第6話 今の私は家族に愛されている

 話を続ける前に、父は葡萄酒の杯を飲み干した。妻子の前でなかったら、晩餐の席でなかったら、もっと強い蒸留酒にしていたのではないか、という勢いだった。上品な甘口の葡萄酒では紛らわせない憂いなり鬱憤なりがあるのかと、アンナリーザは心配になってしまう。


「イスラズールは、こちらの申し出を喜んでくれた。大陸との商路を欲しているのは間違いないだろう。黄金は日々の糧にはならないからな」

「こちらにも準備というものがありますから。商品を集めるなら早く動かないと」


 父が強欲を戒める格言を引用したのは、ただの前置きに過ぎないだろう。ほかの家族にも伝わっただろうから、ティボルトは相槌の体でさっと先を促した。


「そう。そこも大事おおごとではあるのだが。それよりも何よりも──」


 父の目が、両手を膝に揃えて待っていた娘に注がれた。海のような深い色の碧眼が、今は不安と怒りを湛えて揺らいでいる。イスラズールが何を言い出したのか──アンナリーザはすでに予想はしていた。


「アンナリーザ。我が国の大使は是非ともお前に務めて欲しい、かの国の光景をお前の目で見て欲しいということなのだ」

「な──」


 だから、ティボルトが唸るようにして絶句したのを余所に、彼女は沈黙を守ることができた。でも、それは完全に平静だからという訳でもなくて──


(まただわ。また、あの国はを攫おうとする……!)


 寂しくて怖くて悲しい記憶が蘇って、不意に氷の中に閉ざされたような気分になって。アンナリーザは、気付かれないように拳を強く握りしめた。


      * * *


 寝台の天蓋の中は、の唯一の居城だった。彼女は大国の王女で、地上の楽園のごとき壮麗な宮殿を住まいにしているはずだったけれど、心から寛げて気儘に振る舞うことができる空間は寝台の上くらいなものだった。それも、あまり長く入り浸ろうとすると容赦なく引き出されてしまうていどの儚い居場所でしかなかったけれど。


 その時も、エルフリーデのささやかな「お城」は、女官長によってそのを破られようとしていた。天蓋を掴んで閉じ籠ろうとする少女の抵抗を、黒い絹の手袋がこじ開けて──皺が幾筋も刻まれた厳しい顔が、その隙間から割って入る。

 冷ややかな目に見下ろされる恐ろしさに、エルフリーデは寝台の奥に縮こまった。その彼女の黒髪に、いかにも嘆かわしげな溜息が降る。


「エルフリーデ様。子供じみた振る舞いはほどほどになさいませ」

「……行きたくないの。お父様に直接お伝えしたいのに。来てくださらないの……?」


 エルフリーデは、十歳とか十一歳とかそれくらいの年ごろだっただろう。幼いといえば幼いけれど、でも、子供気分はもはや彼女には許されなかった。イスラズールのレイナルド王子との縁談がまとまって、婚礼の支度に身辺が慌ただしくなったころだった。


 イスラズールから贈られた金銀や宝石を使って、衣装や装飾品が次々に仕立てられていた。侍女たちや、たまに様子を見に来る母や姉たちが口を揃えて褒め称えて羨むそれらは、でも、エルフリーデにとっては重くて冷たいだけだった。豪奢な衣装や調度品は、彼女の代金なのだと子供ながらに察していたのだ。フェルゼンラングの王女を買い求めるのに十分な結納金が積まれた時こそ、彼女は海の向こうへ売られていくのだ、と。


(お父様もお母様も、本当によろしいのかしら。私がいなくなっても……海に沈んでしまうかもしれないのに……?)


 イストロス川の舟遊びも、エルフリーデは好きではなかった。水しぶきが冷たくて、船の揺れに酔うばかりで。さらに波が高く水も深い海の上を、何日も何週間もかけて旅するだなんて、想像するだけで息が止まってしまいそう。両親に訴えたくても、母は笑って祝福するだけだし、父はそもそも何週間も会っていない。


になさっていれば父君様にお会いできる機会もございましょう」

「…………」


 たぶん、エルフリーデが行きたくないと言っている限りは父とは会えない、らしい。母のような笑顔で、素晴らしいご縁を結んでくださってありがとうございます、とかそんなことを言えないようでは。そんな無作法な子供は、王女には相応しくないから。


 でも。それでは。エルフリーデは決して父に不安や寂しさを伝えることができないのだ。


(お父様は……私のことを……?)


 涙の気配を呑み込もうと、エルフリーデが顔を顰めたのを察したのだろう、女官長は天蓋を引き開けると彼女の寝台の端に腰を下ろした。手袋をしたままの手が伸びて、エルフリーデの細い身体をそっと抱き締める。


「よろしいですか。陛下はエルフリーデ様のことを大切に思っていらっしゃいます。姫様がそのようにご様子では、さぞ不本意に思われるでしょう」

「……本当に?」

「本当ですとも」


 エルフリーデの黒髪を梳く女官長の手は優しく、触れた身体は温かかった。けれど、それは血の繋がらない他人のものだ。王女を宥めるために、身分のきざはしの下から手を差し伸べただけ、この女は、決してエルフリーデと同じ高さに立ってはくれない。その言葉も、どこまでも臣下の立場からのものだった。


「エルフリーデ様はイスラズールの最初の王妃になられるのです。なんという栄誉でしょう! フェルゼンラングの王女に生まれても、すべての方が王冠をいただけるとは限りませんのに。陛下は、末の姫様だからといって嫁ぎ先が見劣りするということがないように──」


 女官長の慰めらしきものは、まだまだ続いたはずだったけれど、エルフリーデアンナリーザはよく覚えていない。彼女の心を救うどころか、より深い絶望に突き落とすだけだったから、思い出したくないのだろう。


 彼女はただ、家族に抱き締めて欲しかっただけなのに。


      * * *


 前世の記憶に沈んでいたアンナリーザは、兄の怒声で我に返った。ティボルトは拳で卓を叩いたらしい。皿やカトラリーが立てた音と振動が、アンナリーザの席にも伝わってくる。


「縁談は断ったのですよね? その上で、なぜアンナリーザを……!?」

「それこそディートハルト殿下と同じことだ。新たに国交を結ぶなら、相応の地位の者に出向いて欲しい、と──お前をやる訳にはいかないからな」


 王太子が長く危険な航海に自ら乗り出すのは、確かにあってはならないことだ。悔しげに口を結んだ兄に代わって、今度は母が常になく低く、凄みのある声で呟く。


「レイナルド王が直々に口説き落とそうというのなら、まだ良いのですけれど。娘の母親としては、を心配せずにはいられませんわね」


 アンナリーザ本人としては──不安に震えて良いはずのところだった。母が懸念する通り、レイナルドなら自陣に引き込んだ上でに訴えるくらいのことはする。悪い意味での信頼と確信が、彼女にはある。


 でも、彼女の胸に湧き上がるのは、ある意味ではまったくこの場に関係のない感慨だった。


(エルフリーデは……とても可哀想だったわ。こんなふうに心配したり怒ったりしてくれる人が、いなかったから)


 海の向こうに嫁いでも、王妃の冠を戴いて名前ばかりの夫はできても、は結局ひとりぼっちのままだった。でも──アンナリーザは、違う。家族の誰ひとりとして、娘が幾らで売れるか、国にどれだけの益をもたらすかを考えたりはしないのだ。


「ほかの者はどのように? 良い考えだなどと思う者はいないでしょうね」

「フェルゼンラング率いる《北》の交易網から弾かれるのを懸念する者もいるのだ、ティボルト。もっともなことではある……。そもそもイスラズールとの縁談こそが願ってもないと言う者も。イスラズールはマルディバルよりも国土は広いからな」

「誰ですか、それは。二十歳も年上の男の後妻が良い話のはずがありません!」

「国益を考えれば、ということなのでしょう。この子の親きょうだいでなければ考えそうなことですわ」


 母の言葉がアンナリーザの胸をくすぐり、同時に突き刺す。国に利益をもたらすとしても、娘の幸せのためにならない縁談は喜んで受けることはできない。血の繋がった親や兄なら、そうは考えない。


にとって、エルフリーデは何だったのかしら)


 無言で俯くアンナリーザを、不安に震えているとでも思ったのかもしれない。父が、彼女のほうへ身を乗り出した。


「だが、説得しよう。アンナリーザの姿を見て心が決まった。フェルゼンラングもイスラズールも信用ならぬことを臣下に理解させるのだ。ティボルト、お前にも証言してもらって──」

「御心はとても嬉しいのですけれど、お父様」


 自分アンナリーザ自分エルフリーデを哀れみ、自分エルフリーデ自分アンナリーザを羨んでいた。ふたつの記憶とふたつの思いで、頭の中がぐちゃぐちゃになる。泣きたいのは、嬉しいからか悲しいからか──分からないまま、アンナリーザは精いっぱい胸を張って、明るく微笑もうとした。


「私……行きますわ。イスラズールに。それが一番良いのではないかと思いますの」


 母に言われてその可能性に思い至ってから、彼女も自分の取るべき道を考えたのだ。

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