第4章

 あんずが仕事場に姿を見せなくなってから、一週間が過ぎた。この前一緒に食事に行っていた清さんたちに聞いても、何をしているか分からないと言う。

 今日一日ともに仕事をするのであろう、初老の女性、森野さんと潮風を受ける。二人一組が原則の仕事も、あんずがいなければ相手は日替わりだ。それはそれで楽しいこともあるが、無駄な気疲れもある。

 今日の仕事が終われば、いいかげん家に行ってやろうか。あんずの家には何度かお邪魔したことがある。自炊ができず普段は外食ばかりのあんずだが、最近料理を教えて欲しいと言われたのだ。それも、今目指している資格に関わることだと言う。彼の目指す「幼児者支援員」は、若返りが進み自立した生活を送るのが困難になった子どもを支援するため、共に生活をする人だ。さらに幼くなり医療的ケアが必要な乳児になると、乳児院に引き継がれそこで一生を終えることになる。多分俺、子どもが好きなんです。照れて笑った顔が思い出される。

「......ねえ、わたさん。あなた、この世界に来てどのくらいなの?」

横を歩いていた森野さんに声をかけられて我に返る。ずっと考え事をしていたが、そういえば初対面の人と沈黙の内に歩いていたのだ。気まずい思いをさせてしまっただろうか。

「私は、3年目になるところで」

「そうなの。それじゃあ、ちょうど進展期って感じかしら」

「そうですね......」

進展期。最近気にかけているからか、よく耳に入る言葉だ。

「私も、この時に記憶が戻ったのよ。何か、兆しはありそう?」

「よく言われていることですが......。断片的なことは時々思い出せるのに、根本的な部分は何も掴めなくて」

最近私は、若い頃にやっていた仕事を思い出した。その時代に比較的盛んだった紡績業での仕事だ。時代から考えて結婚を機に仕事をやめたのだろうが、夫の顔などは思い出せず、わずかに申し訳ないと感じる。

 この世界に来た人は、最終的には9割以上が現世での記憶を取り戻す。記憶を取り戻すタイミングで多くを占めているのが、この世界での生活が始まってから周期的に訪れる、進展期だと言われているのだ。過去に経験していた生活習慣や他者との交流がこの世界で自然と再現されることで、緩やかに記憶を取り戻すとされている。最初の進展期がここへ来て3年、これを逃すと次はその6年後ごろになる。

 進展期について最後に話したのは、あんずといた時だったか。


「わたさんは、記憶を取り戻したいと思いますか」

海岸へあんずと共に歩いているとき、不意に声をかけられた。

「ええ」

答えながら、質問の真意が分からずあんずの顔を見ると彼は自分の足を見つめながら言葉を続けた。

「今頃俺ら、進展期ってやつじゃないですか。ふとした時に、記憶を戻すかもしれない」

「そうね」

逆に言うと、あんずは進展期を迎えるまで記憶が戻らなかったと言うことだ。

「私は、記憶を取り戻したい」

確かな意志を含ませながら、けれども人に強制させることのないような口調を心がけた。

「どうして、こんな世界があるのかって考えたのよ。わざわざ、死んだ時の年齢分の寿命が与えられて、だんだん老いから遠ざかってゆくなんて、不思議じゃない」

あんずが私の顔を見ているのを感じつつ、少し俯いて考えながら話を続けた。

「きっとこの世界は、人が成熟するためにあるの。私たちはだんだん幼くなっていく。これまでは歳を重ねるごとに複雑に、繊細に生きてきたけれど、その部分はいずれどんどん失われていく。私は、最後の小さな心に残るのはどんな感情なのか、哲学なのか、知りたいのよ。きっとそこに、私の人生の本質がある」

新しい人生、ではだめなのだ。それでは、もう一度赤子から生まれ変わってくるのと本質的には変わらない。

 けれど、あんずの顔を見て思う。現世での彼は、複雑で、繊細な生き方をするほど歳を重ねていないのだ。だとしたら、あんずがこの世界で生きる目的はなんなのだろう。

 あんずは、私の考えを汲んだように言った。

「俺は、別にいいんですよ。この世界が自分のために用意されてるって考えるほど、俺は自己中じゃない」

いろんな生き方があっていいじゃないですか。そう言いながら、彼は少し早足になっていた。あんずを追いかける。

 そうだ、私たちは孫と祖母くらい年齢が離れてる。過去も、未来の捉え方も違うし、あんずの方が先に死んでしまうのだ。

「多分俺には、哲学とか、本当の心とかは分からないけど。自分の人生を生きていくには、今の俺の価値観とかが形成された過去のことを、ちゃんと思い出したいんです」

彼の瞳の奥に恐怖が佇んでいるのを微かに感じた。恐れながらも、立ち向かわないといけないこともあるのだろう。それが今後の人生のためになると信じて。彼を安心させたくて言う。

「充分哲学してるじゃない」

「そうですかね」

あんずは照れたように笑った。

 自分の人生を、自分らしく。現世での彼もそう思っていたのだろうか。


「......記憶を取り戻せるとしたら、楽しみもありますが。少し緊張しますね、自分がどんな人生を送っていたか、想像できないので」

私が答えると、森野さんは含むように笑いながら言った。

「そうよね。けれど後から考えたら、記憶がない状態で生きる世界も面白かったものよ。価値観は豊富にあるのに、それを獲得した経緯がわからない。......嫌味に聞こえたら、ごめんなさいね」

私はいいえ、と首を振る。

 この世界がある意味、ここへ来た人が記憶を失っている意味、冥草木めいくさきの意味。この世界で起こる事象には全て意味があるのだろう。現世に、神はいない。けれどこの世界には、世界の創造主としての神はいるのかもしれない。


 森野さんにお礼を言い、市役所の前で別れる。もう日が暮れそうになっていた。夜になってもこの世界への来訪者は絶えないわけで、夜勤の人たちがランタンに火を灯す作業に追われていた。

 食事処が多く並ぶ道を通って、あんずの家へ向かう。これまで数日姿を見せないことはちらほらあったが、1週間というのは長いと感じる。食事とかは大丈夫なのかと、今更ながら心配になってきた。


あんずの家の前に着くと、ドアノブに薄い黄色の布袋が掛けてあるのに気がついた。ごろごろとした輪郭から、中には野菜や果物なんかが入っているのかもしれない。

 すこし、嫌な予感があった。布袋を手に取り中を見ると、そこには予想通りの果物がいくつかと、半分に折られたメモ用紙が入っていた。「たかより」という言葉と、紫と緑の色鉛筆で描かれた朝顔の絵が描かれている。

 家の中で物音がした。少なくとも、あんずはそこにいるようだ。だったら、なぜ有明さんからの荷物が玄関に掛けられたままなのだろうか。

 色々と考えていたが、考えるのと同時進行で、私はあんずの家の扉を叩いていた。

「あんず、ずっと仕事来ないから、どうしたのかと思って見にきたんだけど。これ、有明さんから届いていたわよ」

私の声は周囲に広がるばかりで、あんずに届いているのかはわからなかった。返事はなく、さっき聞こえたような物音もしなくなった。

「あんず、起きてるの?」

耳を澄ますと、あんずが泣いているのがわかった。それは、何か理由があって泣いていると言うより、ただただ泣き疲れて、泣き止む気力もなく泣いているように思えた。

 思わず焦って、ドアノブに手をかける。

「ねえ、どうしたの。開けていい?」

「開けないで」

あんずが潰れた声で叫んだ。驚いて布袋を持っていた右手に力が入り、理解した。

 あんずは、記憶を取り戻したのだ。


「わたさんは、記憶を取り戻して、それが辛かったら、どうするんですか」

私が何もできるに玄関で沈黙していると、あんずが途切れ途切れに訊いた。それは自分自身に対する後悔のようにも感じられた。

 あんずの心の内を考え、次に自分の心を俯瞰しながら答えた。

「記憶を戻せば、私が辛かったことの、正体がわかるんでしょう。だったら、その辛さを癒してあげられる」

そう言って、そんなこと綺麗事だと思ったから、言葉を付け足す。

「人が葛藤して、迷っても、最後に自分を納得させられるのは綺麗事しかないのよ。けれど、長い時間が経てば、その綺麗事はだんだん消化されて、綺麗でも、汚くもない、自分の人生の一つになる」

あんずは、相変わらずすすり泣いているようだった。

 綺麗事を絵に描くとしたら、それはどんなものなのだろうか。あんずの言葉が何かしら返ってくるのを待ちながら考えた。

 やがて、あんずが歩いてくる音が聞こえた。靴の音が鳴り、扉の向こうで靴を履くあんずを想像する。あんずはいつも、玄関に座って靴を履くのだ。若いのに、立って履いたらいいじゃない、と聞くと、多分癖なんですよ、と答えていた。

「綺麗事って、全然綺麗じゃないっすね」

「そうねぇ」

低い位置から声がする。声は、さっきより少し綺麗だった。

 人間って、そういう言葉遊びが好きなのだろう。汗と泥にまみれた夏を青春と呼んだり、辛さと苦しみの行き着く先を綺麗事と呼んだりする。

「俺の顔見て、思い出してください。景子さん」

扉が開いた。


 およそ1週間ぶりにあんずの顔を見る。すると突然、その顔が顔ではなく、2つの目と眉と、鼻と、口と、残りの部分になって、誰の顔かわからなくなったら、それがまた再び一つの顔になった。

 その顔は、私がこれまでに見てきた顔と違っていた。いや、記憶のない私が、見てきたあんずではなかった。

「杏也......」

声になっただろうか。目を逸らすと、いや、瞬き一つでもすると、目の前の顔があんずのものに戻ってしまいそうで、私は震えながら、目を見開いていた。

 私の様子が滑稽だったのか、あんずは乾いた声で少し笑った。

「ありがとうございます、覚えてくれてて」

あんずの声を聞きながら、私の頭の中には、無限の声が流れていた。


「杏也くん、いい名前ねぇ」

「あら、どうして私の名前を知っているの?」

「そう、景子。私の名前は、待永まちなが景子よ」

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