第2話

「おい姉ェ! お前また勝手にベーコン食ったろ!!」


 時計は朝の七時四十分を過ぎた頃。

 朝を告げる鶏の代わりに、ここ鷲尾家が住むアパートの一室では男子高校生の叫びが起床を促す。

 とはいえ毎日こんな大声を上げているわけではなく、バカが昨夜に弁当用の材料をつまみ食いしたせいで。


「う〜る〜さ〜い〜な〜」


 ガチャリとリビングのドアノブを捻ったバカは、タンクトップにパンツのみという、何ともだらしない格好で、寝惚けまなこを擦りながらもっそりとソファーに寝転び。


「おいっす正親〜」

「おいっすじゃねぇよ。勝手に冷蔵庫の中身漁るなっていつも言ってんだろうが」

「いや〜、昨日酒飲んでたから覚えてないなぁ」


 くいっとお猪口を持ち上げるジェスチャーをする。

 まるでダメ人間みたいなこの女は、正しくダメ人間。酒と煙草を愛し、賭け事に熱を上げ、日中は寝るかだらけるかの二択のみ。


「嘘こけアホ。弟に嘘が通じると思うなよ? このウワバミ女が」

「なにおぅ! ウワバミ程度で表現されるのは不満だなぁ。せめて酒呑童子とかそのぐらいがいいよぉ」


 ソファーの上で、陸に揚がった魚みたいに弱々しく跳ねているこの女こそ、鷲尾家長女の桜花である。

 普段は家にこもっているが、時々夜遅くに家を出て朝方に帰り生活費を足していくという、正親にも完全には理解出来ない生態をしている。

 危ない仕事とかではないらしいので安心して送り出しているが。


「蛇だろうが鬼だろうがンなことどうでもいいんだわ」

「そういや何で制服着てんの?」

「話ぶった切られたけどそう! それの話したかったんだよ俺は!! 俺が先週言ったこと覚えてるか?」

「えっと〜、なんだっけ? お姉様のおへそが綺麗ですとかだっけ?」

「ちっげぇぇよ!! 今日から学校始まるから弁当作るって話だよ!!」


 それなのに弁当用の食材が丸々一種類消えていることにキレているのだ。タンクトップをチラチラと上げ下げしていることなどどうでもいい。

 しかし残念。弁当なんて人生で一度も使ったことの無い桜花には、前日の夜に献立を決めて準備をする人間の苦労など理解不能。


「だぁぁぁぁぁああ! もう!! へそチラチラすんな! 普通に鬱陶しいんだよ!!」

「えぇ〜、折角のお姉ちゃんのセクシーショットなのに、なんかこう、湧き上がってくるものとか無いの?」

「あるわ! 怒りがふつふつと湧き上がってんだわ!!」

「んーむ。お姉ちゃんを褒めないことを叱るべきか、動揺しないぐらい大人になったことを喜ぶべきか」


 うーん、悩むなぁ。とかなんとかほざいてる桜花に怒りの火山噴火寸前の形相を見せるが、ふと壁に掛けられた時計を見ると、既に時計の短針が八に合わさる直前で。


「クソッ!バカに付き合うとこうなるって何故学ばないんだ俺は!?」


 始業式にギリギリ間に合うであろう最寄りのバス停の時間は八時五分。ダッシュで向かって間に合うかどうか。


「あーもう! いいかバカ姉! フライパンの中にある分で朝と昼は足りるだろうから、朝食った残りを冷蔵庫に入れて食べる時にチンしろよ!!」

「もうもう言ってると牛になるよ〜」

「うっせぇ死ね!!」


 エプロンを脱ぎ捨て、ブレザーを羽織り、自室から学生鞄をひったくるように背負い、ダッシュで家を出る。

 後ろから「お姉ちゃんに死ねとかいうなよぉ、口が悪いぞぉ」と間延びした声が聞こえた気がしたが、正親はその声を意識的に思考から除外し走ることのみに集中した。



 ☆


「間に合った.......」


 汗だくになりながらバス停に到着した正親は、ブレザーを何故手に持たず羽織って走ってしまったのかと頭を抱えながら、自家製麦茶を入れたペットボトルに齧り付いていた。


(春だから制汗剤とか持ってきてねぇよなぁ.......。あーもう、あのバカ一回ぐらいはシバいても許されるだろ)


 朝から散々な目にあった。

 そう思いため息を零すが、その口角は少し上を向いている。

 桜花が言っていた「大人になった」という言葉が、正親にはなかなかに嬉しいものだった。

 いつからかダメ人間になってしまったが、昔は背中の大きな頼りになる、幼い正親の中では凄い姉だったのだ。

 そんな姉が、今唯一一緒に暮らしている姉が自分の成長を認めてくれたようで、誇らしい気持ちが胸にあった。


 いつの間にか到着していたバスに乗り込み、運良く空いていた席に座る。

 車内は春半ばにも関わらず、少しクーラーが効いていて気持ちがいい。

 このまま窓でも見ながら、春を感じてみよう。

 正親には珍しく、感傷的な気分でいた。


 数駅進んだバス停に、見覚えのあるブルーアッシュのショートヘアを見るまでは。


 ☆


 正親は降車駅近くのコンビニで麦茶を買った後、予定より少し遅れて学校へと歩いていた。

 気分と同様に下げていた頭を上げ、遠くに見える信号機の色を確認し、あっ、と声を漏らす。

 すると、


「マサちんやっほー」


 横道からかけられる声に気づき、足を止め━━━


「おい走るぞ恵比寿!」

「どぅえ!? 何で!?」


 ━━━━ない。


「足止め信号が青!!」

「マ? やっべぇじゃんそれ!!」

「俺待つ気とかねぇから、必死こいてお前も走れよ!!」

「まっ、待ってって〜!」


 友人が出す悲痛の叫びをバックに、快晴の空の下で地を蹴り上げる。

 アスファルトの黒い欠片が舞う桜の季節。

 暖かい風が背中を押す。


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猫にみたいなやつに餌付けをした。 @novelnewB

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