第16話 奥田さんのため息

「全く牛沢さんもなんてことをしてくれたんでしょうね。ああこの度は本当にご愁傷様で」




 奥田さんの言葉には、まったく心がこもっていない。私でもそう感じたぐらいだから義母にとってはもっとそうだったようで、視線が宙に浮いている。




「それでどうなさいます?」

「私としては何が何なんだか、牛沢さんの気分を悪くさせたのならば謝りますけど」

「全く、実に素晴らしいお嫁さんなんですね」


 私がこの前義母に買ってもらった水色のブラウスを指差しながら、奥田さんは緑色のワンピースをはためかせた。

 やけに物のよさそうな、一枚いくらするのかわからなさそうなワンピース。同じワンピースなら一朗たちに漫画でも買ってやった方がよさそうにも思えてしまうのは、私の性だろうか。

 実際、家には古本屋から適当に買い集めて来たまったく統一性のない番号の並んだワンピースの単行本が十冊ほどある。


「でも私から言いますけど、あなたは牛沢さんに損害賠償を請求すべきですよ」

「はて?」

「それが牛沢さんのためにもなるのですから」


 確かに私は牛沢さんのせいで損害を受けた、という事になるのだろうか。でも私にしてみれば何かわからないが何か私がしたせいで牛沢さんがああいう事をしてしまったのだから、どっちもどっちではないかとも思う。それをわざわざ自分だけの都合を持ち出して責め立てるのは不公平にも感じる。


「話はだいたい浅野さんや奥田さんたちからうかがいましたけど、義娘本人がこうしている以上、私としては……」

「そうやってお嫁さんをおしつけになられたのですね」

「いやいや、私の方がむしろ嫁にしつけられましたよ。一人娘と春の日はくれそうでくれぬとか言いますけど、私には一人息子と春の日はくれそうでくれぬでしたよ、ったくいい年して意地っ張りだった私を変えてくれたのはこのお嫁さんですから」


 奥田さんはお義母さんの言葉に愕然としたようで、義母に対抗するかのように目線を宙に浮かせてしまった。私だって子どもたちが自分の思っていた反応と違うとえっと思う事はあるが、ここまでわかりやすい方ではないと思う。

 ではこの言葉がよっぽど意外だったのか、それとも元からわかりやすい方なのか。これまでの付き合いを思う限り前者らしいが、だとするとそれはそれでどこが意外なのか私にはわからない。

「でもとにかく、牛沢さんはそれが悪い事だとわかっていてそうしたんです。このまま被害届を出さずにいては、あなた方と牛沢さんには決定的な差がついてしまいます。牛沢さんは二度と立ち直れなくなるかもしれませんよ」

「具体的にいくらぐらいですか」


 二万円。確かそれが十年前に買った時の値段だ。


 その事を思い返して二万円と言う値段を伝えると、奥田さんは平板な調子でああそうですかそれで交渉してみてくださいとだけ言って玄関から出て行った。


「まったく、いつの間にか私は鬼姑になっちまってたのかねえ」

「どこらへんが鬼なんでしょうね」

「姑になる前は鬼だったよ、今じゃただのパンチパーマだけど」

 私が角を切り落としたとでも言うのだろうか。義母は年齢からすると随分と黒い頭を撫でつけながら苦笑いをした。

「私にはわからないんです。牛沢さんがどうしてああいう事をしたのか」

「私にもわからないよ。あれで四十歳ってのも信じられないね」

 わからないと言いながら、義母は荷物をまとめていた。牛沢さんか弁護士の所に行くのだろうかと思い私が腰を上げて義母に付き従おうとすると、義母は右手で私を制した。一応当事者として参加する義務はあるだろうと言うと、ただの散歩だからと言って止められた。







 奥田さんはなぜ来たのだろう。

 あの後警察でとりあえず衣服をあてがってもらい、連絡を受けた義母と共に車で帰った訳だが、真っ先に駆け付けて来たのは子どもたちでも夫でも義父でもなく、奥田さんだった。

 奥田さんは、今日私が浅野さんと言う旧友と会いに行ったという事を知らないはずだ。ましてや、今日こんな事になるだなんて予測できるはずもない。何か他に用件があったのだろう、疑っていてはキリがない。


「今日はもう休め。ったくとんだ災難だったな、せっかく旧友と仲良くしてたのに」

「いいえ、こうしてる方が気がまぎれますから」

 夫の言葉にも構う事なく、私は家事を行った。実際、その方が気が楽だからだ。結論の見えないことをあれこれ考えるより、まず目先の夫と子どもたちの方が大事だ。

「大丈夫お母さん!」

「大丈夫大丈夫」

「その女の人マジひでえよな!」

「そうだよね!」

「でもごはんはおいしいほうがいいなー」

「きょうの朝ごはんおいしくなかったもん」

「それは……そうだったけどな」


 と言っても、一朗と萌の怒りは大きい。雄三とかなたは悠長に食事の心配をしており、その態度を一朗と萌に責められていたが二人とも考えを変える気はないようだ。自分としてみればほどなくクズ布に成り下がる程度の物であっても、子どもたちには別なのかもしれない。この子たちの為にも、私はそれなりの行動を取るべきなのだろう。義母がどうしているかは知らないが、とりあえず居間に戻りボロ布になった服を開きながら、どの程度の金額を請求すべき改めて考えてみた。

 二万五千円とさっきは言ってみたが、今や色あせが目立つただの古着と化したこの布切れにそこまでの価値はあるのだろうか。あるいは数千円でも高いかもしれない。それとも肌着を衆目に晒す羽目になったとか言う恥を掻いたという理由で、更に額を上乗せすべきかもしれない。でもまるで意味は分からないがああやって熱弁を振るわれているのを見ると、やはり私にも何か責任があるように思えてくる。

 私がこうして家族のために節約生活を続けている事が、何らかのハラスメントだとでも言うのだろうか。それでどうして傷付かなければならないのだろうか。牛沢さんは以前から、お金を使わない私に対してイライラを募らせていた風がある。


 牛沢さんと私では、二つ相違点がある。五児と一児、三十二歳と四十歳と言う事だ。子どもにかかるお金は、もちろん私の方が圧倒的に多い。その分自由に回せるお金は少ないが、別に気にはしていない。そして時間だってそうだろう。私の一日はほぼ家事で終わる、まる一日家事をしなかったのはひろみを産んだ日まで遡るはずだ。その前は多分一泊二日の家族旅行の時か、ああその時も朝食は作っていたからそうとは言えまい。時間もお金も牛沢さんの方があるはずだ。

「おばあちゃんがいってたんだよ。おばあちゃんはもう六十六才で、いつまでいるかわからないって」

「そうだよ、お母さんが倒れたらおそうじとかお食事とかどうするんだよ」

 風邪をひいた事もある。それでも適当に薬をもらいながら過ごしている内に、いつの間にかどこかに行ってしまっていた。子どもたちの事を思うと倒れてなどいられない、そう思うだけで不思議に治る。

「私がおばあちゃんにいろいろ教わるから。おばあちゃんはお母さんをこんな立派にしたんでしょ。お母さんができるなら萌だって」

「十年かかるぞ」

「十年後って、まだ高校二年生じゃない」

 もっとも、私がいつ大病をするかわからない手前そういう技術を身に付けておくのも必要だ。萌だけじゃなく一朗にも、そういう事を仕込ませておかねばならないのかもしれない。もちろん雄三とかなたにもだ。その点ではまだまだ義母に頼らなければならない。もちろん、実父母にもだ。

「立派な心掛けね。なら明日からでもさっそくいろいろ教えてもらおうか?」

「お母さんでも十年かかったんだぞ、萌にできるか?」

「できるから!」

 とりあえずその気になっている物をわざわざ止める必要もない。それで私が楽できるのかはわからないが、スキルはないよりあった方がいいのは当たり前の話だ。もちろん私もやらねばならない。そう思うと、こんな野暮用はとっとと片付けてしまった方がいい気分になって来る。とりあえず向こうが言って来る額を丸吞みしてもいいかと思いながらチャイムと夫の声に釣られて玄関の方を向くと、義母が疲れた顔をした男性と共にそこにいた。

「お義母さん、その方は」

「牛沢さんの旦那さん」

「此度は本当に、家内がまったくなんていう事をしてくれたのか…」

 牛沢さんの旦那さんだというその人は、まるで自分が全ての罪を背負ったような顔をしながら靴を脱いで上がって来た。これを責めれば誰でも悪人になれるような気の毒な姿で、子どもたちさえも息を呑んでしまった。おしめを濡らしていないしお腹も空いていないはずのひろみは思わず泣き声を上げており、それこそがその人の出す空気を象徴しているようにも思えた。義母は一朗にひろみの子守りを命じると、この小さくなっている男性を席に着かせ、私たちを手で誘った。

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