星海のある夜
もやし
第1話
星の海とはよく言ったものだ。大気圏を超えて宙の彼方へと続く藍色。それを地にきらきらと浮かぶ点描の星。それは確かに、深海のその底から見上げた分厚い水の色と、浮ぶマリンスノウに近しいのだろう。あるいは、夜の水面に揺らめく月光。頬を撫でる生温い風の流体は、対流する潮の重みか。
とはいえ僕が深海に潜ったことがあるという訳でもない。だからこの想像はもしかしたらまったく間違っているのかもしれないし、或いは逆にその未知をこそ海の夜と形容すべきなのかもしれない。
「あ」声と足音を聞いた。夜空を見上げていた首を下げて横を見やれば、見慣れた顔がそこにあった。
「やっぱり」
「やっぱり?」
「こんな道の真ん中で真上見てる変人は君ぐらいだよ」
「よくご存知で」
なんて駄弁りながら歩いていく、でこぼこで土交じりのコンクリート。辺りはおそろしい程に静かで、時たま遥か遠くから車のエンジン音が微かに聞こえてくる。近くには車どころか人の気配すらなく、静止したような紺色の世界がただ一面に広がっている。
「ん、もっと人いると思ってたんだけど」
「あんまり知らないのかもねえ。そもそもこの辺全然人住んでないし、遠出してまで来るような場所じゃないし」
「まあ、僕からすれば誰もいない方が都合がいいんだけど」
「あい、あぐりー。うるさくても困るしね」
道路の両脇に視界を塞ぐように建つ住宅がだんだんとまばらになっていって、開けた田んぼやら空き地やらがその代わりを占めるようになる。
更に歩いて、ほぼ全周の地平が見えるような錯覚すら覚え始めた頃──実際には町はちょっとした山々に取り囲まれていて、それは真っ黒な壁のように聳えている──、目的地が見えてきた。
目的地といっても、特にそこに直接何か用事があるというわけではない。ただ、目的のためにちょっと都合がいいというだけだ。人が少なく、静かで、開けている。それに町からそれ程遠くない丁度いい塩梅の場所で、ぱっと思い浮かんだのがここだったと言うだけの話だ。
それは夏真っ盛りの猛暑と湿気で元気いっぱいの、芝生のような長さの草が一面に生えている草原のような空き地で、奥に向かって緩やかに傾斜している。まるで小さな丘のように。
その丘の半ばで足を止め足元に草と土以外の何も無い事を確認してから、仰向けになって寝っ転がった。
同じようにがさがさと、同行者がすぐ右隣に背をつけるのを見た。
この不可思議な同行者がどうしてこの場にいるのか、僕自身もよく分かっていない。彼女は別に星を見るのが好きなわけでもないし、何故だかこうして服を地に着け汚すことに躊躇がないように見える。
この服装は多分、おしゃれをしていると形容できるものであろうと僕でも分かるくらいに魅力的で(この件に関して僕に客観性は無い事には目を瞑る)、簡単に土色に染めていいものではないのではないかと愚考せざるを得ない。
最も不可解なのはそも今ここにいることだが、これについて思案すると無数の希望的観測が脳裏を支配するため、碌に考えることができない。いっそ思考を放棄して妄想のうちに浸っているのが一番だ。
「まだかな」
不意に話しかけられ、考えていた内容が内容なので少しびくっとしてしまう。何とか取り繕って、
「まあ、そんなに予測はできないしねぇ」などと当たり障りないだろう答えを返すものの、僕の思考は上っ面とはまるで違う位置にあって的を得ない。
彼女は僕よりも、そして僕が思うよりもはるかに聡明である。
「ね、今、何考えてたの」
とまあそれはもうわざとらしくこちらに微笑む彼女を見れば、流石の僕といえども無視して空を眺める訳にはいかない。とはいえ特に機知に富んだ返しを出来るはずもなく。
「別に、何にも」
「何にも?」
「……」
酷いくらいにしどろもどろな返答をした辺りで、実の所彼女はその問の答えを分かっているだろうと思い当たった。考えてみれば彼女の言動はいっつもこんな調子で、のらりくらり、それでいてこちらの思考を透聴しているが如く推察力を以て、僕を翻弄するのである。
「もー、どうして……」
再びなにやらおちゃらけたことを言う途中で不意に口を止めた彼女は、次いでその顔を天に向け、ただ一言「来る」とだけ呟いた。
僕がその言葉に呆気にとられる間も無く、広大なる夜の半球の、その頂点から四十度ばかり外れた視界の左下の隅に現れるものが有った。
それははじめ、ひとつの小さな違和であった。固定された星図を爪でなぞるように切り裂き、夜空を真っ二つに割るように昇る流星を、僕達は見ていた。
まるでその一筋が呼び水であったかのように、二つ三つ、そしてすぐに数え切れない程の集合となった流星群が、一纏まりの複雑な列を成して、微睡み色の夏の空を塗り潰す。
僕はそれを奇妙に達観した気分で眺めている。隣から小さく息を呑むような、そよ風のような呼吸の音が聞こえる。
視覚を埋め尽くす星の海は、然しながら他の四感を妨げることはない。隣、温かな気配を全霊に受ける。
微か触れた指先の熱を、恐れるような年頃だった。
星海のある夜 もやし @binsp
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