第15話 事件
八月二日。
義母に仕事を丸投げして、私は古いハンドバッグを持って家を出た。
十年前と同じ服を着たのは、面倒だからではなく当時の空気を少しでも味わうためだった。スカートはさすがに無理だったが、それでも出来得る限り当時の雰囲気に近づけようとしてみた。しかしおととい義母に言われた通り、どうにも落ち着けない。またと言われてしまうかもしれないけど、子どもたちになんか買ってやらなければなるまい。私は義母の期待を裏切る決意をした事に内心苦笑しながら歩を進めて電車に乗り、やがて待ち合わせ場所にたどり着いた。
浅野さんは電話で伝えて来た通り、紫のシャツに真っ白なスカート、それから赤いハイヒールを履いていた。
「浅野さん」
「ああお久しぶり!いや、まさか本当におととい言ったそのまんまで来るとは思わなかったよ」
「約束破りたくないしね」
「あなたらしいわね、じゃあ行きましょうか」
浅野さんの歩きっぷりは私よりずっとかくしゃくとしていて、さすが勤労者と言う所であった。その上で服装も私よりずっとキリッとしていて、私とは比べ物にならない。
「いやー、本当に浅野さんってカッコいいなー」
「カッコいいなって、あなたに言われたくないけど」
「私のどこが?」
「だって、もう五人目できたんでしょ?五人も産んでその体型って奇跡だよ」
女子大生時代と今とで、スタイルはあまり変わっていない。普通子どもが生まれるとスタイルが崩れるとか言うが、私の場合はなぜか崩れない。義母は必要以上にテキパキ動くから痩せるのだとか言うが、当然のことをしているだけのはずなのだが。
「まあ、昔からあなたは自覚がないからね。あなたって睡眠時間一日何時間?」
「七時間ぐらい。今は朝のお弁当がないからもう少し長く寝られるわ」
「まったく、その体型に洒落た顔。その上に一流大学に受かっちゃう頭脳。いったい天は何物を与えたんだか」
私はそのどれも自負していない。ただ流行おくれの服を身にまとって恥じる事のない汗まみれの主婦、それが自分の立ち位置だと思っている。そしてその立ち位置にいる事に、何の不満もない。
「私普段電車は最高で五駅、半径三キロで生きてるからね。二駅で行けるところに大きなデパートがあるから大きい買い物でもそこで間に合っちゃうから」
今日は普通電車で十駅分、デパートと逆の方向。どんどん人が少なくなり、海岸が近づいてくる。リゾート地としては上等で私たちも家族でまれに来るけど、一人で来たのは十年ぶり二度目だった。その時以来のせいか、まったく景色に覚えがない。もちろんプランなど何もなく、ただ浅野さんに付き合って歩き回るだけである。
この辺りは建物も少なく、さらに低い。その上に海岸も近いので、ひとたび足を向ければすぐ海が見える。八月だけに家族連れを含め人が多く、そんな中をただ歩く三十路の女性二人の姿は少し奇異だったかもしれない。そんな微妙にこの場にふさわしくなさそうな二人連れはあてもなくだべりながら歩き始めた。香りこそほとんどないが潮風がここちよく、高温多湿の割に暑さを感じなかった。
「浅野さんの思い出って何」
「小学校時代に臨海学校でここにやって来てね、そこで足がつった隣のクラスの男の子を助けてさ、それでしばらくクラスのヒロインになっちゃってね。その時に私勘違いしちゃったのかもね」
浅野さんは気が強く、元々クラスの男の子をガキ扱いしていた。その上でこんな出来事があった物だから、それがきっかけでこんな風に子どもたちを手玉に取れるならと思って先生を志し、それがいつの間にか保育士に変わっていたそうだ。
「それでやっと保育士にはなれたけど、恋愛なんかする気力がなくなっちゃってね、もう半ばやけくそになってるのかな。同性同士のが付き合いも楽だしね」
「その同性同士ってどうなの?」
「子持ちもいるし結婚だけした人もいるし私のような独り身もいるし、まあそれぞれだよ。でもさすがに五児の母って人はねえ、いても三児だよ」
「やはり五児の母ってのは特別なのかな」
五児まで来たという事について、特別な感慨はない。子どもに囲まれ、一緒にいると楽しくなる。それは母親とか主婦と言うより、あるいは保育士に必要な資質なのかもしれない。でも私はそうしなかった。主婦として、子どもに囲まれて過ごすという光景が私にとってのゴールであり目指すべきパラダイスになっていた。そのパラダイスに行く事しか考えないまま時を過ごし、そして努力も惜しまなかった。勉強も運動も思い出も、全ては今ここのためにある。そしてその事を、私はちっとも後悔などしていない。
「結局こうなっちゃう辺り、私も気が弱いんだよね」
それでどこにも入らず一時間以上歩き回り、結局駅に戻って来た私たちは、その駅ビルのそばの喫茶店に入った。浅野さんは気が弱いと自嘲しているがどこに入っても予想外に人が多く、とくに海水浴場のすぐそばなんてそれこそ行列までできている有様だ。飲食品展やお土産屋は無論、ほとんどの店が客であふれている。それ以上に、値段が重たい。
「気が弱いって言ったら私だって同じだよ。こうして子供五人も置いて悠長にパフェなんか食べてていいのなって」
「この後お土産でも買うの」
「お義母さんからは止められてるけど、買っちゃうんだろうな。これと同じぐらい値段の買って来てあげないと」
窓側の一列に並んだ席に座った私たちの所にやって来た六百円のチョコレートパフェは、二十年以上前に見た時とちっとも変わらないビジュアルで私を見ている。年を取った分だけ小さくなっているはずなのに、意外と大きさが変わらない。そう言えばあの小学校時代最大の思い出の後、両親が喫茶店で食べさせてくれたのもチョコレートパフェだった。子どもらしい物を与えて興味をそちらに向かせようとしたと結婚直前に母親からカミングアウトされたが、その時既にある意味での第二次反抗期に突入しその目的に向かって突き進んでいた私にはたいした障害でもなかった。たかが十駅、乗車時間四十分足らずでお土産も何もないだろうが、手ぶらで帰るのはどうにもきまりが悪い。子どもたちに何かを買ってやる時が、私にとって一番気持ちがいい時なのだ。
「私も今になって、お母さんの偉大さを感じてるよ。自分の事の上に子どもと言う他人の面倒も見られるんだから。こんな仕事だけど私なんか自分一人の面倒を見るのが一杯一杯でね」
「私だってお義母さんに言われたよ。子どもが独立したらどうするのかって」
パフェを口に運びながらお互いの悩みをしゃべり合っていると、突如スプーンを掴んでいた右腕と袖が濡れた。
コップを倒してしまったかと思いあわてて右の方を向くと、隣でモスグリーンのブラウスを着た女性が、ブラウスとほぼ同じ色の目をしてこちらを睨んでいた。
彼女の右手には、私のテーブルにあるのと同じコップが握られている。
「…………………」
彼女は何も言わないまま、私を見下ろしていた。緑色のまぶたは、彼女の目の前のテーブルに乗っている溶けた抹茶アイスとそっくりの液体であふれており、全身がブルブルと震えている。
「あの、どうなさいましたか?」
私がなるべく穏やかに声をかけると、その女性は空っぽのコップを自分のテーブルに叩き付けながら歩み寄って来た。
「まったく、そうやって姑の言う事にいつもいつもへこへこ従って!そうやっていつも八方美人を気取って人を欺いて!」
「牛沢さん………?」
なぜ牛沢さんがここにいるのだろう。まさか私に付いて来た訳でもないだろうと思いながら緑色の目を見つめていると、牛沢さんは背伸びしながら私に歩み寄って来た。
「こんな友人と会う時でさえ流行おくれの物を着て平然として!それでお金を節約できている自分ってカッコイイと思ってるだけなんでしょ!」
「これは大学時代の時の服でそのまま」
「今すぐ、まともな服を買っておしゃれしなさい!」
「この前買いましたけど」
「いいえ、今すぐです!」
「そんなこと言われてもお金が」
「うるさい!」
牛沢さんは私の胴にしがみつき、私の古着をまくり上げて脱ぎ捨て、そして噛み付き破り捨てた。
「さあこれであなたは服を買わない訳に行かなくなりましたね!姑や子どもなど考える事なく、のびのびと自由に服を買いなさい!ぜいたくをしなさい!」
「あの、この側に服屋って…」
「まさか見えてないと!?ありましたよ、おしゃれなブティックが!」
「そこ確か一着二万円したような」
「それこそ解放なんです、ずっとあなたはあの鬼姑に縛られて来た!その痛々しい姿をさらして私たちを苦しめて来た!あなたは自分がやっている事が、世間へのハラスメントであると考えた事はないのですか!」
牛沢さんにしてみれば熱弁を振るっているつもりだろうが、全然頭に入って来ない。夏だったので下には肌着しかなく、その肌着を衆目にさらしながら私は子どもたちへのお土産を考えていた。
「この男女同権時代に古い世界観にしがみついて頭を下げ続け、そうして自己満足に浸るような因循姑息なやり方がいつまでも通じると思ってるんですか!これで目を覚まさないのならばもうあなたに付ける薬など世界中どこにもありませんよ!」
口を動かし終わったらしい牛沢さんは今度は人目はばからず泣き出し、そして私の義母を呪いながら床に倒れ伏した。私が右手を差し出し頭を撫でようとすると、浅野さんから右腕をつかまれた。
牛沢さんはその後他の人に取り押さえられ、警察に連れ込まれたらしい。私が被害届を出せば起訴まで可能な案件らしいが、わざわざそんな事をする必要もないだろう。
元より十年物の、三回りぐらい流行遅れの代物で遠からず捨てるかボロ布にするかしかなかったような物だ。こんな結末になったのは少し残念だがある意味華々しい最期かもしれない。
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