第13話 ひろみと共に
ひろみをベビーカーに乗せながら買い物に向かう。
雄三とかなたの時は、交代交代に抱いたりベビーカーに乗せたりしながら買い物に出かけた。そのせいか知らないが、二人とも歩けるようになったのは一朗と萌よりも早かった。
「あら奥様」
「奥田さん今日はこちら側ですか」
そしてこの日は同じお客として、奥田さんに出会った。同じようにショッピングカートを引きながら、同じように清涼飲料水を積んでいる。梅雨が明けると共に猛暑に襲われた日本、お金を惜しむ訳には行かない。500ミリリットル一本と2リットルペットボトル3本の違いはあるが、親としてやる事は変わらないはずだ。
「………」
しかし奥田さんはなぜか、私に声をかけておきながらまるで反応しようとしない。視線はまぎれもなくこちらを向いていたし、声もまたしかりだったはずだ。なぜそんな中途半端な事をしたのだろう。
奥田さんの汗で濡れた背中は、フレッシュグリーンのシャツが冷房で乾いて肌にくっつき中途半端に透けていた。そう言えば奥田さんのカートには、きゅうりやレタスなどの野菜がたくさん入っていた。サラダでも作るのだろうか、きゅうりはまだともかくレタスのような葉物野菜は高いのに大変だろう。私は比較的安定しているトマトぐらいしかホイホイとは買えない。ほどなく夏休み、お弁当を三つも作らなくてよくなるのはありがたいが、その分昼食も作らねばならないので相殺だろう。まあ、今はもう給食もないのでどっちみち五人分の昼食を作らねばならない、今日はトマトパスタにするか。
「4980円になります」
今日のレジ係は還暦ぐらいの人だった。一つ一つ丁重に品物を取ってはバーコードを読み取って行く。やがて私が会計を済ませてビニール袋に買い物を詰めようとすると、急に冷房が強くなった気がした。何事だと思って後ろを振り向くと、私の後ろに並んでいた奥田さんがレジ係さんをにらんでいた。
「もう少々お待ちください……」
「…………………………………………………」
何も言おうとしないで、じっとにらんでいる。普段店員である身として、不慣れでスローなやり方に耐えられないのだろうか。とは言え最初は奥田さんだってああだったはずだ、なぜその事を忘れてしまったのだろう。
必要以上に涼しくなって来た店内で、ひと際温度の低いその一角。レジ係さんが自分なりのペースで買い物を処理していく中、奥田さんはその目を崩そうとしなかった。そしてようやく、と言っても私の会計の時と同じぐらいの時間しかかかってなかったが、終わると奥田さんは無言で五千円札とポイントカードを置き、そして買い物とお釣りとポイントカードを受け取って去って行った。
「大変遅くなりました」
奥田さんが去ったそのレジはまた温度が上がり出し、そして奥田さんは私に目もくれずに店を後にした。
「あなたの事が何もかもわかりました」
先月、奥田さんに言われたセリフだ。わかった上で、声をかけるだけかけておいてすぐさまそっぽを向いたのだろうか。実に不可解だ。
奥田さんの旦那さんは、確か奥田さんより二歳下。職業は有名なお菓子のメーカーで営業をしているらしい。家は確か築十八年。特段どうと言う事もないありふれた人のはずだ。
奥田さんが会長になってから、PTAには一度も行けなかった。四月は行こうとして義母に止められ、五・六・七月は自らお腹の子どもの事を優先して義母に任せた。二学期からはまた別の人に変わってしまう。
「奥田さんってどんな人なんだい」
「普通の人ですけど」
義母が私に変わってPTAに行ったのはこの五月が初ではない。去年、一朗(三年生)と萌(一年生)の日程がダブルブッキングを起こして私の代わりに一朗の方に出席してくれたが、その時はとくに大過もなかったらしい。でもこの前、私がひろみを出産した一週間前にPTAに出席した際、義母はずいぶんと奥田さんに責め立てられたらしい。
「隣の人が守ってくれたから良かったけどさ、そんなアナクロニズムを振りかざすような真似はやめてくださいってずいぶんと糾弾されてさ」
「アナクロって何です?」
「辣腕振るって鬼姑気取りかって、私をいったい何だと思ってるのかね」
「私はもっと振るってもらいたいぐらいですけど」
「だからもう十年間も教えたから今更何もないでしょ、あなたはもうりっぱなお嫁さんよ」
確かに義母は窓の桟のホコリまで掬い取るような、古めかしい姑ではない。いや、今はそうではない。まだ結婚する前とかは、実際にそうやってサッシに人差し指を突っ込んで撫でまわした事もあった。そしてブツブツと文句を言いながらやり直しも要求し、そして私は真っ正直に応え続けた。その結果が現在の私であり、現在の義母だ。
「そう言えば私って、あなたの家族とあまり会ってないのよね」
「確か三年前、一朗の入学の時が最後だったはずです」
「そうね。その時に聞いてみたわ、家事をどれぐらい教えてたのかって」
「確か全然って言ってましたっけ」
「そうだったわ、それなのにあなたはそれなりにはできてた、もちろん私の要求するレベルじゃなかったけど」
一人暮らしをやれば家事など否応なく覚える。胃袋をつかんでしまえば男なんて簡単に落ちると言う訳でもあるまいが、財布をやりくりして自分なりにいろんな料理も作った。喫茶店で働いていたのが幸いしたのかはわからないが、料理は案外簡単にできた。そしてその生半可な腕で義母に挑んで玉砕し、すっかりその色に染められながら今まで過ごして来た。掃除洗濯もまたしかりだ。
「今でも聞きたいんだけど、聞かせてくれなかったのよね」
「何をですか」
「一人っ子と三人兄弟の育て方の違いとか。ましてやあの時って雄三とかなたが、えっと二歳の時でしょ?同じ男と女の双子同士、絶対参考になる話が聞けるかなって思ったのに」
「私も雄三とかなたが生まれた時に母に聞きましたけど、極力平等に接する事としか返してくれませんでした」
あの時以来、私は今こうするという事にほぼ全神経を注いで来た気がする。勉強も運動もおしゃれも趣味も食事も、全てがここに行き付いている。そもそも、全ての行動は一つの目的に収れんされる物ではないか。高校時代名門校の成績トップを気取っていた身だが、そんな中でも生物だけはずっと1位だった。動物だって植物だって、ミミズだってオケラだってアメンボだって、究極の目標はみな同じじゃないか。
「さすがにひろみでおしまいのつもりですけどね」
「これからが本番よ。一朗には悪いけど、あの子にはなるべく早くに稼げるようになってもらわないと」
「それがいいですね、学問なんて年取ってからでもできますから」
「あなたもずいぶんとやる気なのね。って言うかあなた自身子育て終わったら悠々自適と、そういう事するでしょ」
「いつになるやらですけどね」
いろいろな事に興味がある、しかしそれを満たすのには時間とお金が欠かせない。今は正直どちらもない、だからこそ勤労世代として自分なりの勤労をこなし、その両方を作らねばならない。義母の言う事を聞いて来たのは全てその為であり、会社員の言う所の上司に付き従ってるのと同じ話だ。
「奥田さんには姑さんいらっしゃらないんですかね」
「いるに決まってるでしょ、遠くに住んでるかもしれないけど。あるいは一人娘の婿養子とか」
「マスオさんですか」
「ああそれ、でもその場合どうなるのかしらね」
家事は誰が教えてくれるのだろう。母親か。もしまるでその気がなかったとしたら、娘は勝手に覚えるのだろうか。いや、もし私の母親のように覚えようとする事さえ阻害する親の場合はどうなるのか。母親が途中でしまったと思って覚えさせようとするか、あるいは母親が死ぬまで一生教えないまま過ごし覚えないまま死ぬのだろうか、それともその後独学で何とかするのか。いずれにせよ、師匠のいない中で技を覚えるのは難しい。インターネットや書籍などで手順は覚えられても、技はなかなか身に付かない。
奥田さんの物言いからすると、義母が権力を振りかざして嫁を支配し、自分の思いのままの存在にしようとする事は悪であるという事になる。でももしそれが嫁の望みだとしたらどうなるのか。それは一体、誰のための理屈なのだろうか。まるで奥田さんのための理屈であり、義母を殴るための理屈に見えて来る。にしても母も妹も、私と会うたびにたくさんの子どもの母親になった私の事をやたらと惜しみたがる。まるでそうならなかった可能性を考え、その可能性の先の何かを求めているのだろうか。あるいは奥田さんも、母や妹と同じ思考を持っているのかもしれない。大学在学中に義母に出会わず、鬼姑にしつけられて屈服しなかった世界を。その世界ではおそらく、私は今まで以上に輝き皆を楽しませていたのだろう。でもそれは、夫と出会っていない世界という意味でもある。もちろん、一朗も萌も雄三もかなたも、ひろみも存在しない世界である。
「ああすみません、ひろみが泣き出しましたので!」
「おしめはさっき替えたんだけどねえ」
「じゃお乳かな」
そんなあるかないかわからない世界より、私には今目の前にいるひろみの方がよっぽど大事だ。私は哺乳瓶を左手に持ちながら右手でブラウスを開き、乳房を出しながらひろみを抱え込んだ。するとひろみは私の乳首に吸い付き、お乳を吸い出した。
「アハハハ!」
「何萌ちゃん、ってアッハッハ……」
その結果左手に握りしめられたまま行き場を失った哺乳瓶を見た萌は無邪気に笑い、義母もつられて笑い出した。これ以上、いったい何を求めろと言うのか。何かを求めるのは、もっともっと後でも遅くはあるまい。
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