第12話 出産
いよいよその日が来た。
陣痛もないまま前日の七月九日から検査入院していたが、とりあえず母子とも健康と言われて改めて安堵の気持ちがあふれた。
「それで名前はどうする?女の子ならひらがなでいいけど男の子なら漢字を用意しないといけないぞ」
「博己、洋美、比呂海、大海…」
「普通に博己でいいんじゃないか?」
夫と義父は、最後の詰めに入っている。私が体を張り、夫は頭を回す。立派な共同作業だ。
「ったく、本当に頭が上がりませんよね」
「ああいう娘がいたら………今でも独身だったかもな」
「まあそれも真理ですよね」
私が今日この時を安心して迎えられていたのは、一にも二にも夫のお陰であり、夫を育ててくれた義父母のおかげだ。私は夫にしがみついている、だから夫や子どものために最大限の事をしなければいけない。今はただ、この子が健康に生まれてくる事だけを考えなければならない。
「まだ来ませんか」
「いえ」
「いつでもナースコールをお願いしますね」
私の担当であるベテラン看護師さん、四度目と言う事もありすっかり顔見知りだった。私も彼女のような貫禄を持った人間になれるのだろうか。
「芸能人とか、ウェディングドレスを着る仕事をすると結婚に縁遠くなるとか言いますけれどね。産婦人科の手伝いをしていると自分が遠くなるってのはウソなのか本当なのか」
「看護師さんはウソのようですけどね」
「十分遠いですよ、結婚は早めでしたけど」
彼女は二十五歳で結婚したその直後に私の出産を担当し、そして雄三とかなたが生まれてから三年後、つまりおととしに男の子を産んだ。つまり結婚から七年かかったわけだ。それもまたそれぞれの人生だろう。
「まあ、うちの義理の弟から聞いたんですけど、ナイチンゲールってのも生涯独身だったそうですけどね」
「はあ」
「って言うかそれ以上にものすごい人だそうで、私のような凡人にはとてもとても真似なんかできませんよ。何でも、前線の病人のために拳で薬箱を叩き割って薬を持ってったとか……」
「アッハッハッハ!」
道を切り開くのはたいてい偉人であり、そして凡人にはその後を付き従う事しかできない。私がこうして子どもを産む事だって先人の先人のそのまた先人と同じ事であって、あくまでも普通の事のはずだ。私にとってはともかく、世間的に見ればごくごくありふれた話のはずだ。
昨日私が義父母に付き添われこの病院に向かう最中、牛沢さんに出会った。
右手には野菜が一杯入ったビニール袋を抱えていた。そう言えば今日は野菜が安かったんだと思い出し、義母に後で買ってくるように頼もうとすると
「あらいよいよ五人目ですか」
と牛沢さんが声をかけて来た。私がはいそうですとあいさつすると、牛沢さんは口を波のようにしながら私を見つめた。
「本当にお母さんも大変ですね」
「ほんとね、タクシー代ぐらい出すわよって言ってるってのに、四回目だし歩いて十五分足らずだし、何より予定日は明日だからって」
「本当にお幸せそうで何よりですね、まるで実の親子みたいに」
「ハッハッハッハ」
義父の高笑いが響き渡り、やがて掻き消える頃には牛沢さんはいなくなっていた。これまでの人生でめったに聞いた事のない、心からの高笑い。
まるで、その高笑いが存在を消してしまったかのように。
なぜ、そうならねばならないのか。どこにでもいる隠居老人の、別段珍しくもない高笑い。確かに勝利の香りは感じられたが、誰だって似たような笑い声を上げる機会はあったはずだ。例えば、結婚した時のように。その時自分が上げた笑い声とどう違うのか、その点はお互い様のはずだ。
「あなた、青信号ですよ」
「おおそうだな、じゃあ行くぞ」
青信号が灯っている。なぜ緑色なのに青信号なのかはわからないが、とにかく両手両足を伸ばしながら横断歩道を渡る。それにしてもこの日の青信号は妙によく輝いていた。
部屋の外に生える草木も、なぜか今日は機嫌がいい。緑色に生い茂り、穏やかな空気を出しながらこちらを向いている。多分その下には若芽や種子が眠り、いずれは新たな木となるのだろう。
こんな自然をいつくしむようなあたたかい子どもにひろみも、一朗も萌も雄三もかなたも育って欲しい。まずは自分がそうならなければならないと思ったが、その点については親子一緒に学ばせてもらいたい。
そんな事を考えながら窓を見ている間に時間ばかりが流れて行く。
気が付けば午後六時、真夏とは言え日はすでに落ち始めている。夕焼けが照り出し、人工の照明が増え始める。そんな中でも、草木はじっとこちらを向いている。まるで私が新たな生命を生み出すのに張り合っているかのように、葉っぱどころか幹や枝まで緑色に輝かせている。
そしてその緑色が膨れ上がり私の目を引き付けこちらに誘い込もうとした瞬間、パーンと言う音と共に一挙に緑色の爆弾がしぼみ始め、そして私が爆発した。
「今回も自然分娩ですね」
「はい」
帝王切開は一度もしていない。私は一朗の時からお産が軽く、萌の時もあっさりだった。雄三とかなたの時は多少時間がかかったがそれでも比較的スムーズで、今回もそのつもりだ。
「慣れていても油断しちゃダメですよ!ほら呼吸を合わせて!」
「はい」
私にとっては四度目でも、この子にとっては一度目だ。
油断などあってはならない。お医者さんに合わせて呼吸を整え、ゆっくりと赤ん坊を出していく。私の目に映っていたのは、分娩室の緑色の天井だけだった。
照明は見えない、見えたのは緑色の天井のみ。
不思議な事に、その緑色は先ほどの自然の緑とあまり違わなかった。
モスグリーンと言うべき、人工の緑色。
四度目のはずなのに、どの時よりも目に付く緑色。
まるで、何か迫って来るような色。
なぜか、私とひろみに迫って来るような緑色。一体何のために迫って来るのか、わからないけど負けたくなかった。
「やりましたよ!」
私がこの戦いに勝利したのは、戦いを決意してから十秒後の事だった。トータルでも十分足らず、言うまでもなく安産の類だ。
「それで、どっち、ですか」
「元気な女の子です」
ひろみは産声を上げながら、見えない目でこちらを見つめる。
その肌は赤ん坊と言う言葉にふさわしく真っ赤であり、髪の毛は黒と言うよりどこか紫がかっていた。乳房をむき出しにすると、手を振りながら探し当てて吸い付いて来た。
「今から息子たちも来るから」
「お義母さん、ありがとうございます……」
「それでどっちだい」
「女の子です」
五十五センチ、三千九百グラム。比較的大きめだ。これまでの五人の中では一朗の次に大きい。この子の将来の健やかなる成長を願いながら、私は目を閉じて我が子を抱きかかえた。
「どっちどっち?」
「どっちにしろ今日からお前はお兄ちゃんなんだからな、しっかりしろよ」
「それでわたしはおねえちゃんだよ」
「ひろみちゃん、おねえちゃんの萌だよ」
子どもたちも各々のやり方で、新たな命を迎える。ただひたすらに興味を振りかざす雄三、一番っ子としてしっかりした所を無意識に見せようとする一朗、その一朗の言葉に乗っかるかなた、そして我先にとばかり自分の存在をアピールする萌。ひろみと言う新たな存在がどうこの四人を変えて行くのか、実に楽しみである。
生まれて始めておむつと言う名の衣類を履かされ、人間と文明の世界に旅立っていくひろみ。そのひろみと一緒にいるせいか、どこか一朗たちも赤紫に見えて来る。血の通った、力強い色。雄三や萌が薄い緑色の上着を身にまとうせいか、子どもたちの赤紫の肌色がますます輝く。希望に満ち満ちた肌色であり、いつまでも眺めていられる気がした。
それから退院までは、あっという間だった。これまでの四回の中で一番時間が早く過ぎ、気が付けば退院になっていた。
「ひろみ、お家へ行きましょう」
私の言葉に呼応するかのように、ひろみは笑った。私がタクシーに乗り込んでからも離れようとせず、チャイルドシートに固定するのに数十秒の手間を取らせたのも愛嬌と言う物だろう。
「その子で何人目ですか」
「五人目です」
「ずいぶんと若そうですけど、おいくつですか?」
「三十二歳です」
運転手さんと言葉を交わしている内に、一朗たちが待つ家に着いた。
この家は私と同い年だと言うが、あらためて信じがたい。ひろみを産む前は私よりずっと貫禄があるという意味で信じがたく、今はまた新しく見えて来るという意味で信じがたい。
「いらっしゃい、ひろみちゃん!」
「おい萌、お兄ちゃんを差し置いて何やってるんだよ」
「おにいちゃんだぞ」
「あっ雄三」
「こらこら、みんなの妹なんだから仲良くしてね」
この家はこれで確実に狭くはなる。今でも二段ベッドが二個あるが、その上にベビーベッドが必要となる。ひろみがそれを離れたら、一朗のために新しいのを買ってやらなければなるまい。どれぐらいベビーベッドで過ごす事になるのだろうか、一朗から雄三とかなたまで使い回していたのは元からフリーマーケットで買ったのでさすがにガタが来ており、二人が離れると同時に廃棄してしまった。今度は新物だが、少し不公平かもしれない。
「今日はひろみの歓迎会なんだからね」
「はーい」
新物のベビーベッドを横目に見ながら、ひろみを順繰りに抱いた。一朗、萌、雄三、かなた、そして夫。
「萌、ひろみはお父さんとお母さんどっちが好きになると思う?」
「お父さんにはわるいけど、わたしはお母さんのが好き。でもお兄ちゃんはちがうんでしょ」
「ああ、オレ父さんのが好き」
「だからお母さんのが好きになるんじゃないかな」
やがて、この子たちにも反抗期が来るのだろう。雄一はすでに第一次を終えた感じだが、萌にはまだ来ていないようだ。いずれは私もウザイとかババアとか言われるのかもしれない。自分でも口ではともかく内心ではずっと第二次反抗期を続けたまま結婚してしまったが、この子たちの第二次反抗期は一体どのようになるのだろうか。
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