第17話 私は不幸なの?
「それで此度の事なんですが、家内が言うには、その………………」
「その、何ですか」
「いやその、私もにわかには信じがたいんですが」
牛沢さんの旦那さんは、あくまで妻の主張ですがと言いながら彼女が喫茶店で私に向かって吠えた演説の内容を幾度もつっかえながら繰り返した。義母や夫は改めて耳にした牛沢さんの主張に愕然とすると共に言葉を失い、表情をなくした。
「…………まあ詰まる所、私の妻は私の義母により散々虐げられてすっかり欲望をなくしてしまった抜け殻である。そう言いたい訳なんですね」
「…………ええ」
「人を何だと思ってるんでしょうね!」
目の前の人間を責めても何にもならないのに、ついどなってしまう。
私の夫の母であり、私の家事の師匠であり、これから萌たちの家事の師匠にもなるだろう人間に対して何たる言い草だ、そう思うと自然と声が荒くなってしまった。
私がしまったとばかりに口を抑えると、牛沢さんの旦那さん以上に夫と義母が驚いていた。
「家内は警察署でも泣いてばかりで、まるで子どもの様でした。今日は大事な用件があるからって緑色の上下を着て。なぜかわからないけど最近やたら緑色の服ばかり買って来るんですよ、ここ二年ぐらい。なぜかと聞くとわからないって」
「そう言えばお義母さん、今日会った奥田さんも緑の服でしたよね」
「奥田さん、ああ家内が仲良くしてる人!そう言えば奥田さんも最近緑の服が多いんですけどあれって……ああどうでもいいですよね。それで」
「示談交渉ですか、そちらとしてはおいくらの予定で」
「器物損壊の上に名誉棄損ですから、三十万円でどうか……」
三十万円!
確かに義母を貶められたのは腹が立ったが、かと言ってそこまでの問題とも思えなかった。私がその額にびっくりして口を閉じると、ここまで沈黙していた夫と義母が動き出した。
「奥様とは相談しなかったんですか」
「しましたよ。でも完全に頭に血が上ってて、逆に金をもらって来いとか」
「そんな馬鹿な!」
「私も必死になだめようとしたんですが、警察でさえその有様だったようで」
警察でもそこまでの主張を繰り返すとは、どこまでその感情が深いのだろうか。私が姑に虐げられて、まっとうな三十二歳の女としての欲望を失って枯れてしまっているように見えたのだろうか。
それで、まっとうな三十二歳の女としての欲望とはいったい何なのか。おしゃれを楽しむ事だろうか。美食を楽しむ事なのか。しかしそれは、家族ありきの話ではないだろうか。私と言う三十二歳の女にとっての最大の欲望は、家族を守り子どもを守る事だ。
「ったく、うちの嫁は本当にねえ、私があんなこと言っちゃったからねえ」
「お義母さんには何も関係ありません」
「家族旅行の時も息子に丸投げで、ただただぼさっと後をついてくだけ。活発なのは土産物を買う時ぐらいで。いつもの働き者ぶりはどこへやら」
自分としてはいい嫁でありたいと思っている、この家庭を失いたくないから。だからもしそれが牛沢さんをあんなにした原因であるのならば、私は絶対にそのやり方を変えるつもりはない。
「それでどうします?三十万で手を打ちますか」
「多分うちの嫁はそれでも高すぎると思ってるくらいだけどね、あなたはどう思う訳」
「その上に人の嫁の下着姿を衆目に晒した訳だからもうちょい高くてもいいとは思うぞ。この件に関しては悪いけど譲らないからな」
「勘弁してください、出せても五十万円が限度なんです。もちろん女房とは離縁するつもりでいますが…………」
「…………」
「じゃ間を取って四十万円で手を打ちます、これで決定です」
「はい……まことに、まことに申し訳ございませんでした…………」
私自身、そんな多額のお金をもらう理由はないと思っている。
でも確かに奥田さんに言われた通り、ここでもし仮に一円とか言ったらどうなるだろうかぐらいはわかる。多分私と牛沢さんの関係は子供が同じ幼稚園に通っているという平行関係から、大きな格差が生じてしまうだろう。
そしてそれが私が牛沢さんを見下ろすと言う物になる事もまた確実であり、そうなれば牛沢さんはいよいよ居場所を失う。もっとも牛沢さんの旦那さんの物言いからすると牛沢さんは離婚させられそうな流れであり、そうしなくても居場所を失う事には変わりなさそうである。と言っても、今更私がどうにかできる物でもない。
八月九日、日曜日。
萌たちに家事を教えてもらうという話を義母に切り出すことはできないまま時が過ぎ、やがて他人事のように示談交渉が終わり四十万円の現金が入った。さてその現金をどう使おうかと思っていると、いきなり私の所に母と妹がやって来た。まったく予告のない突然の訪問に、私も子どもたちも驚いた。
「おばあちゃんとおばさん!」
「おばさんじゃないでしょ!」
「いいのよ、姉さんの事だから」
一朗におばさんと言われた妹、それに憤慨した母。母の右手にはデパートの紙袋があり、妹の紙袋にはコージーコーナーの文字があった。
「はいこれ姉さんに」
「マドレーヌ?」
「そう、たんと食べて頂戴」
豪華そうな箱に入ったマドレーヌ。子どもたちが目を輝かせて走り寄って来る中、妹は仏頂面で子どもたちをにらんだ。
「この前は本当に大変だったわね」
「それで母さんのは何?」
「私の部屋着。姉さんも好きなの一、二枚好きなの持ってっていいわよ。大丈夫よ買ったばかりなんだから」
部屋着と言うにはきれいな、一枚数千円するような服。なぜそんな物を紙袋に詰めて持って来たんだろうか。私が首をひねっていると、一朗がマドレーヌの箱を開けてつまもうとしていた。
「ちょっと一朗、おばさんにちゃんとお礼を」
「ダメよ!」
おやつの時にもちゃんと時間を守り、そしていただきますとごちそうさまを忘れてはいけない。そして何より妹に対するお礼を忘れてはいけないとばかりに一朗を制しようとすると、妹が吠えて来た。
一朗は反射的に手を引っ込めたせいでバランスを崩し、そしてそのまま尻餅をついてしまった。
「ちょっと!」
「姉さんってさ、二十年前から全然変わってないわね!今度の事件で改めてそう思ったよ!」
「二十年前?」
「その時からずっと、今こうしている事だけを考えて生きてたんでしょ!それで何もかもそのためだけに、純粋に頑張ってれば何もかも叶うと思ってた!悪いけど私、牛沢さんって人の気持ちわかる気がする」
「一朗大丈夫よ、ほら痛くないから」
妹もまた、牛沢さんと同じように私の行動の何かにいら立ちを覚えているらしい。私が一朗を慰めていると、妹は両手を机に叩き付けた。
「はっきり言うけどさ、姉さんはどうしてそういつも自分の事をおざなりにしてるの!そういう姿ってはっきり言うけどさ、痛々しいよ。そんな姉さんを見ていると、なんか助けたくて仕方がなくなっちゃうのよ!牛沢さんは多分、その気持ちを抑えきれなかったの、私だって同じことを」
「は?」
「は?じゃないよ!ったくいつもいつも私たちのずっと上を行きながら、その手札でできる役を作らないでさ!それで悔しがりもしないで、こうやって日々節約生活に追われてさ」
「おばさん、ひがんでるの?」
「え……?」
牛沢さんのように熱弁を振るうが、やはり牛沢さんの時と同じく耳に届かない私が首をかしげると、妹はやはり牛沢さんのようにさらに吠えかかった。
でも今度はその時と違って一朗の言葉があり、ひろみの泣き声があった。
「ごめんね、ひろみ!」
「どうもおしっこしちゃったみたいなんだよ」
「今からおむつ換えてあげるから」
私が萌の言葉に従いベビーベッドの方へ足を運ぼうとすると、妹の深いため息が聞こえて来た。私がそのため息を顧みず汚れたおむつを脱がせて布で拭き、新しいのを履かせると今度は笑い声が聞こえて来た。
当然の事をしているだけのはずなのに、どうしてこうなるのだろうか。とにかくやるべき事をやったし改めて妹の演説を聞こうかと思って席に戻ると、妹の顔が先ほどにもまして赤くなっていた。熱があるのかと思って右手を額に当てようとするが、それに抵抗する様子はない。そして触ってみると、まるで熱くなかった。
「ひがんでる、かあ……本当にその通りね。私もお母さんも、それから弟も、みんなお姉ちゃんの事ひがんでた。私が物心付く頃には一点集中、全てその事の為だけに生きられる人間になってた。お母さんやお父さん、私がどんなに恐れたり止めたりしても無駄だった。いやいつか自分の愚かさに気付くんだなって勝手に思ってた」
自分としては普通にやっているだけだったのに、なぜかそこまで妹や弟に思い込ませてしまったらしい。私が目的に向かって進むたびに、なぜか母が怯え出し、それが妹と弟にも伝わり、私がその目的に進まなくなるように必死に誘導しようとしたらしい。でも私はそれに構う事なく突き進み、そして事を成し遂げた。だから、今私はとても幸せだ。
「牛沢さんにはきっと想像力がなかったんだと思う、私と同じように。この時代にこんな若い年齢で四人、いや五人の子供を抱えて過ごす女性なんて絶対に不幸に決まってるって思ってた。そしてその原因を自分なりにずっと探してた。私たちが二十年以上かけても探せない物なんか、見つかる訳ないのにね」
「うちの夫は賢明な人だよ。この結論に二十年ぐらい前に達してたのにさ。あなたがどうするかわかっていながら学費を出してくれたんだから!」
母も母で、大量の服を抱えながら笑っていた。この中から一、二枚を選んで渡し、おしゃれと言う女としての欲望を叶えるつもりだったのだろう。でもそれが、私を動かすには何の意味もない事に母は今ようやく気付いてしまったらしい。
バーゲンセールやユニクロで買ったような千数百円の上下でも、まったく不満を感じないような人間。私がそういう物である事は、私自身十年以上前からわかっている。流行物のファッションを大学時代に取り入れていたのは、すべて今現在の状況を得るための手段だった。
「それで、これ一朗たちに食べさせちゃいけないの?」
「いいよ、自由に食べさせて。それがお姉ちゃんの欲望なんでしょ」
「もちろん!」
私が二人を元気づけようとできるだけ大きな声で肯定の意志を示すと、妹は改めて笑った。母も笑った。
「それでこの後」
「帰るよ、これ持ってくるのが私たちの目的だったんだから」
「じゃあね」
母も妹も、入って来た時とは別人のような顔をして家から去って行った。時計が午後2時を指していた事に気付いた私は子どもたちを呼び集め、妹が起き残して行ったマドレーヌを食べさせた。
もちろん、妹への感謝の気持ちを示す事、いただきますのあいさつ、ごちそうさまのあいさつ、そして食べ散らかさないようにする事の徹底は欠かさない。
「お母さんも食べなよ」
「後でね」
ウソは吐いていない。四人が食べ終わった後に残ったのを夫と一緒に分け、そしてさらに残りを義母に持って行きそのついでに約束を取り付けようと思っている。有言実行。それが大人の見せるべき姿ではないのか。
「ごちそうさまでした」
子どもたちのごちそうさまでしたの声を聞いた私は残りのマドレーヌの入った箱を持ち、義母の家に向かった。
「あれ奥田さん」
「………」
奥田さんは半分ほどしか残ってないマドレーヌの箱を見つめながら、ずっと突っ立っていた。今日もまた、この前の時と同じフレッシュグリーンのシャツを着ながら、立っていた。
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