第2章

 市役所へ向かっていると、前方からひらひらと手を振る少女の姿が見えた。

「わたさん、昨日ぶりです!」

「あさがおさん」

ゆったりとしたTシャツと足にピッタリ合ったパンツ、肩には小さめのポーチカバンを掛けている。どちらも市役所経由で手に入れたものだろうが、なんとなく今どきの子が好きそうな服、という感じがする。

 私の呼び方に反応して、彼女は少し胸を張るようにして笑った。

「もう私、あさがおではないですよ」

「え?」

彼女の声や振る舞いから、昨日より表情が豊かで活力を纏っている様子が感じられる。だから、彼女の次の言葉には驚いたが、納得感もあった。

「私、記憶を取り戻しました」

あさがおさん、いや、眼前の名の知らない女性は、胸に手を置いて挨拶をする。

「私の名前は、有明ありあけたかと言います。昨日お世話になったから、ぜひお伝えしたくて」

「有明さん。よろしくね」

有明さんの少しばかり仰々しい挨拶を受けて、名前を復唱する。まさか、一日も経たずに記憶を戻してしまうとは。明日、あんずにも伝えておこうか。そう思っていたら、彼女から彼の名前が出て驚く。

「あと、わたさん。あんずさんがいる場所ってわかりますか?」

有明さんに聞かれて、私は昨日昼食を共に取ったときの会話を思い返した。

「今日は図書館で過ごすって言っていたわ。昼は人と食べる予定があるみたいで、いないと思うけど」

「ああ、図書館。記憶の手がかりを探すために多くの人が行ってるって聞きました」

知っている話が出たからか、有明さんは明るい声で言う。その様子だと、場所はわかっているのだろう。

「うん。けれど、彼は単に勉強するために通ってるのよ。自習スペースとかもあるし」

あんずは、子どもが好きなのだそうだ。この世界で死期が近くなった子どもの生活を世話する仕事を目指して、日々勉強している。この世界には義務教育のような制度はないが、就職に必要な資格や試験などは整備されている。

 それにしても、なぜあんずの話を持ち出したのだろう。昨日は、若干気まずいような雰囲気もあったが。

「えっと、あんずに会う予定でもあるの?」

「はい」

「え、そうなの?」

あっさりと彼女が答えるのに驚く。いつの間に、そんな約束を取り付けたのか。

「なんか昨日、市役所の入り口であんずさんと会ったんです。明日会えないかって言われたんですけど、詳しい予定とか決めずに別れちゃって」

有明さんは不思議そうな顔をしながら言った。私もおそらく、同じような顔をしているだろう。最近、彼は色々と新しいことを始めている。勉強をするようになったし、私以外の仕事仲間ともよく話すようになり、昨日はその中の先輩たちを食事に誘っていた。

「まあ、とにかく、今日は図書館に行ってみようと思います。教えてくれてありがとうございました」

有明さんは愛嬌のある顔をして、私に頭を下げる。笑うときに見える白い歯が綺麗だと、今更ながら思った。

「うん。よろしく伝えておいて」

彼女ははい、という歯切れの良い返事と共に、小さな会釈をして去っていった。

 太陽に暖められた潮風が私の短い髪を揺らす。近くを歩いていた老人が、帽子を押さえた。

 海岸での仕事は、必ず誰かと二人一組で行われる。あんずが来ないなら、早く明日にならないかな、なんて考えた。


「おおえ、こぬ、ありあ、ゆう、わすら」

カシャ、カシャという心地の良い音が止む。手元には、百人一首の取り札が百枚分散らばっている。

「ほんとに記憶、戻ってるんだなぁ」

私は記憶が戻ったことを確かめるために、生前の趣味だった百人一首の札落ふだおとしを実践していた。結果、生前の頃と全く同じように、和歌の下の句を見てそれに対応する上の句の決まり字を言い当てることができたのだ。

 私は昨日の午前中に安楽死により死亡し、記憶を失ってこの世界に来た。そして知らない世界、新しい自分で頑張っていこうとか思っていた矢先、今日の朝に記憶を取り戻した。言葉にすれば波瀾万丈な二日間なのだが、人智の及ばない大きな力に振り回されているようで、実感は乏しい。死とは、あっけないものだった。あの眠れない夜の怖さも、人が死んだというニュースに耳を塞いでしまう衝動も、何だったというのだろう。

 図書館の隅にある畳の部屋で足を伸ばす。あんずさんは出かけててもうすぐ戻ってくると受付の人に言われてから30分くらいが過ぎている。あんずさんが遅れているのか、受付の人のもうすぐ、の感覚がアバウトなのかは分からない。

「スマホ使いたい......」

 百人一首の札を見つけて喜んだのはいいが、これで今できることは限られてる。おそらくこの世界には、電子機器のような道具は何もない。ホームシックとかになったらどうしよう。当初想定していたのとは違う不安が芽生えてきた。


 ふと、部屋の入り口から襖を叩く音が聞こえた。

「あの、有明たかさん?」

この声はあんずさんだろう。声だけ聞くと若干滑舌が悪いのに気づいた。

「そうだよ、入って」

襖が開いて覗いたあんずさんの顔は、なぜだか不満そうだ。

「マジですか、記憶戻ったって」

「え?」

思わず聞き返して気がつく。そうだ、私はまだ彼に自分の本名を伝えていない。昨日会う約束をしたとき私は、あさがおさん、だったのだ。受付では本名を伝えていたから、あんずさんが来た時に少しトラブったのかもしれない。

 彼は勉強道具が一式入りそうな鞄を床に置いて、畳の上に座って言った。

「普通、1日で記憶取り戻すとか、ないじゃないですか」

そんなこと言われても、分からないけど。心の中では軽く言い返し、口ではごめんって、と謝った。

 私と会って彼が何を話したいのか、私は未だにわかっていない。とはいえ、私は彼に会ったら言わなければならないことがあるのだった。彼に向き直って言う。

「ねえ、話を掘り返すようで悪いんだけど、昨日はごめんね。あなたの昔のことについて失礼なことを言ってしまって、謝りたいのよ」

 なんで死んだの、と聞いてしまった時のあんずさんの姿を思い出す。その時の彼の顔はあまり覚えていない。けれど彼の肩、手、顔の角度が、私の目に焼き付いている。

 彼の死に際はきっと苦しかった。そしてその感覚が、今でも残っているのだろう。少し考えればわかるのに、私はどんなに無神経だったのか。

 私の言葉に対して、あんずさんはいくつかの感情が混じったような笑顔を浮かべていた。

「......ほんとに掘り返してきますね。別に俺が責めてるわけでもないのにいいじゃないですか」

彼は頭を掻いて言う。しばらくそうしていたが、それから不意に覚悟を決めたような表情になった。

「じゃあ俺も言いますけど、自殺ですよ」

どことなく、穏やかだった空気がどこにもなくなった。私は息を呑んであんずさんの顔を見やる。なんとなくわかっていたはずなのに、それを言葉にすると、こんなにも残酷に感じてしまうのか。

 彼は私の顔は見ずに、何もない畳に視線を落としていた。

「他はわからないけど、それだけはわかります。それにこの世代だと、一番ありふれた死因じゃないですか」

ちらりと一瞬だけこちらを見て、また視線を戻す。

 私は、小さくうん、という言葉を口から出して、二人とも黙った。

 言葉ではなく、私たちには沈黙が必要だった。


「......ねえ、坊主めくりしない?」

少し掠れた声で言いながら立ち上がって、部屋の隅の棚から百人一首の読み札を取りに向かう。その様子を追いかけながらあんずさんが言った。

「坊主めくり?」

「そう、こっちの札を使うんだけど」

読み札に描かれた歌人の絵を見せながら説明する。山札からこれを一枚ずつ引き、坊主の絵が出たら持ち札を全て捨てなければならならい。女性の絵が出たら、その捨てた札をもらうことができる。最後に多く札を持っていた方の勝ちだ。

「それ、めっちゃ運勝負じゃないですか」

「そうよ。だから面白いんじゃん」

終盤に多く札を持っていても、坊主を引いた瞬間に持ち札はゼロになる。一枚めくる度に何の札が出るのか分からないスリルを味わえるのが、この遊びの醍醐味なのだ。

「うーん、そうかも」

あんずさんは少し考えてから納得したようで、畳に座り直してやりましょう、と言った。

 運がないことと、理不尽なことは違う。そんな言葉をかけたかったが、今は楽しく遊びたいからやめておいた。


「あのさ、あんずはなんで私と会おうと思ったの?」

さすが、坊主めくりと言うべきか。短い時間で私たちは打ち解け、互いのことを少し知ることができた。本来生きていれば私たちは同い年だということもわかり、共にタメ口、名前も呼び捨てになった。

 使い終わった百人一首の札を片付けながら今回の目的を尋ねられたあんずは、一瞬答えに詰まっていた。

「......友達になりたかったから?」

「それは、なんか照れるわ」

苦笑した私よりも照れた様子のあんずは、俯きながら声を上げて笑った。

「最初にも言ったけど、まさか次会う時までに記憶が戻ってるなんて思わなかったから。同世代で死んだ人とか少ないし、価値観が合うかな、みたいな」

現世でお世話になっていた主治医も、私くらいの歳の人に安楽死を勧めるのは初めてだと言っていた。改めて自分の人生の特殊性を感じてしまう。

「俺は記憶を取り戻したいから、そのためには同世代の人と話したりするのがいいんだって。現世の記憶があるかに関わらず」

そう、と相槌を打って考え込む。彼の死因は自殺、と言っていた。それでも生きていた頃の記憶を取り戻したいと思う覚悟に、楽に死んであっさり記憶も元に戻った自分が申し訳なく感じる。

 あんずは話を続ける。

「前までは、怖くて現世のこととか知りたくなかったんだけど。最近はこの世界でやりたいことができたり、楽しいことが見つかったりしたから、なんか大丈夫な気がするんだ」

「......そっか。あ、最近なんか勉強してるって、わたさんから聞いた」

「うん、一応資格があって、取りたくて」

あんずは私の背後にある壁を見たり、時々私の顔を見たりしながら話していた。今日最初に会ったときより、私もあんずの顔を見るタイミングが増えたと感じる。

 お互いの視線が空中で合ったとき、私は彼の顔を、どこかで見たことがあることに気がついた。

「......あ、たか? 大丈夫?」

あんずに言われてハッとする。背筋に汗が流れたのを、彼に気づかれてはいないだろうか。

「いや、なんていうか......。調べたりしたの? 現世のこととか、出来事とか」

「まだ、あんまり。資料を探したりしても良く分からなくて。震災のこととか、人に聞いたりしてもピンとこないんだよね」

あんずの言葉は、ほとんど耳に入らなかった。でも、まだ現世のことを詳しく知らないのだということだけが私の意識に強く残っていた。まだ間に合う。何に間に合うのかは分からないが、とにかくそう思った。

「あんず、今日はもうお開きにしよう。私、色々見てみたいこととかあるし」

もう、彼の顔を見ることはできない。早口に言って立ち上がる。あんずは私を見上げながら、様子がさっきと違うのに気づいているようだった。

「あ、なんか、具合悪いの? 大丈夫......」

私は彼の言葉を遮るように背を向けて言った。

「私、調べ物して帰るから。あんずは、先帰っててよ」

なんで、他人に先に帰るように指示してるんだろう。最悪だ、さっきあんなに仲良くなれたのに。関係ないことを忙しく考えながら、鞄を持って靴を履く。そのまま逃げるように襖を閉め、迷路のように広い図書館の、適当な本棚の間を奥へ奥へと進んでいった。


3年前に亡くなった人。私と同い年。自殺。テレビやネットニュースで見た、卒業アルバムのあの写真。

 2階に上りようやく然るべき本棚の前に辿り着いた頃には、あの事件が鮮明に思い出されていた。

「2039年......。あった」

 2階には過去の具体的な出来事が記された資料が保管されている。貸し出しはされていないこともあり利用者は少なく、時系列に沿って整理された資料が整然と本棚に並ぶ。

 現世での情報は、亡くなった人が記憶を取り戻すことでのみ手に入る。そのため、これらの資料に記された情報は主に文章だけだ。一つの事件について、メディアなどで報じられた情報を中心に数ページにわたってまとめられている。その中に、3年前に発生した「葦ヶ野あしがの特別養護老人ホーム放火事件」はあった。

 施設で入居者が昼食をとっていたとき、屋外の敷地で爆発が発生し、混乱に乗じて侵入した複数の不審者が施設内に火を放った。

 入居者、職員含めて多くが犠牲になったこの事件では高度な計画性が認められ、また犯人のものと思われるSNSでの反社会的な内容の投稿などから社会の関心を集め、早い段階から情報提供者などの捜査が行われていた。その中で、主犯格のいとこで事件当日には出勤していなかった、アルバイト職員の存在が明らかになった。


 詳細を探ろうと資料のページをめくったとき、階段の方から足音が聞こえて身構える。思わず隠れようとか、誤魔化そうとか考えて、すぐにそんな馬鹿な考えを打ち消した。

 私はあの畳の部屋であんずの正体に気がついたとき、どんな気持ちだっただろうか。恐怖があった。彼の正体についてではなく、彼が取り戻そうとしている記憶がどんなものであるかを想像して、怖かった。

 今、私は彼の足音を横に聞いて、悲しい。悲しみというのは、恐怖や、怒り、恨みが成熟した感情だと、かつての主治医に言われたことを思い出した。

 彼が自分の中で悩んで、勇気を持って踏み出した結果が、こんなに苦しいなんて。頑張っている人が苦しんでいる。そんな理不尽が悲しい。

「たか。やっと見つけた」

あんず。いや、資料に目を落とす。私は、彼の名前を知っている。

「俺にも見せて」

資料を持つ手に力を入れて横を見ると、私に向けて手を伸ばす、彼誰かたれ杏也きょうやの姿があった。

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