第5話 一日の終わりに可憐な花束を

 《彩鯨アイア・バレーナ》号を降り、王宮に戻ったアンナリーザは、そのまま自室に運び込まれた湯船に直行することになった。

 潮風と日光が髪と肌に与えた損傷を引きずらないため。髪の色を褪せさせ、頬にそばかすを残させないためには、一刻も早く念入りな手入れをするのが肝要なのだ。若いからとか短い間だったからとかいって甘く見てはならないと、マルディバルの貴婦人は物心ついたころから母や乳母に言い聞かされて育つものだ。ちなみに男の子に対してはそこまで神経質に案じられることはないから、ティボルトはすぐに王子としての公務に向かっている。


 小さな子供なら髪を解いて洗って、そして乾くまでじっとしているのを面倒がるかもしれないけれど、年ごろの乙女ともなれば美容の重要性をちゃんと承知している。まして、身分相応に装うのも王女の義務のうちだから、アンナリーザに否やと言う余地はない。


「この精油を使いなさいな、アンナリーザ。《南》から仕入れた上質の没薬ミルラの精油よ」

「まあ、お母様、ありがとうございます」


 という訳で、ちょうど衣装を身に着けたところで母が現れたのは、娘が行儀よく湯船に入ったかどうかを確かめるためではないだろう、とアンナリーザは考えた。たぶん年若い息子と娘に任せた席の首尾を探ろうとしているのだ。ティボルトが──すぐに撤回していたけど──漏らした通り、フェルゼンラングの第三王子というのはお見合い相手として申し分ないのだから。名目はイスラズールの件だとしても、あわよくば「お近づき」になれれば、と思わないはずがない。


「お見苦しいところでしたけれど、どうぞお掛けになってくださいませ。今、お茶を出させます」

「押しかけたのは私のほうよ。気にしないでゆっくりお手入れしてちょうだい。大切なことだもの」

「はあい、お母様」


 アンナリーザの視線に応えて侍女が引いた椅子に、母はゆったりと腰を下ろした。兄と共に彼女が受け継いだ碧い目が、優しく娘を見つめている。年ごろの王女の振る舞いを見届けようとしているのでもあるのだろうけれど。でも、愛ゆえだと信じられるからアンナリーザが委縮することはない。遠慮なく精油の小瓶を開けて、甘くけぶるような異国な香りを堪能する。


(とても良い香り……! こんな貴重なものをいただいても良いのかしら)


 洗ったばかりの髪を、侍女たちが梳いて水気を拭ってくれる。窓から入る風は涼しくて、力強すぎる太陽が残した火照ほてりを冷ましてくれる。髪や肌にたっぷりと施される香油や化粧水は、そもそもお気に入りの配合だけど、さらにもらったばかりの没薬が加わって、一段と魅惑的な香りに包まれるよう。


 生まれ変わったようなさっぱりとした気分で、アンナリーザは母と向かい合って座った。出された茶も、美容に良い香草ハーブをふんだんに使っている。


(ああ、お腹も空いていたわ!)


 外交の席では、ほんの形ばかり菓子を口にしただけだった。侍女も分かってくれているのだろう、薄いパンに肉やチーズを挟んだ軽食も用意されているのが嬉しかった。


 もっとも、食べ物を頬張るのは、母への御礼と報告を済ませてからだ。三割増しで艶やかさとしなやかさを増した髪をひと房、指に絡めながら、アンナリーザは母に微笑みかけた。


「素晴らしい指通りです。改めてありがとうございます、お母様。王子様にお会いしたのほうが綺麗になってしまったくらい! でも、幸いに──というか何というか──、お兄様のほうがずっと素敵な殿方だと思いましたわ」

「あら、そうだったの」


 大国の王子をばっさりと切り捨てた娘に、母は苦笑した。がっかりしたのか安堵したのかは、品の良い弧を描いた唇からは窺い知れない。母親とは、常に娘よりも何枚も上手なものだから。


「息子の母としては誇らしいけれど、娘の母としては残念ね、『王子様』にときめかないなんて」

「麗しい貴公子ではいらっしゃいましたわ。マルディバルの令嬢のどなたかが射止めてくださるなら素敵なことですけれど」


 それなら、アンナリーザだって手放しで祝福するだろう。大国フェルゼンラングとの結びつきができる上に、想い合う夫婦が生まれるのなら。でもその片方に彼女自身がなりたいとは、断じて思わない。


 ディートハルトは、「王子様」である以前にアンナリーザにとっては「甥っ子」なのだ。相手は知る由もないし、実際は血が繋がっている訳でもないし、彼のほうが年上だけど。それでも、エルフリーデの記憶を持っている彼女が、を結婚相手に考えるなんてあり得ない。

 本当の理由を、母に言うことはできないけれど──表向きの口実なら、幾らでも捻り出せる。


「私だって、もっと違う出会い方でしたら、あるいは。でも、頼りなく見えてしまいましたし……やっぱり今の状況では、それどころではありませんから」

「そう、そうよね」


 二十も年上の殿方の縁談を持ち込まれて、しかもその裏には陰謀があるかもしれないと聞かされたばかりなのだ。若い娘だって、結婚に夢を見る気になれなくても仕方ないだろう。母が形良い眉を少しだけ寄せたのは、娘の心中を慮ってくれたのだろう。──と、アンナリーザは最初、思ったのだけど。


 湯浴みを終えたばかりで艶々としているであろう娘を眺めて、母は目を細め──次いで眉間の皺を深め、深々と溜息を吐いた。


「晩餐にはうんと綺麗にして来てちょうだいね。お父様のご機嫌がよろしくないの。可愛い娘が慰めて差し上げて?」

「そんなお役目でしたら、お母様こそ──」


 四十を越えたばかりの母は、まだまだ美しい。アンナリーザの前世のエルフリーデとは違って夫婦仲も極めて良くて、娘としては時に恥ずかしくなるほどだ。父だって、娘や息子を甘やかすのと同じくらい、妃への称賛の言葉を惜しまないのに。


(……もしかして、イスラズール関係かしら。との縁談を諦めていない、とか?)


 使者との再度の談話では、見合い話は断りつつ、代わりに商談を持ちかける予定だと聞いている。イスラズールの本音が王の再婚よりも大陸との交易だとしたら、願ってもない話だと思うのに。


(レイナルドの意向? それとも、で何かが起きている……?)


「アンナリーザ。可愛い顔に皺が寄ってしまうわ」


 母につられて、知らないうちにアンナリーザも思い切り顔を顰めていたらしい。母の柔らかく温かな指先が額に触れて、彼女はやっと我に返った。目を瞬くと、母は少し弱々しく微笑んでいた。


「詳しくは後で、家族が揃ってからよ。貴女たちからの報告もあるのだし。でも──そうね、お父様には、娘をまだまだ手放したくないと思っていただきたいわね。お母様の願いでもあることよ」


 意味ありげな物言いは、アンナリーザの懸念を裏付けるかのようだった。


      * * *


 母の要請に従って、アンナリーザは晩餐の席に向けて美しく装った。珊瑚色の薄い絹を重ねたドレスに、髪には真珠をあしらって。ドレスの色も真珠の柔らかな輝きも、彼女の瑞々しい肌によく映えるだろう。いずれも海から産する宝石の色だから、マルディバルの王女に相応しいはず。侍女たちからは人魚の姫君もかくや、とお墨付きをもらっている。


「アンナリーザ。一日の終わりに素敵な花束をもらったようだ」

「嬉しい御言葉、ありがとうございます、お父様」


 娘の装いを見た父が相好を崩したので、アンナリーザはひとまずは安心した。両親の向かいに兄妹が並ぶ、家族だけのごく私的な晩餐なのに、少し気合を入れすぎたのでは、とも思ったのだけれど。


「──では、ディートハルト殿下は交易の実務には明るくないご様子なのだな」

「ええ、交渉の相手は実質的にはラクセンバッハ侯爵になるのかもしれませんわ。まあ、殿下は第三王子でいらっしゃるし──」

「王族が出ればイスラズールも悪くは思わないでしょうから。指揮官というよりは、誠意の証として渡航されるのかもしれません」

「あり得るな、ティボルト。それもまた王族の役目ではある……」


 海の幸を味わいながらの話題は、今日の外交の成果だった。アンナリーザとティボルトにとっては、何を見て聞いて、どう判断したかという試験のようなものでもある。さらには、次の手を考えているところを見せるのも、商人の国の王女としては大事なことのはずだ。


「だから、何を売り込めば良いかのお話はできませんでしたの。お父様のほうは……? イスラズールからの要望は、ありまして?」


 アンナリーザはできるだけさりげなく切り出した。上目遣いに窺う先で、母は小さく頷いて、父は軽く眉を顰めた。


「ああ──それについて話さなければならないだろうな」


 大事な話なのは、家族の誰もが察している。だから四人全員がカトラリーから手を放し、晩餐の席にはしんとした沈黙が降りた。

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