三章 《北》から来た貴公子、増える

第1話 美味しい食事は大事、とても

 アンナリーザがイスラズールの大使を務め、交易や両国の国交についての交渉の矢面に立つことは、すぐに主だった貴族や商会の承認を得られた。イスラズールとの交易が今後、マルディバルの経済に重要な影響を及ぼす──可能性が高い──ことは確かだから、王族が出向いたほうが良いだろう、という流れが父と兄によって作られたのだ。


 どうせならイスラズール王妃を狙ったほうが良いのでは、とか。若い娘には荷が重いのではないか、とか。兄たち同様、現状も知れない国に向かわせるのは危険すぎると主張する者もいた。

 でも、父が決めたことであること、それに何よりアンナリーザ自身が熱意を示したことで、彼らも納得してくれたのだ。


『何しろアンナリーザ様は可愛らしいですからな。イスラズールの荒くれどもも油断してくれることでしょう』

『ティボルト殿下にお貸しする船を用意して待っておりましょう。我が国の王女殿下をお見捨てすることはございませんから』

『麗しい姫君が海の彼方から富をもたらすことを祈っておりますよ』

『イスラズールとの交易を独占できるなら、確かに好機。陛下のご英断を支持いたします』


 マルディバル王家は、臣下や民と概ね良い関係を築けている。だから、王女であるアンナリーザは彼らの娘でもあるという訳で、過剰にも思えるような誉め言葉は面映ゆかった。それに──


(皆さま、打算だって当然あるでしょうし……)


 父が娘可愛さに判断を誤ったと見られたら、臣下からの糾弾を免れなかったかもしれない。そう思うと冷や汗が出るし、改めて背筋が伸びる。

 まして、フェルゼンラングの思惑までもを教えられる相手はごく少ない。他国の王位に関わる陰謀は、それ自体が危険だし、公になればそれこそ非難されるべき類のものだ。大国に脅されるような形を、屈辱と捉える者もいるだろう。


(絶対に、失敗してはならない。マルディバルに決して悪評をもたらすことがないように。私が持ち帰るのは富と名誉でなければならない)


 祖国の将来という重圧を、にわかに細い肩に感じながら──アンナリーザは、早速行動を開始することにした。


      * * *


 マルディバルの港に館を構える商会のひとつを、アンナリーザは訪ねていた。いまだ情報が少ないイスラズールへの航海に、船や金を出したがる者はそういないから、王女自ら説明とに励んでいるという訳だった。


 もちろん、も携えている。


「──いかがでしょう? お気に召していただけたでしょうか」


 異なる大陸、異なる文化の商人や王侯、時には海賊や盗賊の類とも渡り合う商人たちは、見た目からして手ごわい相手だった。水夫上がりで筋骨隆々として、着ている服がはち切れそうな者。それこそ海賊さながらの鋭い目つきの者。《南》の曲刀で斬りつけられたという傷を顔に刻んだ者。

 アンナリーザの従者は少々怯えた様子で顔を強張らせているけれど、彼女は臆せず一同に微笑みかけた。商人といえどもマルディバルの経済の重要な担い手だから、王女として挨拶したことも何度かあるのだ。彼女にとっては、近所の強面の小父おじ様たち、といったところだ。


「殿方のお口には甘すぎるかもしれませんけれど、でも、二度焼きパンビスコクトよりは食べやすいのではないかと思いますの。チーズや塩漬け肉と合わせれば、もう少し食事らしくなるかもしれません」


 彼女が商会の面々に出したのは、砂糖とバターと香辛料をふんだんに使ったパン──のようなもの、だった。甘さから言えば、もはや菓子と言っても良い。強い酒精に漬けたナッツや果物も大量に練り込んであるから、地味な見た目と裏腹にかなり高価な代物だ。そして何より重要なことに、じっくり焼いて水分を飛ばしていること、砂糖と油脂に包まれていることで、とても日持ちが良い。


(《北》では伝統の味だけど……?)


 エルフリーデの記憶から着想し、本で読んだことにして作らせたものだった。長い航海中、代わり映えのしない食事にせめて彩りを添えるためにどうか、と。何しろフェルゼンラングの庶民の家では、ひと冬かけて大事に少しずつ食べるものだと聞く。マルディバルとイスラズールの間の海は、《北》の冬に比べればずっと温暖だけど、何か月もかかる訳ではない。暗い船倉に閉まっておけば、まあ何とか持つだろう。


 果物などを練りこんだ焼き菓子はこの辺りにもあるけれど、「これ」は見た目から想像するよりもずっと甘く、食べ口も重い。珍奇な品を鑑定する目つきで薄く切った「それ」を口にした商人たちは、それぞれ眉を寄せたり首を傾げたりしてアンナリーザの心臓をどきりと跳ねさせた、のだけれど──


「ふむ、確かに酒の肴にはならないのでしょうが──」

二度焼きパンビスコクトよりは柔らかいのは良いですな」

「私は甘いものも好きですよ。これなら腹持ちも良さそうだ」


 さすがは、四方の品々を手広く扱ってきた面々だった。内陸のフェルゼンラングの伝統菓子は初めてだったかもしれないけれど、「これはこれで」と思ってくれたようだった。願ってもない反応にアンナリーザは笑みを深めて胸の前で手を組み合わせた。


「良かった! イスラズール行きの船では、こちらを食卓に出してもらおうと思っておりますの」

「王女殿下と、それに、侍女も同行なさるのでしょうからな。甘味なしでの長旅はお辛いでしょう」


 刀創の男は、見事にアンナリーザの意図を言い当てた。エルフリーデの記憶で重々知っている通り、宮殿育ちの小娘には外洋で荒波に揺られる旅路は辛いもの。はるばるイスラズールにまで従ってくれる侍女たちのためにも、主としてできるだけの環境を用意してあげたい。──でも、理由はそれだけではなかった。


「軟弱なことで申し訳ございませんけれど。でも、私たちのためだけではなく、船乗りの方々にも楽しんでいただけたら、と考えたのですわ」


 商人たちの目が、細められたり見開かれたりしてそれぞれ疑問と驚きを露にした。海千山千の彼らが、小娘相手に動じるはずはない。彼らの表情は、アンナリーザに説明を求めてのことだろう。だから、彼女も惜しみなく笑顔を浮かべて意図と情報を開示する。


「イスラズールとの、最初の交渉ですもの。交易の成立まで持ち込めるか分かりませんでしょう? 皆さまが出資を躊躇われるのも、わざわざ出向きたいという方が少ないのも分かりますの。報酬に加えて、待遇の面でも王家の誠意をお伝えできれば、と思っております。もちろん、航海には不可欠なお酒も、良いものを用意いたします」


 砂糖と香辛料を大量に使ったパンは、当然のことながら原価が高くなってしまう。王女やその侍女が楽しむなら分相応でも、船乗りの日常食に出すには割高だろう。でも、そこをあえて踏み切ることで、人を集められると良いという考えだった。


(破格の条件だということは、すでにお伝えしましたでしょう?)


 商人に倣って、アンナリーザも微笑みによって言外の想いを伝えようと試みる。


 通常は、交易の利益というものは出資額に応じた配当から生じるもの。つまりは、売買が不首尾に終われば、あるいは商品の仕入れが不十分なら、投資額を回収できない恐れがある。でも──マルディバルは、今回の航海で損失が発生した場合は、国債で補償すると提案している。

 とはいえ、たとえ利子がついても全額が償還されるのは何年も後のことになる。少なくない金額や船や人手を、成算が計算しづらい航海に投じることについての損得勘定は各自に任せるとして──マルディバル王家は、王女を無事に帰らせるために全力を尽くす所存だと、理解してくれれば良い。


「確かに航海中の食事は概ね酷いものですからな。美味い飯に釣られる者もいるでしょう」

「そうだと嬉しいですわ」


 幸い、この商会の面々は王家の姿勢を好意的に受け止めてくれたようだった。王女アンナリーザが自ら出航することの効果は、たぶんここにも出ているのだろう。国を挙げての事業だと、誰が見ても分かるだろうから。事実、海賊並みの強面の男も、アンナリーザの前では表情を緩めるのだ。


「それに、王女殿下にご同行できる栄誉も大きいでしょうな。条件も含めて人を募ってみましょう」

「恐れ入ります。お気持ちに心から感謝申し上げます」


 言葉だけでなく感謝を示すために、アンナリーザは席を立つとドレスの裾を摘まんでお辞儀をした。城下を訪ねる機会、しかも昼間だから、格式高い絹の衣装ではなく、気楽な麻の素材のドレスだ。とはいえ気取らない格好のほうが商人たちには好ましいだろうし、麻のさらりとした質感は彼女の若々しさを引き立てると、母と侍女たちは太鼓判を押してくれた。


「アンナリーザ様直々の『お願い』とあっては応えない訳には参りませんからな。我が商会からも、積み荷を融通できないか検討いたしましょう」

「まあ、ありがとうございます!」


 母たちの評価は、果たして、身内のひいき目だけではなかったのかどうか──嬉しい言葉を聞いて、アンナリーザはいっそう笑顔を輝かせた。

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