第3章

 事件が起きた老人ホームは、今から5年前に発生した東京の大震災で被災し、郊外に移転されたばかりだった。人手不足と不況が深刻化する中、政府は規制を緩和し、学生、失業者、主婦などによる老人ホームや保育園でのアルバイトを積極的に推進していた。事件の発端となったアルバイト職員、彼誰かたれ杏也きょうやもこの時期に自宅付近の老人ホームに採用され、その数ヶ月後にいとこであるこの事件の主犯格との接触を深めることになる。

 警察は施設の構造や1日のタイムスケジュールなどの情報を実行班に提供した職員がいたと見て捜査を進めていたが、その情報が公開されるとSNSなどを通じて身元が特定され、彼やその家族は多くの誹謗中傷を受けるようになった。

 事件の実行犯らは、高齢者に対する差別的な発言や言動を重ねていた。それを攻撃する者たちの矛先が、SNSや電話の向こうの彼誰杏也へ、やがて直接本人へと向けられるようになったのだ。自宅付近で彼らと警官との攻防が続く中、彼誰杏也は首を吊って自殺した。


「見せろよ、それ」

 先程よりも強い口調で言うのと裏腹に、彼の指先は小刻みに震え、顔もほとんど泣いているようだった。少ししか話をしていないけど、あんずはこんなに強い言葉を使う人じゃない。彼が私の顔をじっと見ているのは、この資料を見るのが怖いからなのだろう、とも思った。

 彼の顔を見つめて考える。私は、彼を安心させたい、大丈夫だと伝えたい。そのためには、なんて言えばいい? あるはずのない答えを探していた。

「......彼誰杏也、っていうのが、あなたの名前だよ」

じっと私を見ていた彼は、その視界に新しいものを見たように、短く瞬きをした。

「あんずって名前、無関係じゃなかったんだね。だってほら、本当の名前に漢字が入ってる」

この世界での名前、つまり自分が持ってきた冥草木めいくさきは、現世での人生と繋がりがあることが多いそうだ。私の苗字の有明は、明け方の時間帯を指す。だから、朝に咲く朝顔。

 あんずは、息をしているのも分からないほど静かに床にしゃがみ込む。つられて、私も床に腰を落とした。俯いた顔から血の気が引いているのが、僅かに見えた。

「あんず......」

自分の声を聞いて、私が彼の本当の名前を知っても、あんずという名前に拘っているのに気がついた。この世界で彼の名前を呼ぶのは、私だけじゃない。それが、自分の記憶を戻すための勇気につながったのかもしれない。

「たか」

石を投げ入れられた水面のような、小さく震えた声で私の名前を呼んだ。あんずは、声を殺して泣いているのが分かった。あんずの隣に体を寄せ、大丈夫よ、と繰り返しながら背中をさする。

 それでも本棚の間の空間は静かで、私が小さく囁く声と、あんずの溢れ出た声が、床と本棚の木目に吸い込まれているようだった。


「あんずは、なんの罪にも問われなかったよ」

あんずの様子が落ち着いたのを見て、私は少し事件の後の話をした。

 あんずの死後の捜査で、彼の従兄弟などから彼には計画を悟られないようにしていたという証言がなされ、あんずは事件の共犯には当たらないとみなされた。彼への誹謗中傷も多少は沈静化し、あんずの死は世間から忘れられていった。

 泣き止んだ直後のあんずの顔は青白く、目の周りは真っ赤でうさぎのようだった。

 この世界に来て長い人なら、他人が記憶を取り戻す場面に何度か出会うこともあるのかもしれない。けれど私は初めてだから、ただ彼が落ち着くのを静かに待つしかなかった。

「たか」

「うん?」

「先帰ってて」

あんずに言われて、えっ、と息が詰まる。

 先に帰ってて、は私があんずの現世に気がついて、畳の部屋で言い放った言葉だ。あんずはまだ焦点の合わないような顔をしていて、私に嫌味を言っているようには見えなかった。

「何かあったの」

私の言葉に曖昧に返事をして、あんずはふらりと立ち上がる。彼の足は、事件の内容を記した資料を仕舞った本棚に向けられていた。

 何かを思い出したのだろうか。おぼつかない足で進むあんずを追いかける。

「ねぇ、危ないよ」

「......今回のこと、わたさんには言わないで」

あんずは、涙の跡が残る手で資料の背表紙に触れている。その手はそのまま止まり、小さく震えたまま動かなかった。

 どうして、わたさんの名前が? 私には嫌な予感があった。二人は、同じ時期に亡くなった。

「......その資料の中に、わたさんの名前があるの?」

そう言うと、あんずの両目から涙が溢れた。資料に触れていた手で、顔を覆う。

 このことはきっと、あんずにしか分からない。犠牲になった入居者の顔がメディアに出ることは基本的になく、この事件の記憶を持つ人にも分からないだろう。

「......景子けいこさん」

あんずが嗚咽の中で、その人の名前を呼ぶ。

 私は何も言えず、彼の背中を支えることしかできなかった。

 さっきは押さえていた声が彼の体全体で響き、本棚の奥へ、遠くへと響き渡った。

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