4月3日

 「兄さん、起きてください」


 慶花の声が聞こえて眼を開けた。しかし、目の前は一面真っ暗で何も見えない。どういうことだろうか、状況が呑み込めない。それに、体も動かない。傷を治している時とは違い、物理的に動けないようになっているようだ。


 僕は、思い当たる限り最新の記憶を思い出す。確か、僕と慶花、壱菜の三人でカレーを一緒に作って食べたはずだ。その後,,,どうしたか分からない。壱菜が帰った後、何か飲んだような気がする。とりあえず、慶花に話を聞こう。


 「,,,慶花? 今僕どうなってる?」


 「はい、両手両足をテープでぐるぐる巻きにされて、目隠しもされちゃってます」


 「そっか,,,よくわかんないけど、取ってくれる?」


 「嫌です。折角兄さんを拘束できたのに、なんで開放してあげなくちゃいけないんです?」


 間髪入れずに慶花が答えた。拘束できた,,,? その言いぐさはまるで、慶花が僕のことを拘束したようではないか。受け入れがたいその事実に、ただ僕は混乱していた。


 「どうして、そんなこと」


 「兄さん、私に嘘つきましたよね?」


 その言葉には重みがあり、姿が見えなくても、彼女が怒っていることが容易に想像できた。ここで、はったりの一つでも出せればよかったものの、僕は状況の異常さも相まって、何も言えずにいた。


 「兄さんは本当に分かりやすいですね,,,そういう所も大好きですが、ちょっと残念です。兄さんが私のこと騙してたなんて、信じたくなかったのに」


 「何言ってるんだよ,,,僕は慶花に嘘なんてついてなっ!」


 不意に、腹部に衝撃が走った。それは、痛みとなって脳内に駆け巡る、何も見えないはずなのに、目の前がチカチカと光っているように見えた。


 「っあああああ!!!」


 「嘘ついちゃダメって、言ったでしょ? 兄さん? 聞こえてる? 痛いよね,,,でも、兄さんが悪いんだよ? まるで反省をしないで、嘘を重ねようとするんだから」


 「はぁっ,,,はぁっ,,,うっ」


 「兄さんの血液、お腹から沢山出ててとっても美味しそう。あむっ,,,ん、やっぱり変なの混ざってる,,,本当に許せない、あの女」


 慶花は、僕の腹部にためらいなく、何かを刺しこんだ。濁流のように血液が抜けていく感覚が、五感の一つを失っているせいもあって、酷く痛烈に体を駆け巡る。もう、僕は慶花に嘘をつきとおせる自信を、微塵も無くしていた。


 「ふふっ,,,水揚げされたお魚みたいに、びくんびくんってしてる兄さん、ほんとに可愛い。ね? これで分かった? 今度嘘ついたら、またお仕置きだよ?」


 「う,,,あ」


 「大丈夫? 痛かった? 痛かったよね,,,ごめんね兄さん。私も、これ以上兄さんのこと傷つけたくないの」


 「な,,,んで、壱菜のこと,,,」


 そうだ、慶花はここ最近の件とは全く関係のない、ただの一般人だったはず。なのに、どうして僕が壱菜の血を飲んで、普通の人間ではなくなったことを知っているのか。そう尋ねると、慶花は僕のことを抱きしめてきた。


 「じゃあ、教えてあげるね,,,私のこと。兄さんが知らない、私のことを」


 慶花は、僕のことを強く抱きしめながら、耳元で衝撃の事実を話し始めた。この時は初めて、僕は自分が立ち向かおうとしていた人物の、異常性に気付いたのだった。


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 私は、絶望している。何に絶望しているのかと言えば、それは人生そのものだったような、それとも自分そのものだったような,,,もう何に絶望していたのかも忘れてしまった。


 絶望は死に至る病だと、誰かが言っていたような気がするが、私にとって絶望というのは、私を腐らせるものだった。人が一生で感じられる絶望には限りがある。けれども、私はその限りではなかった。


 私には、ある異常性がある。それは、誰かの経験が最初から備わっているというものだ。誰かというのは少し語弊があったかもしれない。その経験は、まぎれもなく私が経験したものだ。普通に生まれて、普通に学んで、生きて生きて、そして死んだいつかの私の記憶。


 生まれて、生きて、死んで,,,そのサイクルを、私は無限に回し続ける。そのたびに、私の中には死んだ私の経験や知識が蓄積されて、次の私に持ち越される。言うなれば、私は前世を受け継いでいた。そうして、知識や経験が蓄積されるほどに私は絶望していった。


 だって、そうだろう。もう私には、どんな物事も体験して、知ってしまっているのだから。痛みも、喜びも、苦しさも、達成感も,,,死の感覚すらも。だから、私はそのうち退屈した。勉強なんて知識の積み重ねだし、運動なんてものは何度も体験するうちに次第に動かし方が分かるものだ。


 以前の私は、色々なことをしたみたいだ。私は知識や経験としてしか知らないから、他人の記憶を覗いているような気分だけど、それは紛れもなく私なのだ。私が、人を殺す。私が、主導者として歴史を動かす。私が、ある国のトップに立つ。どんなことをしても、死んだらまたやり直し、なんてつまらないのか。


 そうやって、私の中に私が蓄積されるほどに、ある特異な能力が二つ宿った。そのうちの一つは、見た人物の魂が見えるものだった。常人では一度しか体験できない死に触れ続けた私には、魂の形が見えた。もちろん、これが魂だという証明はできない。私しか見えていないものだから、ただ私の気がふれているだけかもしれない。


 それでも、私はこれを魂と呼んだ。役に立つ立たないの話ではない。この特異性こそ私が私を継承し続ける意味だと、そう思った、思うしか正気を保てなかった。私には、自分の魂は見えない。といっても、直感的にどんな風になっているのか予想できた。きっと、面白みもない黒色になっていることだろう。


 理由は簡単だ。私には、魂が様々な色になって見える。大抵の人が原色の色だが、中にはその三つに当てはまらない人物も中にはいた。しかし、見つからない色があった。それが白と黒だ。すぐに考えれば分かることだが、何かに混じらない人など、いないのだ。


 誰も彼もが、誰かの受け売りや真似事をする。それは別に悪いことではないし、むしろ推奨されるべきものだ。こと魂の色を濁らせるという点を除けばの話だが。


 要するに、白であり続ける人もいないし、黒一辺倒の人もいないのだ。ここで、私の魂の色についてもう一度考えてみよう。私は先ほど、魂が色になって見えると言った。つまり、私にも色んな色がついたのだろう。一番多いのは原色だろうか、そこには珍しい色もあったかもしれない。


 では、色の三原色を全て混ぜこむと何色になるかご存じだろうか。そう、黒色になるのだ。


 十重二十重に塗り重ねられた私の魂は、未だ見たことのない、黒色に包まれているだろう。だから、そんな私と対等になれるのは同じ黒色のものか、真反対の白だけだ。私は、終わらない人生から目を逸らし、魂の色に注目し始めた。私にしかできない、私だけが見ることのできる領域,,,そこが真っ白な人を見てみたい。それだけが、私を絶望と退屈から救う、唯一の手段だった。


 とは言ったものの、目的の人物を見つけるのは至難を極めた。また私の心は、絶望に陥りかけた。そんなことをしているうちに、私は新しい私になった。名前を慶花というらしい。すぐに日本だと分かった。この国、は赤ん坊の何もできない時に殺されるという、魂の色探しのタイムロスにしかならないことは起こりにくいので、ありがたい。


 けれども、この時期が退屈だというのに変わりはない。両親も、私が期待する色をしていない。失望しつつも、これからしていく予定を考えようと視線を横に向けた。その時、私は兄さんという運命に出会った。


 目を焼かれるような、紛れもない白。私が待ち焦がれた、純白。高潔な魂を持つものが、すぐ近くにいたのだ。いや、焦ってはいけない。これが本当に、私が求め続けたものなのか、見極めなければならない。


 私は、兄さんのそばにできるだけ近寄って毎日毎日その輝きを見つめ続けた。彼の魂が私の追い求めるものだと確信したのは、それから長くはかからなかった。


 それは、兄さんが両親や近親者以外と関わり始める頃合い。普通、この頃になると両親やテレビなどの環境による影響を受けて、魂の色が確立する頃合いだ。兄さんはここまで来ても、その白さを保ち続けた。私はこれまでの経験を合算しても初めての、誰かを欲する欲求というものに目覚めた。


 兄さんが欲しい。その輝きを私だけに見せ続けてほしい。私だけが、兄さんの尊さを知っていればいい。私は私が考えているよりも、独占欲の強い傾向にあったみたいだ。


 兄さんのひたむきさ、求められたことに対して全力で取り組む誠実さ。なにより、他人の努力を認めることのできる度量が、彼の真骨頂だった。私は、兄さんと一緒に居たい一心で、彼の真似をし始めた。兄さんがどこかの教室に通えば、私も同じ場所に通ったし。兄さんがやりたがったことを、私もやりたいと言った。


 そうしていたら、どうだろう。周りの人間は、私の方ばかりを褒めたたえるではないか。いかにも上っ面しか見ていない人間の評価らしい。私には、数えきれない経験と知識が蓄積されている。それを技量や成果で比べたら、私の方が勝るに決まっている。仕方ないと言えば、仕方ないのかもしれないが、あまりにも度し難かった。


 私は、まずいと思った。こんなことで、兄さんの魂がくすんでしまったら、私は後悔してもしきれない。しかしながら、その心配は杞憂に終わった。兄さんは、私のことを褒めてくれた。魂が一切濁らない様子から、本心で言っているのだろう。


 「けいか、すごいね! 僕は銀しょうだったのに、けいかは一番いいやつとっちゃった!」


 そういって、私の頭を撫でる兄さんを見て、私の中の何かが弾けた。白色の魂を持つ彼に褒められるのは今まで感じたことのない、何にも代えがたい快感だったのだ。私の中の自制心は制御を失った。ただ、ひたすら兄さんに褒められたいという欲求のみで、私はその蓄積された数百年を存分にふるった。


 過ちに気付いたのは、小学校高学年に差し掛かった当たりだろうか。毎日兄さんの魂を見つめていた私は、彼の魂の色が少し変わっているように見えた。白色なのは変わりない。けれど、どこかその輝きが薄くなっているような気がした。それを確信したのは、両親と話している時だった。


 二人は、いつも通り私のことを自慢の娘だと言って、褒めちぎった。それに何も心動かされなかったが、兄さんはそうではなかったようだ。彼は、明らかに私に嫉妬していた。彼から見れば、私は年下で妹の、自分より経験の浅いはずなのだ。にもかかわらず、私は兄さんの上を行き続ける。評価者が無能なのだからしょうがないとはいえ、彼の心に曇りをもたらすには、十分だったようだ。


 私は焦った。だから、二人きりになった時、私は兄さんの気持ちなど考えもせず彼に慰めの言葉をかけてしまった。


 「兄さんはすごいです。私よりも、ずっとずっと」


 その言葉をかけた時の兄さんの顔を、私は絶対に忘れない。必死に顔に出さないように努めていたが、魂はどんどん輝きを失っていった。私は、私自らの手で兄さんの輝きを損なわせてしまった。けれど、私の中を席巻していた感情は後悔よりも、愉悦の方が強かった。


 私はどうかしているのだろう。長年追い続けたものを台無しにしてしまった時に感じたものが、ゾクゾクとした背徳感による快感なのだから。それからの私は、ただ欲望に身をゆだねて、兄さんの心を弄び続けた。


 兄さんが必死に努力して私に打ち勝とうとするのを、絶望的な差を見せつけて兄さんを負かした。そうやって負けた兄さんを、私が慰めてあげるのだ。すると、兄さんは可愛い顔をして、劣等感を積み上げてく。その頭を撫でてあげたり、逆に私のことを撫でさせたりすると、彼の魂はどんどん曇っていく。


 愛おしくてたまらなかった。どんどん卑屈になっていく兄さんを抱きしめて慰めると、彼は不甲斐なくて泣きだしそうになるのだ。その顔を見ると、体中に電気が走ったような感覚に襲われて、甘美な高揚感に包まれるのだ。


 あぁ,,,兄さん。兄さんの純粋な魂を、汚して穢して。その輝きを曇らせくすませて。そうして出来上がった、私に屈服した兄さんを愛して愛して,,,誰にも渡さないようにしていた。


 中学にあがると、私はそんな兄さんにすっかり依存していた。私の付属品や搾りかすとして扱われる兄さんは、周りから見たら決して優等だとは思われない。つまり、私が兄さんを独占し続けられることを意味していた。


 両親は、そのころになると兄さんに無関心になっていた。ついに、私以外彼の魅力や努力を認める存在はいなくなったのだ。念には念を入れて、中学では兄さんの周りをうろちょろして私の存在を周りにアピールすることに専念した。上辺だけしか見ない愚かなゴミは、兄さんを隅に追いやって私に傾倒していく。


 時には、兄さんを利用して私に近づこうとする人もいたので、ありがたく利用させてもらった。少し兄さんのことを話してやれば、ゴミ達は兄さんに妬み嫉みの感情を爆発させ、彼を攻撃し始める。後でしっかりと私の兄さんに手を出した報いは受けてもらったが、成果は上々だった。


 兄さんが疑心暗鬼に陥っている様子は、顔がにやけてしまうほど愛らしくて、しびれが止まなかった。その度に、兄さんは私が居ないとダメなのだということを、しっかりと刷り込んでいく。いずれは、兄さんも私と同じように、私無しでは生きられないようにしていくつもりだった。


 こうして、あの事件が起こったのだ。兄さんが、初めて私に嘘をついた。聞いていた高校は、家から十分に通える距離の学校だったのに、少し目を離した隙に、遠くの学校に切り替えていた。それを知ったのは、もう取り返しのつかない段階で、引かざるをえなかった。


 もう、私の中はぐちゃぐちゃで、耐えられたものでは無かった。せめて、兄さんが出ていくまでにできるだけ堪能しておこうと、毎日マーキングを行った。兄さんの私物を入れ替えて、兄さんコレクションも始めた。


 だが、これはこれでありかもしれないとも思ったのだ。どこまで兄さんが逃げても、私を消すことなど不可能だと刻み付けてあげれば、もっともっと兄さんの心は悲鳴をあげる。壊れて、私無しでは生活できないまでに再起不能にした兄さんを想像すると、ワクワクが止まらない。


 なのに,,,兄さんは違う女に逃げようとした。そんなことは許さない。許していいはずがなかった。


 ね? 兄さん、ちゃんと理解してくれましたか?


--------------------


 「分かりましたか? 兄さんは、私だけのものなんです」


 慶花の独白に、僕はただ唖然とするしかなかった。それ以上に、理解したくない。慶花が僕が苦しんでいるところを見て、喜んでいたなんて事実、受け入れたくなかった。


 「冗談なんだよね,,,? そう言ってよ,,,」


 「うふふっ、またくすんだ。あぁ,,,本当に兄さんは可愛いですね。私がわざと、兄さんのこと貶めるようなことしてたなんて、考えもしなかったのですね」


 「あ,,,うぁ,,,」


 もう僕に、慶花への反抗心は残っていなかった。立ち向かうどころか、逃げることすらできない僕は、慶花に尋ねられるまま、壱菜との関係やここ最近の出来事を正直にしゃべった。


 「はいっ! 嘘はついてないみたいですね。嬉しいですよ」


 「,,,いつから、気付いてたの?」


 「えーと,,,正直にいうと昨日、兄さんに会った日からです。だって、兄さんの魂がまた輝き始めて、おまけに何か不純物が混じってるんですもん。兄さんを輝かせるのも濁らせるのも、私だけの特権なんです」


 「昨日,,,?」


 「兄さん、睡眠薬仕込んで眠らせたんですけど、思いのほか効きすぎちゃったんです。だから、今は3日の夜ですよ」


 何も見えないせいで時間がいつなのかもわからない。僕はただひたすら、愛を囁き続ける慶花の言葉に耳を傾けることしか許されなかった。


 「もう,,,あの害虫。私の兄さんに余計なことしてくれましたよね、本当。まぁ、報いは受けさせましたし、これ以上関わらなかったら、許してあげましょうか」


 「害虫って,,,もしかして壱菜のことか! 壱菜に何したんだ、慶花!」


 「は? なんで兄さんが害虫の肩持つの?」


 僕は明らかな慶花の地雷を踏んだ。けど、これだけは確認しなければならない。彼女は、僕に救いを差し伸べてくれた優しい子なのだ。それが僕のせいで被害を被るなど、あってはならない。


 「へぇ,,,兄さん面白い物持ってるね? これって魔払い? どこでこんな骨董品手に入れたんだか,,,」


 慶花は、僕のポケットをまさぐると、入れたままだったお守りを取り出した。どうやら彼女はこのお守りが何か知っているらしい。彼女は、それを手に取ると、一度刺したお腹部分にお守りを刺しなおした。


 「っっっっ!!!?!!?!」


 指先だけでも、あれほど不快で痛かったのに、それを思い切り刺された。痛いとかではなく、ただ苦しい。ジュクジュクと、肉が溶けるような感覚と、神経を焼かれるような苦しみ。ただ無様に声をあげて泣くことしかできない。


 「これね、魔払いって名前なんだ。根っからの化物だと存在が消えるんだけど,,,兄さんやあの害虫みたいに、純正の化物じゃないと,,,ほら」


 同じ位置にもう一度刺した。さっきの絶叫で喉が潰れたのか、かすれた声しか出ない。ひたすらに、この世のものとは思えない苦しみに悶え続けた。


 「痛いだけで、終わっちゃうの。これで兄さんをどんなに刺しても、兄さんは死なない」


 「け、げいが,,も、うやめ」


 「えいっ」


 可愛らしい掛け声とは裏腹に、行われる行為は極めて残虐だった。僕は、その後も壱菜の痕跡を消すという名目で、気を失うまで拷問を受け続けた。

 

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