第7話 専業主婦って事
「いただきます!」
どんな食事でも、このあいさつだけは欠かさせない。
そのあいさつをせずにがっつこうとした一朗から料理を取り上げ、十分ほど説教してやった事もある。きちんと挨拶していた萌たちには重苦しい空気を浴びせてしまったが、それでも言うべきことは言わなければならない。
その結果メインディッシュ以外全部食べつくされた事で反省したようで、その時から今までいただきますとごちそうさまのあいさつを怠った事は一度もない。お命いただきます、のいただきますなのかは知らないが、人間に限らず動物は他の命を奪って生きているというのは動かしようのない事実だ。その事を自分が中学生だった時に理科の先生に教えてもらった時には、文字通り目から鱗が落ちた。不思議な事に優等生で通っていた私がその旨を先生に告げると、あなたでもそんな事があるのねと奇妙な感動をされた。
確かに中学時代、私の成績はトップクラスだった。それでも人並みにオシャレにも関心を抱いたし、好きな男性アイドルの話で盛り上がりもした。そして当時はあるアイドルの全盛期であり、それぞれのメンバーの好き嫌いで男女混成の派閥が出来上がっていた。私の家はきょうだいそろってリーダー派であり、彼女がいなくなるとゆっくりと離れて行った。そんなに間違ってない理屈のはずだが、その事をなぜか両親は歓迎しなかった。
「私は歌やダンスもいいけど、リーダーさんの年下の子たちをまとめていくリーダーシップがいいなって思ってたから、それがいないのってどうにも……」
「そうなのね」
そう正直に言った私を見つめる母の目は、どこか重たかった。外では自分の事を真面目で社交的で成績優秀だとあれほど自慢しているくせにどこかで何かを恐れているような、どこか自信のない目をしていた。そして私が離れると共に、弟と妹は揃って別メンバーに鞍替えしてしまった。いいとか悪いとかわからない間に、展開が急に変わった。
「やはり、あの子は諦めてないみたいなのよね」
諦めていない。
ある夜急に目が覚めて起きてしまい、お母さんとお父さんの雑談から漏れ聞こえたその言葉が耳に入った時は、今までで一番ドキッとした。
その通り、私は諦めてなどいなかった。だからこそ、その時もっとも人気があった存在の中でそれっぽい存在であるリーダーに魅かれたのだろうし、そして自分がそういう理屈で動いていた事も気付かれたようだ。ここまでの親になる事ができるのか、三人と四+一人と言う数のせいにするのはやはり図々しいだろう。
「ごめんね、しばらくお昼は給食やお弁当になっちゃうから、本当はもっと手塩にかけた料理を食べさせてあげたかったけど」
「これおいしかったからいいよ」
栄養のバランスとか成長期に必要な栄養とか、そういうものはもちろん考えなければならないが、その上でたまには好きな物を食べさせなければならないし、そしてお財布の問題もある。
それでも私なりにいろいろ節約してお金を絞り出しているつもりだが、なかなかうまく行っていない。ハンバーガーを包んでいた紙を片付けて私が家計簿を眺めながらため息を吐いていると、一朗が私の肩を揉み始めた。
「貯金はどうなってるの」
「大丈夫、ちゃんとできてるから」
小遣いだけでひと月五万七千円。それに様々な出費を合わせると貯金はなかなかできない。スタートの時点で義父母の家を半ばもらっているというかなり恵まれた状況である手前、泣き言は言えない。本音で言えば、子どもたちにももっといい服を着せたいし、おいしい物も食べさせたい。もちろん、夫にもだ。
でも不思議な事に、夫は月五万円の小遣いを毎月余す。千円二千円ではなく、一万円余すこともまったく珍しくない。
「いやさ、使う事がなくってさ」
「その分のお金どうするの」
牛沢さんや奥田さんと、亭主の小遣いについて井戸端会議をした事もある。その中で私の五万円と言う額は、なかなかに高価なようだった。家計が決して楽ではないはずなのにどうしてそんな額を出せるのか、そんな風に聞かれることも少なくなかった。
それに対しての私の答えは毎回、
「夫の仕事のモチベーションを上げるためです」
である。
本当なら五万円と言わず好きなだけと言いたいぐらいだが、それが叶わない現状はどうにもならない。だから五万円で我慢してもらっているはずなのだが、なぜか夫はそれを使い切ろうとしない。
「何か貯めて買いたい物でもあるの」
「特段。こんなご時世だから貯蓄だけは欠かしておきたくなくてね」
夫はその余したお金を、私に返す。元々自分で稼いだお金の上にすぐまた返って来るというのに、遠慮なく返そうとする。
「これをどうして欲しいの」
「銀行に振り込んでくれよ、これが貯金だ」
「何もわざわざ自分の身を削る事ないと思うけど」
「大丈夫だよ、こっちが好きで言ってるんだから」
我が家の貯金の大半は、そんな理由で私の元に戻って来たお金が大半である。もちろん自分なりにひねり出して作り上げた貯金もあるはずだが、なかなか夫の小遣いの余り貯金に勝てない。最近では子どもたちも夫の真似をし始めたのか、貯金を余して私に返そうとし始めた。そうしないのは一朗だけだが、
「自分でゲーム機とソフト買うから」
と言う理由で、やはりまともに使おうとはしていない。月三千円の小遣いを半年近く使わずに貯めれば買えるという、ずいぶんと先の長い話だ。そうして先を見ていてくれることはありがたいが、どうにも物足りなさを感じる。
四月半ばの土曜日、昼食を作っていると義母に誘われた。
私がお昼を食べ終わった後にその申し出を受けると、義父が通っているという麻雀教室に連れて行かれた。しかし駅から徒歩一分足らずの場所にこんな施設があるとは、ほぼ毎日通っている道ながら実に不思議だ。
義父が若い方に入るぐらい高齢者の多い施設だが、みな一様に明るい顔をしている。様々な声やパイを打つ音が飛び交い、喜んだりガッカリしたりする顔が並んでいる。
「お義母さんも始められたんですか」
「一応ね。私の若い頃は麻雀なんてタバコの煙が充満した男臭い代物だったけどね、今じゃだいぶイメージが変わっちゃってね。まあうちの人はまだ月一回ペースでまだ三回しかいないけど、この調子じゃいよいよ本格的にここに入り浸るかもね」
「そうですか、それでいったい一回おいくらなんです」
「驚いちゃダメよ。講座一回千円で、それで五回でルールをカンペキに習得する事ができてね。ただ単に打つだけなら終日利用で五百円よ」
お義父さんは長年のサラリーマン生活である程度ルールは覚えていたのでそれを受ける必要もなく、ほぼワンコインで終日打てる店として活用しているようだ。なるほど、これは確かに費用対効果がいい。
「なぜまた今日こちらに」
「あなたの事はよくわかってるんだから、たまには家に籠ってないでこうやってストレスを発散する場所とかあってもいいでしょ。その時は私が家事とかやってあげるからさ」
「お義父さんはどうするんです」
「うちの人もあなたと一緒だから」
「でもその、いつまでもあると思うな親と金ですし……」
と言っても、まだ私は義母から教わっていないことが多すぎる。怠惰な嫁をいつまでも放っておいてくれるほど親切な義母でもあるまい。今は妊娠五ヶ月と言う事で親切にしてくれているが、ひろみが生まれて身重でなくなれば話はまた違って来る。
それまでの四年間、取り分け雄三とかなたが幼稚園児になってからのこの二年間のようにもっと厳しく指導してもらわねば立派な主婦になどなれない。
「最近よく思うけど、あなたっていくつ?」
「三十二歳です」
「三十二歳の女がさ、おしゃれにも関心を持たないしなんか好きなアイドルとかもいなさそうだし、そしてグルメとか旅行とかも大した関心もなさそうに過ごしてて」
「旅行はありますよ、夫と子どもたちにとってどこがいいかなーって」
「そうじゃなくてあなた自身の、あなた自身希望とか何が欲しいとかないの」
「子どもたちが立派に育ってくれればいいなって」
まだ三十二歳。主婦として十年過ごした所で、母や義母から見ればまだまだくちばしの黄色いひな鳥に過ぎない。夫や妹弟のような、一人前の大人を育て上げるまではそんなに安穏としている暇もないだろう。それが、自分の役目と言う物だ。
「あなた、世間体って物があってね」
「世間体ですか」
「最近あなた、化粧品とか買ってる?」
「とりあえずは。ああお義母さん、結構使えるんですよ100円ショップのコスメ用品」
「もっと高いのを買いなさいよ」
「本当にいいんですか」
「なんで私の許可を取らなきゃいけないのよ、ああ服とかも私が財布開いてあげるから買いなさい。私だってそうしたのよ!」
「じゃ今度お願いします」
自分なりに麻雀の邪魔をしないように小声でお義母さんと会話したが、それが珍しくお義母さんの気に触ったらしい。
そして最終的に義母の財布をこじ開けさせた罪深さに少し失望しながら教室を去ろうとすると、義母が他の人にペコペコしているのが見えた。
本当にストレスはないのか?
その質問はこの十年間で何百回と聞いた。そして、どんな風にと聞き返すとほぼ確実に家庭の問題と言われる。
私はそのたびに首を横に振る。
何をもってストレスと言うのだろう。厳しい家計の問題か?
そんなのはどこだって同じだ。大なり小なりと言う差はあれど、みんな収入を駆使して必死に家計を回している。家事?そんなのはなおさら人それぞれだ。いずれにせよ子どもが多いのが問題とか言われた事もあるが、それは私と夫が合意の上で子作りを行った結果だ。
誰にも干渉されるいわれのない自己責任であり、その事についてうんぬん言われる筋合いはない。
「あなたを見てるとね、まるでここに来て私の息子の嫁になるって運命を最初から決められてたように思えてくるのよ」
次の日の午後私は義母に誘われてデパートに行き、言われたままに服を手に取っていた。値札ばかり見ている小市民の私の背中を押すように、義母は買え買えと私をせっつく。
それが義母孝行になればいいと思いながら素直に言う事を聞き結果数万円単位の衣服を抱え込むと、機嫌をよくした義母がいきなりそんな事を言い出した。
「そうですか」
「いやその、例えそうでないとしても今頃どこかで誰かの嫁をやり、誰かの母親をやってたんじゃないかって思えて仕方がないの」
私がその御大層な言葉を流そうとすると、義母はさらに畳みかけて来た。ずいぶんとロマンティックな物言いだが、私自身そう思っている節もあった。
と言うより、三十二歳の時にこうして「母親」をしていない自分がどうしても想像できなかったのだ。
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