従うという訳ではない。父もアンナリーザも、無言の圧をかけたはずなのだけど。

 アンナリーザの願いを余所に、動き始めた馬車に揺られて、ディートハルトは優雅に首を傾けた。すっと通った鼻筋や整った唇、細い顎の線に無邪気に見蕩れることができたら、どんなに良かっただろう。


「そういうものですか。私は、何かあったら貴女をお守りしなければならないかと覚悟しておりましたが」

「殿下に万一のことがあれば、フェルゼンラングとの外交問題になってしまいます。私のことはどうぞお構いなく──ですから、あの、いきなり殴りかかってくるような方たちではないのですわ」


 ほら、ディートハルトは根本的なところを勘違いしている。アンナリーザと商人たちは既知の仲であって。そもそもマルディバルの王族は、彼らにとっては当然敬意や忠誠の対象であって。というか、礼儀を知る人々だと話したばかりだというのに。


(人の話を聞いていないのかしら。こんなことで、イスラズールでは大丈夫なの……?)


 今は、マルディバル王家の名のもとで、話が通じる商人たちとアンナリーザとのやり取りを傍で聞くだけで良い。それに、いざとなればフェルゼンラングの名を振りかざすこともできるのだろうけど。イスラズールでは、ディートハルトたちの動きはマルディバルは関知しない、ということになっている。レイナルドを引きずり下ろす陰謀にまで関わるのはあまりに危険で、露見した場合は国の名誉も損なわれる。これでも完全な予防線とは言えないけれど、マルディバルはあくまでもお膳立てをするだけ、なのだ。


「……信頼できるか、という点では、イスラズールのほうが不安ですわ。ずっと外交も交易も知らないできた国なのですもの。次のイスラズール王は、建設的なお話ができる方だと良いのですけれど」


 ディートハルトのとても綺麗な顔を窺いながら呟くのは、イスラズールは商人たちより油断ならないぞ、という警告が半分。そしてもう半分は、《彩鯨アイア・バレーナ》号の時のように、フェルゼンラングの計画を漏らしてくれないかしら、という期待が理由だった。でも──


「アンナリーザ様の──というか、マルディバルの懸念は無用のものです。イスラズールが心正しい王によって導かれることを、我が国フェルゼンラングもかねてより切望しておりますから」


 計算でとぼけたのか、アルフレートに釘を刺されたであろうことが効いているのか、それとも純粋にで答えたのか。とにかく、ディートハルトの答えはまたしても微妙に的外れで、しかもアンナリーザエルフリーデの胸を抉った。


「エルフリーデ妃は、心正しく御方に嫁がれたのですね……」


 前世のことは──ディートハルトが教えてくれることを期待した、クラウディオの行方を除けば──過去のこと。今世のアンナリーザには関係ないことだと割り切ったつもりなのに、前世の肉親にこうもさらりと言われてしまうと、勝手に傷ついてしまうのだ。


「お気の毒なことでした。その当時は、誰も気づいていなかったのでしょう」

「ええ、そうなのでしょうね」


 アンナリーザだって分かっている。ディートハルトにとっては、会ったことのない叔母の話だ。フェルゼンラング王家の歴史を紐解けば、不幸な結婚も不幸な死もありふれている。かつてのエルフリーデがそうだったように、多くの先祖は本の中の名前でしかないのだろう。そのていどの人物に対して、切実な悲しみや哀れみを抱いてもらおうだなんて、無理な話だ。


 それでも、無難な相槌を考えるのが苦しくて、アンナリーザは窓の外に目をやった。

 《北》大陸の南端近くに位置するマルディバルの太陽は明るく眩しく、行き交う人々や建物を照らしている。フェルゼンラングの冷涼で短い夏とは大違いだ。イスラズールはここよりもさらに少し南に位置するから、今はもう盛夏の日差しと暑さだろうか。


(今の私ならあの国ももう少し好きになれると思う、けど……)


 エルフリーデの時でさえ、色鮮やかな花や鳥には目を瞠らずにはいられなかった。マルディバルに生まれてからは、様々な国に様々な文化があることを教えられている。閉ざされたフェルゼンラングの王宮で育ったエルフリーデよりは、逞しくなっているはずだけど。でも、自然や気候ではなく人間が相手だとどうだろう。まともに交渉する姿勢があれば良いのだけれど。


 アンナリーザの憂い顔に気付いているのかいないのか、ディートハルトはどこまでも朗らかだった。


「ラクセンバッハ侯爵も思うところがあるようで──だから貴女がイスラズールにいらっしゃる必要はないと、大層案じているのですが」

「そうですか」


 やはり、アルフレートはアンナリーザとエルフリーデを重ねている。それは、朗報のはずだった。彼女が不幸な結末を迎えることがないように尽力してくれる、かもしれない。


(私がだと、知らないのに。しょせん、彼の自己満足に過ぎないのだけど)


 遅すぎる配慮は、エルフリーデとしては悔しく腹立たしい。でも、アンナリーザとしては冷静に利用すべきものだ。例によって相反するの想いで騒めく胸を抑えようと、アンナリーザは深呼吸するのに忙しかった。──だから、ディートハルトが長身をかがめて耳元に囁いた言葉を、聞き取る余裕はない。


「私としては嬉しいですね。可愛らしい姫君と一緒の旅路なんて、素敵ではありませんか?」

「はい?」


 目を瞬くと、貴公子の端正な顔が意外と間近にあって息を呑む。でも、聞き返すことも距離を取ることもできなかった。アンナリーザが何かしらの反応をする前に、馬車が激しく揺れて止まったのだ。


(何? 人が飛び出したの……!?)


 衝撃で乱れた髪やドレスを整えていると、車外からは馬の不満げないななきと御者の怒声が聞こえてくる。


「何をする!? この馬車に乗るのがどなただと──」

「非礼は幾重にもお詫びする。だが、中の御方にたっての請願がある。どうか話を聞いていただきたい……!」


 応じた声は、若々しい青年の声だった。でも、凛とした口調と裏腹に、ずいぶんと聞き捨てならないことを言われた気がする。この馬車には、王家の紋章が誇らしく輝いているのだ。なのにあえて止めるだなんて、不遜にも不敬にもほどがあるはずなのに。

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