第10話 奥田さんの嘆願
奥田さんは、ため息を吐きながらアイスクリームを口に運んでいた。
私がゆっくりとオレンジジュースをすする中、奥田さんはジッとこっちをにらみつけて離そうとしない。梅雨に入るのも時間の問題と言うこの時期、私としては一刻も早く家に帰って洗濯物を干したかった。
「本当の本当に何もないんですか」
「はい」
これまで体験した事のないような、奥田さんの鋭い視線。それは私のガイコツを見通し、そしてその奥の心臓や脳みそまで見通そうとしていた。
これほどの視線を十分以上続けられるのは一体なぜなんだろう。ただただ尊敬に値するお話だ。
「今まで四年間、いや三年三ヶ月ほどあなたと顔を突き合わせて来ましたけど、もう限界に近いんです」
「何がでしょうか」
買い物帰りに強引に喫茶店に連れ込まれた私に、奥田さんは息と語気を荒げながら迫って来た。よそ行きとは言え喫茶店に入り込むにはずいぶんと仰々しい格好をして、真珠のネックレスもしている。婚約指輪以上のアクセサリーを持たない私には、実にまぶしい格好だった。
「あなたは一体どんな子ども時代を送って来たんです!」
「どんなって、ごく普通のはずですけど」
「ごく普通?それならなぜずっとこうなんです?」
平日の昼下がりと言う事でお客は少なかったが、そんな中でも奥田さんは構う事なく声を張り続ける。まるで、時々再放送で見る刑事ドラマのような雰囲気だ。
ただしそうやって怒鳴り付ける取り調べが多くの場合ピント外れなそれである事を覚えているせいか、不思議と緊張感は湧いて来ない。
「こうってどう、こうなんです」
「古い服を着ながらあっちこっち必死に走り回って、そして子どもたちの面倒を見る事に忙殺されて。その上に見ればわかりますよ、おさがりなんでしょう今の雄三君が着てる服とか」
「雄三を見たんですか」
「牛沢さんから言われて見てみたらその通りでしたよ、まったくところどころ色あせて何て言うか見ててかわいそうで、ほつれも見えてて」
「でもそれで幼稚園でいじめられたとかって話は聞いてませんけど、雄三からもかなたからも先生からも」
「それは我慢してるだけです!」
毎日見ている先生が言っていないのに、なぜ奥田さんは言えるのだろうか。
だがしかしその極めて断定的な上に確信的な物言いからは、自分の言葉に対するわずかな疑いも感じられなかった。この不思議な自信は一体どこから来るのか、大卒後十年の間家事ばかりして来た自分の不見識を恥じたくなった。
「原因はあなたなんですよ!」
「どの辺りがですか?」
「その服、そのかばん、その靴!何もかもみすぼらしくて」
「靴は新品ですけど」
「でもそれ婦人靴じゃなくて機能性ばかり重視したスニーカーですよね、ああまったく!親のそんな姿を見た子供がぜいたくをしようと思いますか?」
「わかりました、今度はこの子を含め七人分の予算を貯めた上でぜいたくな事をしましょう」
「そうじゃありません!」
確かにそうかもしれない、でも私は、親ばかりがぜいたくをして子どもにそのしわよせを押し付けるような真似を是と呼ぶことはどうしてもできない。
上がる時は一緒に上がる、それが家族と言う物じゃないだろうか。だからお腹をさすりながらそうすべきだという自分の考えを主張すると、奥田さんはますます怒気を露わにした。
「子どもの時にいじめにでも遭ったんですか」
「ありませんけど」
「何か実家の方で財政的な問題があったとか」
「私を含め三人の子供を大学まで行かせてくれた家ですが」
「じゃ質問を変えますけど、旦那さんに不満はないんですか」
「ありません」
「お姑さんには」
「ありません」
「お舅さんには!」
「ありません」
「本当にないんですか!」
「しいて言えば、私のために財布を開けすぎる所ぐらいでして」
私は真面目に、奥田さんの目を見ながら答えた。それが自分なりの誠意だと思ったのだが、そうやって本音を話すたびに奥田さんの顔の赤みが増す。
「まったく、どれだけ鬼姑にしごかれたんですか!」
「それはもちろん、料理洗濯掃除、事実上一から教えていただきまして」
「そうですか」
「でもまだまだ修行が足りませんから、もっともっと教えてもらわないといけませんね。お義母さんは今年還暦ですけど、もっと指導を受けなければ」
次に何を言うか身構えながら奥田さんを見ていると、奥田さんの顔から赤みが一気に消えた。視線の鋭さだけは健在のまま、力が抜けたような顔で天を仰いだ。
そして首を下ろしてオレンジジュースに口を付けていた私をにらみ、緑色のまぶしいクリームソーダのストローを口に含んだ。
「私、今日たった今、あなたの事が何もかもわかりましたよ。どうもありがとうございました」
そしてその視線を崩さないままソーダを飲み干し、そして自分のクリームソーダと私のオレンジジュースの代金を置いて奥田さんは大股で店を去って行った。何が分かったというのか。私には奥田さんの事は全然わからないし、牛沢さんの事だってほとんどわからない。
「残念ながらただいま妊娠八ヶ月であり、その時期はおそらく産後まもなくの時期となり参加は大変難しくなる見込みです。せっかくのお誘いですが申し訳ございません。」
三十分ほど遅れて帰宅したところ、郵便受けに大学の同窓会の手紙が入っていた。日程を見た私がすぐさま欠席の旨の返事をしたためてポストに出そうとすると、義母が玄関を開けて入って来た。
「ああこんにちは」
「いいんだよそんな礼儀は、それより同窓会行かないのかい」
「ええ、出産後すぐになりそうですから」
「たまには行きなさいよ、十年ぶりなんでしょ?」
「そうですけど、やはり子どもたちを」
もちろん子連れで行っても構わないだろうが、結局は私事である。
親になっている人間もたくさんいるだろうとは言え、同窓会はあくまでも同窓生のためだけの物である。
「大丈夫でしょ、浅野先生がいるんだから」
浅野とは一、二年の時のゼミ仲間で、現在は保育士である。一応大学時代一番仲良くしていた友人の一人であり、現在でも適当に連絡は取り合っている。しかし私が早いとしても三十二歳にしてまだ縁がないのは一体なぜなのか、意味が分からないぐらいできた女性だった。
「でも私は決めましたから」
「ならいいんだけどね」
私事を優先させるのは、この子たちが手がかからなくなってからでも全く遅くはない。二十二歳で結婚した時から、全ては覚悟の上だった。
「今更どうこう言う事もないけどね、あえて言うならこの子が独立した後どうするんだい?その時にはたぶん私はいないよ」
「そんな先の事は正直」
「まあねえ、なんならその子が落ち着いたら私らといっしょに麻雀教室でも行くかい?あんたならモテるよ」
「お義母さんがそう言うのならば一度行ってみようとも思います」
「お義母さんが言うならって、自分じゃその気がないって事丸出しの物言いだね」
「申し訳ございません」
「あなたには悪いけど、このままだとあなた姑としては成功しないわよ」
姑としての成功、それは一体何なのか。
義母のように良き嫁の教師として、その技を伝える事ではないのか。やがて来る一朗の嫁にその技を伝えて行くのが私の使命のはずだ。私が姑としての成功と言う言葉から来るイメージを頭の中に描いていると、その頭に義母の人差し指が当たった。
「ちょうど結婚十周年だし、この辺で私から独り立ちしてみなさいよ」
「わかりました!」
「勘違いしないでよ、私はあくまでも自分のやり方を強制しないってだけでこれまで通りずかずか上がり込んで来るからね、これからは戦って勝ってみなさいよ」
なるほど、これまで十年間も仕えて来てやり方もおおむね盗めただろうという事か。これからは私自身の力でなんとかしなきゃいけない。ひろみのためにも、今後はお義母さんとも戦わなければいけないという事か。
……となった所で、私のやる事は変わらない。いつも通りに家事育児掃除洗濯をこなし、その上で買い物もするだけだ。予定日まではまだ間がある、その前に買うべき物も買いに行かなければならない。
「かなたはいこれ」
「うるさいよ!」
「そうでしょ、静かになさい」
ひろみ用のベビー靴に肌着、それからおむつ。哺乳瓶におしゃぶりと言ったベビー用品を、雄三とかなたと共に買う。雨音の響く外に負けず劣らずはしゃぐ双子をたしなめながら、私はレジへと向かった。
ここには、自分と同じような女性がたくさんいる。背中に赤ん坊を背負った女性、自分と同じように歩ける年齢の子供を引き連れた女性。ベビーカーを押している女性。彼女たちがいったいどう私と違い、どう同じなのか。その事はこの場では問題ではない。
「母親」というカテゴリーに属する女性たちの中にいる心地よさ、そして安心感。もしかしたら彼女たちは、様々な問題を抱えているのかもしれない。なぜこんなことをしているんだろうという気持ちになっているのかもしれない。
「気が早いな」
「これが私のやり方なんだから」
大量に荷物を抱えて来た私に、夫はあきれ顔を見せた。でも、これが私のやり方だ。あとであれがないこれもないと奔走するより、先に揃えてしまった方がいい。もちろん値段が下がるとなれば話は別だが、スーパーではなく専門店で値段を気にする必要もない。
「言ってくれば俺が行ったのに」
「少し外に出たかったから」
家の中に籠っているのは、実は好きではない。
家事育児に時間をかけた結果家の中に籠り続けているだけで、本当はもう少し外に出て買い物をしたり子どもたちと遊んだりしたい。それでも一朗・萌・雄三とかなたと立て続けに子どもを作ったせいでなかなか外に出られなかったが、それでも無理矢理に外に出てそれなりにはしゃぎ回りもした。ひろみを産んだら、再びお外ではしゃいでもいいだろう。
「それで今度の夏休みだけどさ、ひろみを産んだら少し羽伸ばそう、な!」
「どうやって?」
「たまには俺とお前と二人っきりで」
「お金あるの?」
「俺が自腹切るよ」
「………………どこへ行くの?」
「まだあまり考えてないけど、とりあえず避暑地とか」
「期間は?」
「一週間ぐらいかな、ああ長すぎる?」
「ごめん、一泊二日でいい」
夫は、自分のために必死になってくれている。それをわざわざ跳ねのけ続ける理由はない。
そして何より、いや別にそれを悪いと思う訳でもないが、途中で自分が、あの時の奥田さんになっている事に気が付いた。あの時の奥田さんは、自分が探している物を私の中から掘り起こそうとして必死になっていたのだろう。だから私を見つめ続け、そして答えを探そうとした。私がこの時子どもと離れるのを嫌ってこんな必死に食い下がったように奥田さんにも欲しかった答えがあるのだろう。それが何かはわからないが。
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