第7話 優しいだけでは生き残れない

「アンナリーザ、何を言い出すのだ? お前が国の行く末まで気にする必要はないのだぞ」

「必要は、ありますでしょう、お父様。私はマルディバルの王女なのですよ?」


 フェルゼンラングの教育方針は間違っていたと、今なら思う。前世エルフリーデではあれほど言い聞かされても腑に落ちなかったのに、両親や兄から愛されてると思うだけで王族の自覚が湧き出てくるのは不思議なほどだった。


 父だけでなく、隣に掛けた兄ティボルトも、心配そうに眉を寄せ身を乗り出して、妹の表情を窺う。自己犠牲のために無理に笑顔を作っているのではないのかと、見抜こうとするかのように。


「最初に話を聞いた時は倒れたと聞いたぞ。そもそも嫌だったのだろうに。フェルゼンラングまで絡んできて、なぜ──」

「お父様やお母様、お兄様がいてくださるからですわ」


 でも、これはアンナリーザが自らの意志で考え、望んで決めたことだ。だから兄たちの疑いを深めることなく、晴れやかに、堂々と言い切ることができたはずだ。


「もちろん、最初は恐ろしいと思いましたし、亡くなったエルフリーデ妃のことは──お気の毒だと、思いました。海を越えて嫁いだうえに、ご夫君に顧みられなかったなんて」

「イスラズール王には愛妾がいるという話だろう。フェルゼンラングの王女さえ冷遇されたというなら、今さら良識など期待できないぞ」


 兄の心配は、真摯なものだとは、分かる。でも、アンナリーザは思わず演技ではなく笑ってしまう。



 兄だって、両親に愛され民や臣下に慕われ、大切に育てられた王子様、なのだ。肉親によって異国に売り飛ばされる寂しさと悲しさ。夫が愛人に注ぐ優しい眼差しが、自身には決して向けられない辛さと悔しさ。あのマリアネラの、輝く笑みを見た時の絶望と羨望と──そんな厭な感情を、アンナリーザエルフリーデは嫌というほどよく知っている。


「分かっております。期待などしておりませんし、イスラズール王妃になんてなりません。あちらの申し出通り、交易のお話をしに行くだけです。……そもそも、レイナルド王はフェルゼンラングに引きずり下ろされる方かもしれないのですし」


 だから、兄の心配は無用のものだ。たとえ目の前に宝石を積まれようと、美辞麗句を連ねられようと、彼女の心が動くことはあり得ない。マリアネラに捧げた言葉の使い回しなんて見つけたら、笑ってしまいそうだ。レイナルドがいかに彼の容姿に自惚うぬぼれているとしても、父の世代の男でしかないのだし。


「外洋での航海は、《彩鯨アイア・バレーナ》号の舟遊びとは訳が違いますよ。危険もあるし──若い娘には辛いことも多いでしょう」


 そして、母の心配げな、そして試すような眼差しも、アンナリーザは真っ直ぐに受け止める。波高い海の恐ろしさ、見渡す限り陸地が見えない、青に染まる視界の心細さ。船乗りたちの荒々しい言葉遣いも振る舞いに、硬い二度焼きのパンや傷みかけた塩漬け肉の味の酷さ。エルフリーデにとっては、死んだほうがマシだと思うような旅路だった。


(でも、私はマルディバルの王女だもの)


 生まれた時から潮の香りに親しみ、海を遊び場にしてきた。エルフリーデが恐れた波の音は、アンナリーザにとっては子守歌だった。何ごとものほうが簡単なはずで──だからきっと、大丈夫。


「はい。航海については、マルディバルの船乗りを信じて命を託すしかないと思っております。でも、イスラズールでのことについては、私、あるていど安心しておりますの」

「なぜだ、アンナリーザ。どうしてそう呑気にしていられる」


 兄の疑問は、当然のもの。そして、アンナリーザにとっては待ち構えていたものでもあった。ここぞとばかりに、にっこりと満面の笑みを浮かべて、やや上目遣いにティボルトを見上げる。この笑顔とこの角度に、兄は弱いのだ。


「だって、お兄様。もしも──もしも、ですわよ? 私がイスラズール王の愛人に虐められたとか、王に蔑ろにされたとか、人質として幽閉されたとか聞いたら、どうなさいます?」

「艦隊を率いて助けに行く。当たり前だろう」


 どうしてそんな簡単なことを聞かれるのか分からない、とでも言うかのように眉を顰めて、ティボルトは即座に断言した。その早さと力強さは、父と母が顔を見合わせて笑ってしまうほど。自身の問いに、自身の行動で答えたことを、兄はまだ気付いていないのだ。


「なるほど。信じてくれているのだな……」


 そう──、今の家族は絶対にアンナリーザを見捨てたりしない。そう確信していればこそ、恐れることなく旅立つことができるのだ。


 よりいっそう胸を張って、アンナリーザは大きく頷いた。信じていたとはいえ、迷わず助けると言ってくれた兄の言葉に、目の奥が熱くなっているのは内緒のことだ。


「はい! フェルゼンラングもついてくれるということですし、軍資金については心配いらないかと。……ラクセンバッハ侯爵も、エルフリーデ妃のことを気に病んでおいでのようでした」


 アルフレートは、イスラズールのレイナルド王に求婚されたからというだけで、縁もゆかりもないはずの他国の小娘を亡きエルフリーデに重ねていたようだった。幸いにというか何というか、アンナリーザには実際に彼女エルフリーデの記憶を持っている。彼の罪悪感を上手いこと刺激できれば、悲劇だか後悔だかを繰り返さないために尽力してくれるのではないだろうか。


(それで償った気になってもらうのも、のでしょうけど……)


 今度は、彼女のほうが利用してやるのだ、と思うことにした。彼女エルフリーデを利用して見捨てた人たちなのだから、彼女アンナリーザが同じことをしたって良いだろう。前世のことは、前世のこと。今の家族と祖国のほうがずっとずっと大切なのだから。


「それに、お兄様がお伝えしたはずですけれど、イスラズールにはディートハルト殿下も潜入されるおつもりです。……横暴な方ではないですけれど、交易にも航海にも明るくない御方です。海の上で無理を仰られた時に、王族の立場の者がいれば、お諫めするのもまだ楽そうではありませんか?」

「一理あるかもしれぬ。──だが、我が娘はいつの間にこれほど賢く勇敢になっていたのか……」


 父が感慨深げに言う通り。これまでのアンナリーザは、それほど愚かでも怠惰でもなかったはずだけど、取り立てて聡明ということもなかった。国の将来や外交のことは、父たちに任せておけば安心だと、悪く言えば油断していたと思う。


「王女としての自覚を持たねばと思ったのです。とても大事な場面ですもの。我が国と、大切なのために、何ができるかを考えなくてはと、必死で……」


 前世エルフリーデの記憶を思い出してしまうと、の家族の優しさと愛情にはいくら感謝してもし切れない。でも、同時に不安も焦りも感じるのだ。


(優しいだけでは生き残れない……狡さも強欲さも、きっと必要なことだわ)


 愛されて守られて育った分を、マルディバルに返したい。前世のこととはいえ見知った人たちが今の祖国を脅かすなら、全身全霊で立ち向かわなければ。エルフリーデの記憶は、きっとそのために蘇ったのではないだろうか。


(それに、イスラズールに行けばクラウディオのことも分かるかもしれない……!)


 マルディバルの王女を自覚しておきながら、彼女はいまだに前世に想いを遺している。エルフリーデが最期に産んだはずの息子、クラウディオのことを。でも、イスラズールであの子の行方を確かめることができたなら、前世のことはすべて終わったことだと思えるだろう。


「頼もしいことだ」


 父は呟くと、従者に目配せして家族それぞれの杯に葡萄酒を満たさせた。


「──すっかり食事が止まっていてしまったな。続きは食べながら──鋭気を養いながらにすることにしよう」


 言われてみれば、供された料理はすっかり冷めるかぬるくなるかしているのだった。


(せっかくのお料理なのに、申し訳ないことをしてしまったわ……)


 一家のやり取りを聞いていた従者や侍女は、手つかずの料理の数々に気を揉んでいたのではないだろうか。使用人たちの心に応えるべく、アンナリーザは慌ててカトラリーを持ち直した。

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