第6話 牛沢さん
スマホ問題の後も似たような調子で会話は進み、結果的に予定より少し早い時間で終わった。
「では今回は一年間の一区切りと言う訳で」
「申し訳ございませんが私は午後から」
「ああ私も」
「私も今日はいいですけど明日は一日中なので」
奥田さんはいつものように帰りにどこかで何か食べないかと言うつもりで他の奥様達を誘おうとしたが、三分の一近い奥様はこれまたいつものように理由を付けて出席を断った。
その三分の一近くの奥様のうち大半が午後からか明日の仕事、それ以外が私のように家族の都合である。
この中に、いわゆる「専業主婦」が何人いるのか具体的な数は知らない。フルタイム勤務もいれば、派遣社員的な存在もいる。そしてパートタイム労働者もいる。
私はどれもしていない、文字通りの専業主婦である。そして義母も、奥田さんもまた同じだった。
「よろしいんですか奥田さんは」
「ああたまにはいいじゃないですか」
「私は買い物に行かなければいけませんから。奥田さんも」
「その格好でですか」
「もちろん家に帰って着替えてからですけど」
今日は麻婆豆腐だ、豚ひき肉と青ネギ、それから絹ごし豆腐が安いから買って来なければならない。頭の中に三日分ほどのレシピを入れ込み、きちんとその分の買い物をしなければならない。
それから掃除洗濯、休みの日などは一朗たちにもある程度手伝わせるが、まだまだ程度としては未熟で自分なりに教えている成果は出ていない。せいぜいが洗濯物を取り込むぐらいである。
「本当にお若いですからね、元気と言うのはうらやましいですね。秘訣ってあるんですか」
「何もありませんけど、しいて言えば四人いや五人の子どもたちの顔を見ていると元気になります」
「本当にそれだけですか」
「はい」
確かに三十二歳と言う年齢は、今日ここにいる中では最年少だ。
でも萌のクラスの母親には二十八歳の人がいるし、雄三とかなたと同じ組の保護者には二十七歳同士の夫婦もいる。年齢の問題などではあるまい。
自分だってそれなりに疲れる時はある、けれどそれでもわが子わが夫のためと思うと元気にもなれる。以前からそう言っているつもりなのになぜ改めて聞き、そして改めて首をかしげられるのだろう。どうにも、この奥田さんと言う人も良くわからない。
「相変わらずなのね」
PTAから家、家からスーパーへの二往復をしながら帰って来た私は、いつものようにスーパーで買って来た緑茶を飲みながら義母にねぎらわれていた。
とりあえず夕食に必要な食材は出しておく、一休みしたら準備を始めなければならない。
「お義母さんはどうしてこちらに」
「暇なだけよ、もううちの人も定年退職してあとは悠々自適でね。今後は孫の生活でも見届けながらゆっくり死にたいって。ああでも、もし認知症になったらその時は遠慮なく老人ホームに放り込んで構わないって言ってたわ」
「そうですか、その時はお義母さんは」
「私はあの人の意志を尊重したいし、それに私もいい加減ゆっくりしたいしね。若い人たちにこれ以上負担をかけるつもりもないから、やはり認知症になったら遠慮なくそうしてね」
義母は私に甘い。義父が身を粉にして建てた三人用の家に上がり込んできて四人も子どもを作ったというのに、まるでその事を気にする様子もない。夫しか子どもができなかった義母は、私を実の娘とでも思っているのだろうか。まあ、そんな思い上がりもいい所の考えはとっとと封じ込める事にする。
数年前、社会人に成り立ての夫の恋人として初対面した時、当たり前だが義母の視線は厳しかった。
まだどれだけの甲斐性があるかわからない息子が、話によれば最初から二番目の恋人がどれだけの物か見極めてやろうとするのは当たり前の話だろう。
「これよりは結婚を前提にお付き合いさせていただきたく思っております」
「まだ大学三年生でしょ、大学はどうするの」
「卒業と同時に籍を入れるつもりでして、それが叶わないのならばとりあえずどこかで事務職をやろうと思っております」
事務をやるのに必要な資格は高校の時に取り、ついでに大学に入ってからも勉強してその点は補強した。
「ずいぶん真剣な様ね」
「はい、その点だけは本気のつもりです」
三つ指ついて亭主や義父母にお仕えするような嫁、そんな物をこの時五十代後半の義母が求めていたのかどうかは知らない。でも私にとってはそうする事が第一の武器であり、唯一の戦い方だった。
言われれば素直に従い、やり直しと言われればOKが出るまで何度でもやる。そして講義とバイトとデートと友人との付き合いと就活の暇を盗んでは通い、話し相手にもなる。
私の大学四年生の一年間は、その六つだけですべてが終わった。そんないいかげんな状態での就活だって言うのに二つほど採用を取り付ける事に成功し、迷っていた所に義母から呼び出しが来た。バイトがないのをいい事に二つ返事で駆け付けると、義母ががっくりとうなだれていた。
「すみません、何かあったんですか!お食事とか、ああとりあえずスポーツドリンクとか、それとも旦那さんとか」
「もういいわよ……………」
「もういいって!」
「いい年して本当にお子ちゃまなんだから!」
「申し訳ございません」
「あなたじゃないわよ!」
本当に息子が選ぶに足る男なのか、この数ヶ月いろいろとずいぶんなむちゃぶりをして来たつもりだった。
こっちの就活やら講義の都合など無視して、花嫁教育という名目で何度も勝手に呼びつけた。
そうやって足を引っ張り続けたつもりなのに、不満ひとつ言わずについてくる。
その上にそれほど真摯にやれなかったはずの就活まで成功させるような存在を試し続けていた自分が、急に愚かしく見えて来たと言うのだ。
「結婚相手なんて、人生を左右させる最大限の要素の一つですから慎重になるのは当たり前の話でしょう」
「そこまで頭が回ってる上にこんなに真摯に向き合ってくれる存在をそんなにぞんざいに扱うなんて、我ながらとんだ意地悪ババアだわ!」
「そんなぞんざいな存在ですが、繊細にぜんざいでも作りましょうか?」
「アハハハ…………!」
その笑い声が私のくだらないギャグに反応しての物なのか、それとも敗北宣言なのかはわからない。
とにかくこの日をもって私は親公認の彼女となり、そして夫と両親と合意の上で二つの会社の採用を辞退し、そして大学卒業と同時に入籍した。
「お義母さんにはまだまだ教えを乞いたい事もありますので」
「あなたは本当に真面目なんだから。でもそれって当てつけにも聞こえるわよ」
「実母からもいろいろ学んで来ましたし、これからもしかりです」
実母と義母が出会ったのは私の簡素な結婚式の時が初めてであるが、やたらに頭を下げている実母の姿ばかりが目についた。挨拶の際にふつつかな娘と三度も言った姿は、どうにも美しさを感じなかった。はた目から見てどうなのかは知らないが、なんとなく不安とやるせなさばかりが娘から見て目に付いて来た。
「あなたは本当にそれでいいの」
これが事実上婚約を済ませた旨を伝えた私に対しての母からの返事だった。この時既に二十二歳、お酒だって呑めるしタバコだって吸える年齢だ。今さら婚約を決めておいてそれでいいも何もないはずだ、一体何をすればいいのか。
「三回もそっちに来てあいさつもしたよ。真面目で優しくて体力もあるいい人だよ、いったい何が足りないって言うの」
「相手の人には何の不満もないのよ、あなた自身の問題。あなた、他になんかもっとやりたい事ないの、今のうちにやりなさいよ」
「結婚してお母さんになる事」
「ああそう、いつまでも子離れできない親でごめんなさいね」
「それからお母さん、料理とか洗濯とか教えて欲しいなって」
「もういいから、ごめんね余計なこと言っちゃって」
子離れできない親、あるいは自分もそうなるかもしれない。
ひろみが生まれるのはおそらく今年の夏、そのひろみが仮に高卒後即自立するとしても、あと十八年半かかる。その時は五十歳、いや子育てを二十八年間続けていることになる。
子育てをしていない人生より、子育てをしている人生の方が長い事になる。その長い方の生活に馴らされた自分がどうなるのか、その先の不安がない訳でもない。その時は不可解だった母のため息も、今なら理解ができる。母の還暦祝いの時に、もう少し丁重に礼を述べ贈り物をすべきであったと自戒の念ばかりが起こる。そしてそれから逃れるために、そして義母の教えを乞うように、私は麻婆豆腐を作り始めた。
「ずいぶんお上手に切るのね」
「大半が出来合いですから、せめてこれぐらいは丁重にやらないと。どうですか」
「とりあえずはOKよ、じゃまた来るから」
一朗たちは頭を下げながら出て行く義母に、おばあちゃんまた遊ぼうねと元気に声をかけている。私はその声を聴きながら、この甘口麻婆豆腐を子どもたちの舌に合わせるようにさらに甘口にして行く。一朗はひょっとしたら少し文句を言うかもしれないが、まだ大した問題でもないだろう。
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