きみの青い城

八暮コト

第1話


 深夜1時を回っても、居酒屋「タイカイ」の店内はごった返している。客の背と背の間を縫うようにして近づいてきた若い男性店員は、おれたちの前に焼き鳥が乗った皿を乱暴に置いた。

「手前の串から————、——、かわです」

 店を揺らすほど大声で笑った隣のテーブルの客に諦めているのか、声を張ろうともしない。

「……殆ど聞こえなかったんだけど」

「食えばわかるだろ」

「ああ、まあ。それでどこまで話したっけ」

 素早く立ち去った店員を目で追いながら、水滴でびしょびしょになったジョッキをあおった。目の端で、天井から下がった提灯の光が揺れている。


「C組の波川が、宗教に引っかかったって話。本当なのか」


 そう言いながら微かに身を乗り出した塩沢は、眼鏡を押さえて眉をひそめた。太い指はソーセージに似ていて、落とした視線の先にあった焼き鳥をみて食欲が減退する。もう肉は飽きたな。

「そう、最近流行ってる噂の新興宗教。テラスに座って飯食ってると話しかけられるらしい」

「信者に?」

「うちの大学内に広まってるってさ。塩沢、お前のサークルにもいるって噂だし……口車に乗ると、寂れたビルの2階に連れてかれるんだって」

「そいつ……波川はビルに行ったんだろうか」

 友人の眉間の皺が深くなる。

「ああ、ついてくのを見たやつがいるってさ。そんで、午後の講義は全部休んだって」

「単位は大丈夫なのか」

「心配するとこそこじゃないだろ」

 そこが大事だろともやもや言うのを無視して、腹が減ったわけでもないのに手に取った串を口に運ぶ。ぐ、と歯を押し返す弾力で、それが苦手な砂肝だと気付いた。

 咀嚼もそこそこに酒で流しながら、頭の裏側がぐるりと回るような感覚に浸る。思えば随分長く飲んでしまったようで、酒の味も焼き鳥の味もぼやけて捉えられない。耳が痛くなるような店内の喧騒も気にならなかった。


 酔っているのか、いくら飲んでも顔を赤くしない塩沢が、がっちりした身体を左右に揺らしている。

「でも、どうして大学で宗教なんて流行るんだ? 金も苦労も大してないのに」

 仰る通り、おれたちが通うのは学力的に底辺に近い私立大学で、眠気に抗いながらモラトリアムを食んでいる連中がほとんどを占めていた。

「その代わり時間はある」

「それはそうだな」

「暇だと人間、ろくなことをしないだろ」

「一理ある」

「ろくなことしない奴らを大量に引っ掛けて、端金を巻き上げるのは悪くないだろ」

「そんなことするやつこそ、ろくでなしだ」

「ろくでなしの神様はろくでなしってだけだろ」

 義憤に駆られて太い眉をぐっと上げている塩沢は、いかにも納得いかなそうに鼻を鳴らす。

 互いが互いの足を引っ張りあって、おれたちは数年間をじゃぶじゃぶと浪費する。当の自分もその群れの1人として怠惰に溺れかけていた。

「こんな時間まで飲んでるのも、宗教ハマるのもパチンコやるのも一緒だと思うけどね。無駄なものにかまけたいだろ」

「分からなくはないが、」

 でも、と言いかけた頭の固い友人を遮るより早く、テーブルの端に置いていたおれのスマートフォンが激しく振動した。はっとして、明かりのついた画面を見つめる。

 塩沢の太い指が、渋い顔したおれを真っ直ぐに指す。

「こんなところで長々と油売ってるから、バチが当たったんだ」

 偉そうに言う友人を無視して、そろりと画面を覗き込んだ。しばらく待ってもコールが止む気配はなく、おれが観念するのをじっと待っている。


 また「あれ」が来るのだと思うと気が重い。


 とうとう腹を決めると、店内の喧騒でかき消されないようにスマホを耳に押し当てた。

「はい。もしも……」


 わあああ、と叫び声に近い泣き声が耳を貫いて、思わずスマホを遠ざけた。


 やっぱりだ、と塩沢にアイコンタクトを送る。呆れたように目を逸らされ、仕方なく言葉を継いだ。

「もしもし、おれだけど」

 泣き声は止まない。

「どうした? もう家に帰ったの?」

「どこにいんの!!」

「ちょっと飲んでるんだよ、塩沢とだけど」

 声にもならない泣き声なのか息継ぎなのか、ひゅうひゅうと漏らすスマートフォンを耳に当てながら、居酒屋の照明を見上げる。酒で霞んで淡くなった光がただ眩しい。

 この絶叫も、津波みたいに押し寄せる山ほどのメッセージも今となってはかなり慣れて、動じることなく対処ができるようになってきた。


 おれの彼女は、俗に言うメンヘラだ。


 予告なく家にいない時や、予告して家にいない時も、彼女が精神的に不安定になると決まってこうなるのだった。ここ数ヶ月で、アプリの新着メッセージ件数「+99」を何度見たか分からない。

 最初こそ動揺していたが、誰だってある程度適応するものだ。

「冷蔵庫の中、みた? まだでしょ」

 ぴた、と電話の向こうが静かになった。その隙をついて言葉を重ねる。「晩飯買っておいたから見てよ。どうせ食べてないでしょ」

「……まだ」

「ちゃんと食べて、休んで。バイトで疲れてるんだからさ」

 目の前でがぶがぶとハイボールを流し込む塩沢は、一部始終をじっと見つめている。

 しばらくして納得したのか諦めたのか、彼女はすっかり大人しくなった。まず労って、気遣って、きちんと眠ることを約束させてから通話を切る。このやり取りはもう何度目だろう。塩沢の前で繰り広げた回数も数え切れなくなってきた。


「だから、言わんこっちゃない」

「たまには大丈夫だと思ったんだ」

 言い訳をするおれに箸を向けて、友人は顔を顰めた。「瑠衣が大人しく彼氏を待てるわけがない」

「こういうのは訓練なんだよ」

 痺れた舌が重くて、話すのも億劫なのにやめられない。


「でも、おれは上手くやってるだろ」






 ◇◇◇ きみの青い城 ◇◇◇







 大学生になって、ひとり暮らしを始めた。

 通学が容易い学校最寄り駅付近に乱立するアパートのひとつを間借りして生活を始めたおれは、自炊に燃えたり飽きたりしながらなんとかやっていけていた。

 サークルに入らなかったが友人はできたし、バイトと仕送りで工面しながらしょっちゅう飲み歩いて、講義に遅れてはノートを借りて、そうしているうちに彼女が出来た。同じ講義を受けているうちに仲良くなった塩沢はボランティアサークルに所属していて、瑠衣もサークルメンバーのひとりだ。

 いかにも堅物そうな見た目をしている塩沢は奉仕活動が似合うが、一方で俺の彼女になった瑠衣は、大人しそうだが他人のために汗水垂らしたりはしなさそうな風貌だった。人懐こいが抜け目なさそうで、そんな彼女がある時、飲み会で酷く酔っ払っておれに寄りかかってきた時すっかりやられ、今に至る。単純な経緯だけど、間違った選択をしたとは思っていない。

 可愛いし、料理ができる。よく気が利くし、瑠衣のことを狙っている男が少なくないことも知っていた。

 だから、メンヘラでも構わなかった。



 塩沢との飲み会を切り上げて帰ってきたおれを真っ暗な部屋が出迎える。ぱち、と手探りで明かりをつけると、ソファで瑠衣が丸まっていた。

「おかえり。遅かったね」

「これでも急いで切り上げたんだ。飯は食った?」

「うん……でも少し残しちゃったから食べない? 冷蔵庫に入ってるんだけど」

「おれはいいよ。腹いっぱいだし明日の朝に」

 ふぅん、と返事をする瑠衣はクッションに顔を半分埋めている。まだ機嫌は悪そうだ。


 カップが、歯ブラシが2つに増えた。ハンガーはもっと増えた。彼女はすっかりこの家の住人だ。おれにとっても、彼女は既に家の一部だ。

 瑠衣が居ない生活は考えられなくなってきているけれど、これからもっと上手く生活していくために考えなきゃならないことはある。


「……いつも言ってるけど、何十件もメッセージ送ってきたら何かあったのかと思うだろ」

 髪を梳きながら諭すと、じろりと居心地悪い視線が向けられた。

「何かあったよ」

「なに」

「今日は用事ないって言ってたじゃない。でも、帰ってきたら居なかったから」

「急に呼び出されたんだよ」

 本当はおれが塩沢を呼び出したのだが、大した差はない。

「居ないなら言ってよ。私——」

 彼女が息継ぎをするような呼吸をした。泣く前兆だ。


「ごめん。寂しい思いさせた。ちゃんと連絡入れればよかった。不安にさせて本当にごめん」


 珍しいことに、謝っても瑠衣はなかなか泣き止まなかった。薬を切らしているのか、と不明瞭な頭で考える。昔から家族と上手くいっていなかった彼女は、もう長く精神科に通っているらしい。薬の数は増えたり減ったりして、それにリズムを合わせて機嫌もアップダウンを繰り返した。荒波に揺られる水夫みたいに振り回されつつも、おれは操舵の腕を磨いてきた。


 停滞した空気を入れ替えようと部屋の窓を大きく開ける。まどろみ始めた瑠衣のまわりを、夏の夜の湿った風が取り巻いた。彼女が疲れて眠るまで付き合って、それからすぐに意識を失った。

 明日の一限を追悼しながら、ソファにもたれて夢に沈んでいく。



 故に迎えた翌日は昼頃に目覚めて、学食で遅い朝食をとった。目の前にはひどく眠そうな塩沢の仏頂面がある。

「それで、今朝冷蔵庫を開けたらケーキを見つけたんだ」

「……ケーキか」

「おれが好きだって言ったやつ、一緒に食べようと思って買ってきてたらしくてさ。さすがに悪いことしたと思ったね」

「謝ったか」

「今夜は謝罪会見だろうなあ」

「心を込めろよ、心底」

 塩沢からノートを受け取り、コンビニ菓子を渡した。毎度のことだが、こいつの勤勉さには随分と助けられている。

「サークルで会ったら瑠衣のこと頼むよ」

「毎度の如く同じお願いをされているが、今回もまた頼まれる」

「お前には世話になってばかりですまん」

 構わん、とくそ真面目に頷いた友人の目線が、ラーメンのどんぶりの縁、テーブルの上を滑っておれのスマホにとまった。「来てるぞ、さっきから」

 ひっきりなしにチカチカ光る画面が目に止まったらしく、見ないふりを続けていたおれも仕方なしにスマホを視界に入れた。ほとんど途切れることなく新着のメッセージが押し寄せている。

「来てんね」

「見た方がいいんじゃないのか」

「見たら最後だ」

 なにが、と太い眉が寄せられる。

 わざわざアプリを開くまでもなく送り主はすべて瑠衣だし、要件はどうせ大したじゃないはずだ……と思う間にも未読メッセージが溜まっていく。

 急用だったらどうするんだ、早く見た方がいいとせっつく塩沢に押し切られるかたちで、仕方なくスマホを開いた。


 内容は、やはり大したことではなかった。

 昨夜無断で留守にしていたこと、おれが好きなケーキを買っていたことに言及して、短い文章が更に細かく分けて送られてきていた。件数もかさむわけだ、と読む方もげんなりする。

 気になって仕方なさそうにそわそわしている塩沢に画面を見せると、元々そこまで人相の良くない顔が更に険しくなった。

「……謝ったり責めたりが交互に来ていて、忙しないな」

「どっちも内容的には変わらないよ。感情的で言いたいことを並べてばかりで」

「瑠衣は素直だな」

「その清らかな感性が眩しい」

 既読をつけたからには返信しないわけにもいかない。仕方なしに反省文を打ちかけたときだった。


 塩沢のがっちりした肩の向こうに、ひとりでラーメンを啜る学生の姿が目に付いた。この暑い日に黒い長袖を着て、黒縁の眼鏡をかけている。

「おい、後ろ。例のやつがいる」

 声をかけると素直に首をひねって、こちらに向き直した。「なに、例のやつって」

 おれは声を落とした。もっとも、うるさい学食で聞こえるはずもないんだろうが、例の新興宗教、という言葉は大声では発せられない。

 流行りの宗教の信者に声をかけられて、ほいほいとついて行ったと噂の学生は、特に何かにあてられた様子もなく淡々と食事を続けている。元から友達がいないのか、一件があってからおれたちのように遠巻きにするやつが増えたのか、いずれにしても彼の周りはがらんとしているように見えた。


「あれがC組の波川か、見たことはあるな」

 あいつはいつも1人だな、と悪気なさそうに塩沢は言う。

「サークルの先輩が言うには、大学生に必要なのは知力でも体力でもなく人脈らしい。勉強もバイトも、知り合いがいればなんとかなるんだっていつも言う」

「人類史に残る名言だね」

「浅い人類史だな。言い過ぎだろ」

「ものの例えだよ馬鹿だな」

 中身のないやり取りをしながらテーブルの端に置かれた友人のノートに目をやる。ひとりでやっていけるのが大学だけど、苦労が多いのも大学だった。結局誰かと一緒に居ないとろくな事はない。寝坊しても助けてくれる人はいないし、飯は孤独だし、良からぬ連中に声をかけられるかもしれない――波川みたいに。

 故に、友達と恋人がいる現状は運がいいの一言に尽きる。簡単なことだけど、成し得るギリギリの奇跡に思えた。

「ああ、噂をすれば先輩だ」

 塩沢が軽く手を挙げる。今度はおれが背後を確認する番だった。

 ごった返す学生をひょいひょい避けて、背が高くて派手なジャケットを羽織った男が歩いてくるのが見えた。ボランティアサークルには、塩沢以外に奉仕の心を持った学生はいないんじゃないか。


「塩沢じゃん、いつまで飯食ってんだよ遅いぞ」

「今日の昼って集まりありましたか」

「あるよ、俺も今から行くとこだけど……」

 おれのことは空気と思ってくれて結構なのに、見逃してはもらえなかった。

「おっ、君もくる? ボランティアに興味ない? 奉仕活動ってかっこいいぞ、俺みたいに」

 奉仕の全てを背負って笑っているそいつは、白井と名乗った。

「掛貝です」

「よろしく。塩沢ぁ、水臭いじゃん。我がサークルにピッタリの友人がいながら紹介しないなんて、お前ってやつは」

「こいつにも色々あるんですよ」

 色々とは主に瑠衣のことだが、深くは突っ込んで訊かれないのが幸いだった。さらりと頷いた白井は生真面目な後輩の肩を掴んで立たせ、ほとんどスープも残っていないどんぶりを持たせた。「そんじゃあ塩沢を借りてくよ。なに、後で返すからさ」

 引き摺られてゆく友人を見送って、残されたノートを手に取る。彼らしいしっかりとした筆圧で、お世辞にも上手いとは言い難い文字が並んでいた。読むのは些か苦労するが、内容に不足があったことは無い。

 午後の講義が始まるまで写経でもするかとルーズリーフを取り出したときだった。


 すぐ近くで人の気配がする。


 人口密度の高い学食で気配もくそもないだろと顔を上げた瞬間、冷や汗が吹き出した。テーブルのすぐ横に波川が立っていて、俺の顔を覗き込んでいる。

 長い髪に半ば隠れているが、眼鏡の奥の目はじっとりとしていて動きがない。丸まった背をさらに丸めて、おれの顔を正面から捉えようとしているのが不気味だった。

「あ……なにか?」

「A組の、掛貝だっけ」

「あー、うん。そうだけど」

 何か用? と慎重に言葉を選ぶ。宗教、勧誘といやな文字が脳裏にチラついた。波川はふっとノートに目を落とした。「塩沢と白井の知り合い?」

 まさか2人の名前が出るとは思わなかったおれは、面食らってまじまじとそいつの顔を見た。

「塩沢とは友達だけど、白井って人はよく知らない」

「有名人だよ」

 そうなの、と間抜けな答えを返す。話しかけてきた意図が読めないし、一刻も早くここを離れたかった。周りからどう見られているか想像したくもない。


「関わりすぎない方がいい。友達は選べる」


 低い声で唸るように言って、波川はふらりと離れていった。立ち去るというより、まさに波が引くように。

「……え、こわ」

 ついでにおれの血の気まで引いて、大慌てで荷物をリュクサックに詰め込んだ。やべえやつだ、と心臓が声高に訴えている。学生たちの目線を掻い潜ろうと俯いて講義室へ向かうさなか、逃げるおれを波川がどこかで見ているんじゃないかと、彼の黒いパーカーを目線の端で探しながら怯えた。






 ◆◇◇ ◇ ◇◇◆






 風通りの悪い教室に辟易したのか、瑠衣は机を抱え込むようにして眠っていた。

 放課後のボランティア活動に参加する面子が集められ、打ち合わせは粛々と進む。黒板の前に立って話を進める白井先輩は、奉仕活動というよりその後の打ち上げを楽しみにしているようで、業務連絡をさっさと済ませると居酒屋選びを始めた。

「瑠衣ちゃんのバイト先でもいいと思うけどね、どう?」

 ぐっすり眠っている彼女が答えそうにもないため、隣に座っている俺が代弁する。「小さな居酒屋だし、当日に宴会予約は迷惑かもしれません」

「それもそうか……じゃあ二次会に使おう。結構気に入ってんだよね、あぶく」

 駅裏にある小さなビルの1階で細々と営業しているらしい個人経営の居酒屋「あぶく」に、俺はまだ行けていない。瑠衣のバイト先だが、場所がわかりにくいし客の入りも良くないらしく、どうして彼女をバイトに取ったのか不思議なくらいだ、という話はよく聞く。かつて白井先輩が、近所の安アパートに住む学生がたむろする店だと言っていた気もするし、同年代の人間がよく出入りするなら行きやすいかとも思ったが、決まって瑠衣が良い返事をしなかった。誰しも、自分のバイト先に知り合いが来るのは気まずいものらしい。


 瑠衣は微動だにせず寝ている。話し合いは続く。居酒屋が決まって、会費が決まって、その場で予約を取った。講義の時間が迫ってきて、その場は解散になった。


「……瑠衣、もう時間だ」

 講義開始までもう5分もない。ぎりぎりまで粘ったが彼女が目覚めそうにないため、仕方なく肩を揺する。

「もう行くけど、どうする?」

「……寝て、帰る」

「講義は」

「休む。疲れたの」

 酷く機嫌が悪そうだが、昨夜の事情を知っている身としては強くも言えない。

「放課後のボランティアは休んだらどうだ」

「……それは出る。白井さんに呼ばれてるから」

 ああ、とため息と一緒に返事をした。白井先輩は瑠衣を気に入っているし、女の子の出席率を上げたがる人なのは既に承知している。

 億劫そうに頭を持ち上げた彼女は、握りしめていたスマホをちらりと見た。些細な動きに合わせて黒い髪がさらさらと零れていく。


「まだ返事こないの。既読はついてるのに」


 脈絡は無いが、すぐに掛貝の話だと悟った。

「最近はいつもそう」

「……忙しいんじゃないか、何かと」

 早くしろと言ったのに、まだ返してなかったのかと半ば呆れる。自分が学食を立ち去ったあと何をしていたのか。馬鹿馬鹿しいが、瑠衣のことをすっかり忘れているのかもしれない。

「返信に忙しさは関係ないじゃない。昨夜も……ああもう、嫌になる」


 講義開始の時間になった。瑠衣は顔を上げて俺を見ると、言葉とは裏腹に目を細めて笑った。

「ちょっと話聞いてよ。くだらないことばかりだけど、いいでしょ」

「……仕方ないな」

「ありがと」


 彼女に袖を引かれて、立ち上がったばかりの椅子に座らされる。柔軟剤かなにか、ふわりと立ち上る香りと一緒に、軽やかな口調で愚痴が流れ出した。


 校舎内は嘘みたいに静まり返って、無人の教室に沈殿した空気は茹だるようだ。汗が滲むけれど立ち上がる気になれないのは、サボると腹に決めた講義への未練はすぐに断ち切られるから。


「でもいいの、私も彼も適当に生きてるから」

「もう少し参ってるかと思ったが」

「ふふ。参ってはいるけど、それって大したことじゃないんだよ。分からない?」

 穏やかな顔をした瑠衣の話を聴きながら、夏の午後が流れていく。窓枠の影が少しずつ教室を横切るのを、彼女が飽きるまで眺めていた。






 ◆◆◇ ◇ ◇◆◆






 時計の音がいやに大きく聞こえる。22時を回っても瑠衣から返事が来ないのは、どう考えても異常だった。

 放課後にサークル活動があること、反省会があって遅れる連絡はあったけれど、夕方以降の返信が途絶えている。彼女は他人に注意するだけあって、本来ならマメに連絡を寄越す人だ。


 余り物の味噌汁を温めながら、今までの瑠衣の行動を反芻する。飲み会が長引いても友達といてもメッセージだけは送られてきていたじゃないか、何かあったんだと自分で不安を煽ってみせる。いや、そもそもおれが連絡を欠いた報復なだけだろと反論するが、さらに追い詰められるだけだった。


 前例にないのは、塩沢との連絡も取れない点だ。


 瑠衣以上にマメなあいつは、今彼女はどうしているとか、サークルでの様子はと頼んでもないのによく報告してくるのだ。こうも音沙汰がないのは、努めて楽観的に捉えようとしても初めてのことだった。


 こんこん、と上階の住人の足音がする。

『関わりすぎない方がいい。友達は選べる』

 思い出したくもないのに、波川の奇妙なくらい真剣な目を思い出す。あの瞬間のえも言われぬ怖気は言葉にならない。

 意図も心境も不明な言葉は、深い海に足を浸した時のように恐ろしい。底の見えない恐怖、うっかりバランスを崩して飲み込まれるんじゃないかという恐怖、見えていないだけでこの足のすぐ下に、何か得体の知れないものがこちらを見つめているんじゃないかという恐怖がぱっくり口を開いている。


 22時30分になった。風呂に入っても不安は落とせない。何がそんなに怖いのか分からない。いつもの余裕はどこへ出掛けた?


 ぼーっと待つ時間が苦痛で冷蔵庫を開くと、瑠衣が買ってきていたケーキがひとつ残っていた。いつか一緒に行った喫茶店で、おれが気に入ったケーキだった。喜ぶ顔が見たくてひとりで帰りを待っていたんだろうかと、想像するだけで胸が痛むのでやめた。無心で箸を突き刺して口に運ぶ。甘い。が、味はよく分からない。


 その時、スマホが光った。


 昼間の自分じゃ考えられない速さでメッセージを確認する。塩沢か? 瑠衣だろうか?


 結果として、どちらでもなかった。

 新着の欄には見慣れぬ「ナミカワ」の文字が光っている。


 寒気が背を撫でた。どうしてこいつが、と思わず独り言が漏れる。連絡先を交換した覚えも、共通の友人がいた覚えもない。

 怖気づいている間にも、新しくメッセージが送られてくる。

『昼間は急に話しかけてごめん。大学1年のグループから友達追加しました。少し話したいんだけどいい?』


 思ったより普通の挨拶にむしろ混乱する。


『びっくりした笑 どうしたの?』

 反射的に返していた。やり取りをするのはリスキーだけど、用件が分からないことの方が不安だ。

『学食での話、覚えてる? 謝ろうと思って。あれは誤解を生む言い方だったし』

 軽く指が震えている。

『塩沢と白井の名前を出したのも驚かせたと思うし、友達選べなんて酷いこと言った。ごめん、つい心配で』


 心配? おれを?

 大学では、繋がりのないやつとは永遠に関わらないで生きていく。無理に繋がる必要もないからだ。おれは噂で波川の名前を知ったけれど、そうでなければ今後一切彼の名前すら知らないまま卒業していくことだって有り得た。そつなく過ごしているおれを向こうが認知していることこそ奇妙なのだ。

 慎重に言葉を選ばなくてはならない。相手の意図が見えるまで隙を与えてはダメだ。

 滑り落ちてしまうかもしれない。


『心配されることしたっけ笑』

『うん。僕の噂は知ってるでしょ』


 箸を置いた。

 もちろん、きっと学年中が知っている。足を滑らせたやつの噂はすぐさま駆け巡る。


『変な宗教にハマってるやつに声かけられて、ついて行ったんだけどさ、馬鹿なことした。同じ失敗するやつが出て欲しくない』

『その話、おれ関係ある?』

『声掛けてきたやつ、白井なんだよ。3年の白井』


 くらりと目眩がした。白井って、昼間会ったあの派手な?

 塩沢はボランティアサークルで知り合ったと言っていた。あの様子だとかなり親しいようだし、思えば聞いた噂では、かのサークルに信者がいるという話もあった。

 筋は通る。でも、信じるのか?


『信じてもらえないかもしれないけど、僕は連れていかれたビルの場所だって言える。駅裏の――』


 思わず立ち上がった。




『あぶく、って名前の居酒屋が入ってるビルで』






 ◆◆◆ ◇ ◆◆◆






 昨夜も長居をした居酒屋「タイカイ」に着いて数分後、ごった返す店内に波川が現れた。人と距離が近いのが気になるのか、ぎこちなく椅子と人の背をかき分けておれの向かいに座る。

「ごめん、待たせた……」

「急に呼び出したこっちが悪いんだよ、どうしても直接話がしたくて」

 手早くハイボールを頼むと、波川は小さな声で「同じやつ」と言った。店内の喧騒に呆気なくかき消されたため、おれが大声で注文を繰り返してやっと店員と意思の疎通が出来た。

 酒が来るまで待ってはいられない。

「それで、噂について聞きたいんだけど」

「随分と広まったみたいで……確かに、飯食ってる時に白井に声をかけられてついて行ったんだけど」

「白井ってあの、派手な? 髪が虹色でも違和感なさそうな?」

「虹色はやべえ」

 くすりと波川が笑う。

「まあ、そう。悩める大学生のカウンセリングとかなんとか言ってて、話だけでも聞きに来ないかと誘われた。すぐピンときたんだ。最近学内で流行ってる噂のやつだって」

 この目で確かめてやろうと思ったのだと言う。大人しそうな見た目に反した思い切りの良さに舌を巻いた。

「どんなトンチキ理論で金を巻き上げてくるのか興味があってさ」

 と、挑戦的に目を細める。

「場所はメッセージでも言ったけど……駅裏にあるあぶくって居酒屋が入ってるビルで、汚くて入るのはわりと勇気が必要だった」

「それ、本当なの」

 思わず声が震える。テーブルに乱暴に置かれた酒に手をつける気にもなれない。


「彼女がそこでバイトしてるんだ」

 絶望したのか納得したのか、波川はため息みたいな返事をした。「あの店で信者の連中がたむろしてる。人を引き込んでる中心人物は白井だ」


 まさに今、塩沢と瑠衣はそいつと一緒にいるに違いない。おれの友人と彼女はどこまで知っているのだろう。知っていたとしたら――いつから? 瑠衣が例の居酒屋でバイトを始めたのは何月のことだったか、思い出そうとするが記憶にない。おれと付き合い始めた時には既に働いていたような気もする。


「宗教とは言うが出来の悪いおままごとだよ、行ってみて呆れた。広い部屋に通されて、何人かと一緒に正座させられるんだ。部屋の奥には台みたいなのがあって、そこに座った白い服の男の話を聞くことになった」

 おかしくてたまらない、と波川はせせら笑った。

「在り来りな説法を聞かされたあとに、正座させられた連中からひとり指名される。そいつが悩み事を話して、みんなで聞くんだ。それに台の上の男が答えて、いたく感動して終わり」

 不安で吐きそうになるのを酒で押し止めて、おれも合わせておどけてみせた。

「掛け軸や壺は登場したのか」

「よくわかんない御札を買ってるやつはいたね」

 御札と聞いてまた目眩がする。本物だ。


 信じたくはないけれど、波川が信者らしき人について行った噂はおそらく本当だろう。人が多い昼休みのテラスでそれを見ていた人は何人もいた。

 なら、こいつが言っている体験談も嘘ではない可能性が高い。


「何事もなく帰ってこれたけど、沢山の人に見られてると想像してなかった僕は馬鹿だ。次の日からはすっかり信者扱いで参ったよ、全く」

 同じ偏見を持った人間として、軽々しいことは言えなかった。「やたらに関わるもんじゃないな」と絞り出すに留まる。

「でもやっぱ行ってよかったと今日思った。掛貝たちにへらへら話しかけるあいつを見たら寒気がして、いても立ってもいられなくて……つい声掛けちゃったんだ」

 おどおどと目を泳がせていた波川は、亀みたいに首を竦める。

「焦って変な声のかけ方したし、後先考えんの苦手でごめん」

「いや……おかげで助かった。自分は絶対大丈夫だってどこかで思ってたから」

 塩沢も瑠衣も裏で繋がっているのか、引きずり込まれようとしているところなのかは分からないけれど、自分が平気な顔で歩いてきた道の脆さに愕然とする。2人からの返信は未だない。


 ざわつく居酒屋の片隅で、呟くように話す波川の声を聞き漏らさぬように前のめりになった。無意識に信じていたものが崩れようとしていても、自分自身は保てるように足掻いた。

 新興宗教の薄ら寒いやり口に身震いして、引っかかる連中を笑った後に明日は我が身だと口を噤んで、それから今後のことを話し合う。もし可能なら引き返したいし、塩沢や瑠衣の手を引いて戻れるなら願ってもない。そんな道があるのか、という問いは夏の夜に滲んで消えた。俺も波川も誰も彼も、これからのことは分かっちゃいない。

「やれることをやるしかないんだと思う。連中について行って分かったのは、誰かが必死に信じて守ろうとしてるものを崩すのは難しいってことくらいだけど……僕はそれが真理だと感じる」

 そう言う波川は少し項垂れている。

「間違ってるって言うだけ無駄だ。もっと根本から、相手がこちらの方を信じてくれるように語りかけるしかない。……物見遊山のつもりだったのに、嫌なものを見たよ」


 返す言葉がない。もし友達が、恋人が本気でろくでなしの神様を信じたなら、おれはそれを超えることができるのか。


「だから僕も……この話を簡単に信じてもらえるとは思ってない。期待はしてないけど、それでも言わざるを得なかったんだ。あんなの見ちゃったら止めたくもなるから」

「……まあでも、おれは信じるけど」

 本当に、とおれより余程疑い深そうな目を向けて、浪川はこちらをじっと観察している。昼間、気味が悪いと感じたのは、こいつの目が持つ集中力の強さなのだとやっと理解した。

「本当なら嬉しいけど。僕と今まで殆ど絡みないし、変な噂はあるし、学食では変な言い方をしちゃって……ああ、思い返すだけでやばい。あの時誰よりテンパってたのは僕だから」

「嫌なことばっかフラッシュバックするやつじゃん。いいよ別に、気にしてないしもう分かったから」

「……ありがとう。やらないよりマシだったって自分に言い聞かせてる最中」

「やらないよりマシだったよ」

「あー、助かる」

 助かる、助かると繰り返す波川の耳は、酒のせいか羞恥のせいか赤くなっている。

 えも言われぬ不安で黒く塗りつぶされそうだった心が、誰かと一緒にいる事実とアルコールでかき混ぜられた。楽になったようにさえ思えて、溜息に聞こえない程度に抑えた深呼吸をする。


 朝が近づくまで話をして解散すると、薄青に色づいた朝の路地をゆらゆら歩いて帰る。こんなに遅くなっても、泣き喚いて帰りを待つ人はいない。普通のことのはずなのに、宙に放り投げられたような感覚で足元がふらついた。ほとんど本能で辿る帰路は脳の揺れと共に滲んだ。


 もっと2人と向き合っておけば、と漠然とした後悔が浮かぶけれど、はっきりと「こうしておけば良かった」というビジョンはない。

 寝惚けたカラスの鳴き声を聴きながら、家の鍵も上手く挿し込めない不甲斐ないおれならやりかねないヘマだった。こんな後悔だって、寝て起きたらアルコールと共に飛んでいるかもしれないのだ。


 家の中はひっそりと静まり返っている。脱ぎ捨てた寝巻きもそのままで、瑠衣が帰宅した様子はない。ふらふらたどり着いた洗面台は乾いていて、少し泣きそうになりながら歯を磨く。今度はおれがあいつに山ほどメッセージを送りつけてやろうか、電話でもかけようかと思うだけならタダだ。

 冷蔵庫が唸りをあげる。おれはソファに身体を投げ出して、ゆっくりと回る天井を見ている。



 傲慢なことに、ろくでなしの神様よりろくでなしのおれを信じてほしかった。



 その願いが叶うなら、神様に願ってやってもいいくらいだった。友達を失うくらいなら、ひとりで眠るくらいならいっそのこと、とも思う。馬鹿馬鹿しいけれど、まだ間に合うだろうか。

 カーテンの向こうはすっかり青く染まった。徐々に浮き上がる部屋の中で、意識を揺らして沈んでどれだけ経っただろう。


 スマートフォンの明かりが点いた。


 塩沢でも瑠衣でもなかった。落胆するおれに、その人は言う。


『さっきはありがとう。話せてよかった』

 眠気と疲労で視界がぼやけている。


『良かったらこれからも話を聞くよ。色々と不安だろうし、僕で良ければ力になりたい。こういう話をすれば力になってくれる知り合いも紹介できるから』



 パキ、とヒビが走るような大きな音が家に響いた。遠くで鳥が鳴いて、静まり返る。夜明けに染まった青い部屋に異変はないのに、停滞した空気と静寂がまとわりつくようだ。

 たかが家鳴りが妙に恐ろしくて、縋るようにスマートフォンを握った。返信を綴る指は覚束無い。


『これからよろしく』




 送信した瞬間、また家が軋んだ。






 ◆◆◆ きみの青い城 ◆◆◆

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

きみの青い城 八暮コト @8gureKoto8

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ