第3話 訳も分からず取り残されて
思わぬ事態から立ち直ったのは、ディートハルトのほうが早かった。とても、不覚なことに。深い碧の目を見開いていた彼は、すぐに決然と表情を改めると、アンナリーザの肩に手を置いて、言い聞かせたのだ。
「アンナリーザ様はここにいてください。私が様子を見てきますので」
今の状況以上に訳の分からないことを言われて、アンナリーザは数秒の間、固まってしまった。そしてじわじわと理解が及ぶと、込み上げるのは呆れと戸惑いだ。ディートハルトは、馬車の外に飛び出そうとしている。王家の紋章にも怯まず、彼女たちの道を塞いだ不審者がいるというのに!
(この方、何を考えているの……!?)
外には、御者のほかにも護衛の兵が騎乗して付き従っているのだ。他国の王子などという高貴な御方が迂闊に外に出ては、彼らの行動を妨げてしまうだろうに。
「ご心配なく。すぐに戻ります」
「……いけません、殿下。殿下こそ大事な御身でいらっしゃいます!」
アンナリーザが心配しているのは、ディートハルトの身の安全というよりも、彼が怪我をしてしまった場合の外交問題だった。愚かな真似は止めてください、と。あまりにも直截な制止を呑み込んで、言い直すための間が空いてしまったのも良くなかった。ディートハルトは、優雅かつ素早い動きで扉を開けてしまう。奥の席に詰められた上に、そもそもドレス姿のアンナリーザでは、とっさに止めることはとてもできなかった。
差し伸べた手が虚しく宙をかき、扉がまた閉められるのを見つめながら、アンナリーザは途方に暮れる。
(どうしよう。私まで飛び出す訳には──)
ディートハルト同様の軽挙は慎まなければ、と。必死に自分に言い聞かせて、焦りに高まる心臓を抑えて、アンナリーザは車外の様子を窺おうとした。止まった馬車は、きっと道を塞いでしまっているだろう。野次馬の声が高まっているのも聞き取れた。人が集まることで、もしも不審者が乱暴な目的を抱いていたとしても、諦めてくれると良いのだけれど。
「この馬車に乗っているのはマルディバルの王女殿下でいらっしゃる。それを承知での狼藉か!?」
王族だけに公的な式典に出ることもあるからだろうか、ディートハルトの口上は堂々としてよく響くものだった。野次馬の中には紋章が見えていない者もいたのか、王女と聞いてさらに起きたどよめきが、馬車をも揺らす。
(
通りすがりの者にとっては、さぞ見ごたえのある「事件」だろう。豪奢な馬車に、麗しい貴公子に、見えないけれど「お姫様」までいるだなんて。お芝居の一幕ならアンナリーザも楽しむことができたかもしれないけれど、自分が登場人物のひとりにされていると思うと恥ずかしくて居たたまれない。何より、現実には筋書きがない。つまりは、次に何が起きるのか誰にも分からないのだ。
(どうか、誰も怪我をしませんように……!)
手を組み合わせて切に祈りながら、アンナリーザは「不審者」の反応を待った。イスラズールに話が通じるかどうかの心配をしていたところなのに、マルディバルの地にいるうちにこんな事件が起きるなんて、先行きが不安になるにもほどがある。
「王女殿下の馬車とは承知しているし、非礼は詫びるともお伝えした。不審とあらば捕えていただいて構わない。とにかく──マルディバルが勧めている事業について、話をさせていただきたい!」
──と、聞こえてきたのが意外と理性的な内容だったのでアンナリーザは首を傾げた。
(捕まるのも覚悟の上、ということ? それに、事業、って──)
イスラズールとの交易について、ということだろう。マルディバル王家の、特にアンナリーザを選んで話したいというなら、なおのこと。
(……知っている人は、それは、多いわ。でも、こんな強引な手段で話したいことって……?)
マルディバルの主だった貴族や商会には広く出資を呼び掛けているのだから、秘密ということでもない。とはいえ民にわざわざ告知することでもないから、知らない者は当然知らない、ていどのことだ。……まあ、表向きはあの国と断交しているはずのフェルゼンラングが噛んでいるということ、今まさに馬車を降りたばかりのやたらと美形の
(野次馬には伏せてくれるというなら、考えてくれているのかしら?)
交易開始の噂を聞きつけての出資希望者なら、話を聞く余地は十分にある。王家の馬車を止めたのはとてつもなく強引で非礼で、罪に問われかねないことではあるけれど、伝手や人脈がない人なら仕方がない──かも、しれない。
外からは、護衛が野次馬を追い払う声は聞こえても、銃や剣が鳴る怖い音は聞こえない。つまりは、声の主は武器を持ってはいないのではないだろうか。……たぶん。
「そこまで言うのならまず下馬するのが筋であろう。王女殿下の前で頭が高い。──捕縛した上で取り調べさせてもらおう」
ディートハルトの言葉によると、相手は騎乗しているらしい。馬を所有できるなら、やはりそれなりに裕福で教養もあると期待できるだろうか。
「確かに。心行くまでお調べいただきたい」
すんなりと頷いたらしい「不審者」の態度に安心しながら、アンナリーザは自ら馬車の扉を開けた。外に出た瞬間の陽光が眩しくて、思わず目を細める。
逆光によってほとんど
そこへ、アンナリーザは慌てて進み出た。この場の人の目を引きつけるため、片手を高く掲げて。
「お待ちください。私に話があるという方に、乱暴なことはしないでください」
アンナリーザの容姿を知る者が、野次馬の中にもいたらしい。王女様だ、という呟きがさざ波のように広がって、人の壁がじわりと迫る。日差しだけでなく人の視線の圧にも押されて、少しだけよろめきそうになってしまう。
「アンナリーザ様、出てきてはならないと言ったでしょう」
「でも、ディートハルトで──様。御用があるということですから──」
殿下、と言わなかったアンナリーザは、よくやったはずだった。王女たる者が従者に敬語を使う不自然さはともかくとして、その尊称さえ言わなければ致命的な失敗ではない──そう、自分に言い聞かせようとしたのに。
「ディートハルト、殿下? なぜ、ここにいらっしゃるのですか……!?」
アンナリーザが辛うじて呑み込んだ尊称が、あっさりと、しかも大声で放たれた。それを口にしたのは、馬車を止めた「不審者」の青年だった。
(嘘、なんで、どうして……!?)
混乱で頭がいっぱいになったアンナリーザは、虚しく唇を開閉させるだけ。言い訳を思いつくこともできず、ただ、不思議そうに目を細めて首を傾げるその青年を眺めることしかできない。
白昼の太陽の光に煌めく、銀色の髪。目は、宝石のような翠色。端整な顔立ちに、先ほどからの言葉遣いの印象を裏切らない、気品ある佇まいをしている。白皙の貴公子──というには肌は日に灼けているけれど、額に汗して働く農夫ほどではない。商人との交渉で船に乗ることもあるティボルトもこんな感じだ。つまりは、身分の高い人物であってもおかしくはない雰囲気の青年ではある、のだけれど。
(ディートハルト殿下のお顔を知っている──フェルゼンラングの貴族が、こんなところにいるはずはないでしょう……!?)
心の中の悲鳴のように叫んだことは、でも、あっさりと覆された。彼女を支えるディートハルトが、先ほどと打って変わって弾んだ声を上げたのだ。
「おや、君は──」
どう聞いても「思いがけず知り合いと出会った時の喜び」しか伝わらない口調に、アンナリーザは意識が遠のくのを感じた。
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