4月1日

 朝日を一杯に浴びて、目的の場所へ足を進める。僕は今、進学した学校に向かっている。今日は、教科書販売や体操服などの販売日だったからだ。あの後、ぶっ倒れた僕が目を覚ましたのはすっかり日が昇り始めていた時間だった。


 前とは違い、丸一日寝込むということはなかったが、それでも壱菜には迷惑をかけてしまった。あの後、僕の血で悲惨なことになっていた部屋を一人で片付けたようだし、僕の看病もまたしてくれた。どうしてか、顔を合わせてくれなかったが、今日のことを思い出してすぐに出たので訳は分からなかった。


 とにかく、僕は両手に販売物を持ちながら、帰宅した。悠々自適と、これからの学校生活に思いを馳せていた。自宅に着くと、誰かが僕の部屋の玄関前に立っていた。僕は、それが誰なのかすぐに分かった。何年も、その姿に目をくらませられてきた。


 「兄さん、久しぶりですね」


 「,,,慶花」


 数日ぶりだというのに、久しぶりという言葉を使うのは、少し違和感を感じるかもしれない。しかし、僕たちにとってこの数日間というのは、未知の記録だった。それを承知で引っ越しをしたのだから、こういった事態になるのは想定ができた。とはいえ、こうも機嫌が悪い慶花を前にすると、何だかその決断が、間違いだったように思えてしまう。


 「い、いやーこんな早くに様子見に来るなんて、悪いね。スマホの件は、こっちでなんとかするからさ。何も心配することはないって」

 

 「いえ、そういう話ではないです。私は、少し怒ってるんですよ?」


 にこりと笑いながら、教科書を僕から取っていった。笑顔を見せながら、無言でさっさと開けろと言わんばかりに扉の前に立つ慶花。相変わらず綺麗なその顔からは、今まで感じたことのない圧が放たれていた。


 「うっす,,,今開けます」


 「今日はここに泊まっていきます。ですからたっぷりと、兄さんの言い訳、聞かせてくださいね?」


 「え,,,許可は,,,」


 「もちろん取ってきました、二人とも兄さんのこと心配だから様子を見てきてほしいと。それとも、何か私が居たら困ることでもあるのですか?」


 「いえ、滅相もない」


 「はい、結構です」


 鍵を開けて中に入る。慶花がいたら困ることは、正直言って沢山ある。壱菜のこともそうだし、僕自身が特異体質になってしまったことや先日の化物など、考えたらきりがない。それよりも、一番まずいのは、昨日の化物のように、またこちらを襲ってくるかもしれないということだ。


 僕は壱菜は、既に化物と言って差し支えない状態だが、慶花はまともな人間だ。そんな慶花に、血なまぐさい化物との争いを知らせる必要は無い。きょろきょろと、せわしなく僕の部屋を見回す慶花の様子は、何処か僕の隠し事を探しているようにも思えた。


 「,,,兄さん。この部屋に、私以外の人が引っ越した日から誰か来ましたか?」


 「いや、こっちには知り合いなんてほぼいないからさ、誰も来てないよ」


 「ほぼ? 一切いない訳ではないんですか?」


 「あー,,,隣の人とは少し話したよ、うん。知り合いってよりは、顔見知りって感じだけどね」


 「へぇ,,,そうなんですか」


 慶花は、少し意味深な相槌を打つと僕を床に座らせて、足の間にくっついてきた。以前から、僕のことを椅子代わりにすることが好きだった。こういう時は、何も言われずとも頭を撫でると機嫌がよくなるのを僕は覚えていた。頭を撫でていると、体重がこちらに傾いてきて、リラックスモードに入ったようだ。


 「最近だと兄さんが恥ずかしがって、してくれませんでしたね。こうして、久しぶりに昔みたいに甘えるのも良いものです」


 今の慶花には、余計なことを言うとぼろを突かれそうで怖い。だから、今日は慶花の要望をできうる限り受け入れて満足させる。そして、化物が来ないうちに帰らせよう。方針が決まった僕は、平静を装って慶花を甘やかし続けた。


 「ねぇ,,,どうしてスマホ壊したの?」


 「昨日話した通りだよ。電源つかなくなっちゃってさ」


 「そうなんだ,,,後で見せて」


 「え,,,えっと」


 「ふふっ、別にいいよ。兄さんが私に嘘つくなんて、あり得ないもんね」


 いつもの敬語が崩れて、素に近い慶花が出始めた。この時の慶花は、僕の反応を見て楽しんだり、普段では要求しない際どいことを頼んだりする。けれど、いつもの完璧な慶花よりも年相応の女の子という感じがして、僕はこちらの方が好きだった。


 「私ね? 塾で沢山褒められたの、ここ十年に一度の天才だって。周りの人も、父さんも母さんも凄いって言ってた。けどね? 私は兄さんに褒めて欲しかったの。なのに、兄さんは軽いメッセージだけで,,,ちょっと悲しかったよ」


 「ごめん,,,遅くなったけど、おめでとう。また一番なんて、凄いな」


 「えへへ,,,ほらほら、もっとぎゅっとして?」


 後ろから慶花を軽く抱きしめる。慶花も、普段は自他ともに厳しいが、こういう面もあるのだ。やはり、僕は慶花から逃げるべきではなかった。こうして、僕のことを心配してわざわざ来てくれる妹を妬ましく思うなど、あってはならないことだったのだ。


 「兄さんの匂い,,,久しぶり。やっぱりね、兄さんが家にいないと、寂しいよ」


 顔をこちら側に向けて、僕の胸辺りに倒れこむ慶花。背中に腕を回して、力強く抱き着いてくる慶花に、僕は何も言えないでいた。ただ、黙って頭を撫で続けることしかできなかった。


 「ちょっとね、兄さんが変わった気がしたの。それが、良いことなのか悪いことなのか分からないけど、兄さんが遠くに行ってしまうみたいで少し怖いの」


 「慶花,,,」


 「でも、いいんだよ。兄さんが行きたい道に、進めばいいんだよ。私は、兄さんがどんな風になっても、ずっと味方であり続けるから」


 微笑む慶花の優しさが、僕の心を蝕んでいく。僕は、こんなに僕のことを気にかけてくれる慶花のことを、疎んでいた。今もなお、嘘をついて誤魔化している。そんな僕に、また嫌気がさした。彼女にきちんと向き合うことの大切さを、今更ながら痛感した。


 僕は、慶花にこれまでの一切を打ち明けたくなった。それは、壱菜の秘密を話すという、壱菜への裏切り行為だというのにだ。とはいえ、全てを明かすことなどできない。その上で、慶花に何も言わないというのもまた、慶花への裏切りではないのかと、そうも思うのだ。


 慶花への誠実さを取るのか、壱菜への信頼を取るのか。どちらを選ぶこともできないでいる僕は、二人に対する申し訳なさと、面目の無さでどうにかなってしまいそうだった。そんな時、来客を告げるチャイムが鳴った。


 「あっ! 僕が出るから、慶花はゆっくりしてて!」


 「,,,どうしてそんなに慌ててるの?」


 急いでインターホンのモニター前に行く。こういう時の勘は当たってしまうもので、来客は壱菜だった。慶花の泊りは、全くの予想外だったせいで、壱菜には慶花が来ているという事実を知らせていない。それに、慶花は独占欲が強いというかなんというか、僕が他の女子と会話をしていると、露骨に不機嫌になることを知っている。


 壱菜は、平常で距離が近いので慶花に誤解を生んでしまうかもしれない。そうなれば、当初考えていた作戦が台無しになるどころか、壱菜との秘密もばれてしまうやもしれない。それだけは、慶花のためにも壱菜のためにも、避けなければいけない。急いでドアを開ける。


 「びっくりした。そんなに慌てて、どうしたの?」


 「全然驚いているようには見えないけどね。って、そんなことより、ちょっと話合わせて!」


 「兄さん? そんなに急いで、どうしたんですか?」


 相変わらず表情が全く変わらない壱菜に、小声でお願いを伝える。壱菜も、僕の後ろにいる慶花を見て、何となく状況を察してくれたようだ。


 「今日さ、高校の事前説明会みたいなのがあって、お隣さんが同じ学校だったんだよ。それで、今さっき同じクラスの人たちから連絡があって、それの取り次ぎをしてくれたんだ」


 「う、うん」


 少し説明口調になってしまったが、咄嗟に出た嘘にしては、割と筋の通ったものだと思うが,,,どうだろう。慶花は、僕の話というより、壱菜の方にどうしてか注目していた。


 「そうですか、ご親切にありがとうございます」


 「は、はい,,,じゃあ慶斗、そういうことで、よろしく。また今度」


 「わざわざありがとう、また今度」


 「あぁ、そうだ兄さん、後でお買い物に行きましょうか。私、久しぶりに兄さんの手料理が食べたいです」


 「え? 別に良いけど急にどうして,,,」


 ドアを閉めようとすると、慶花がいきなりそんなことを言い始めた。普段は、他人がいる中で僕にそんなことを言ってきたことが無かったので、少し驚いた。というより、どうして冷蔵庫に食品が入ってない前提で話を進めるんだ。まぁ、冷蔵庫の中は空だけど。


 「仲,,,いいんだね」


 「いえ、普通ですよ、悪い気はしませんけどね。そうだ、折角でしたら、お昼食べていきませんか? どうやら兄さんが御迷惑をかけたようですし、そのお礼に」


 「えっと,,,」


 少し困ったように、ちらちらとこちらをみる壱菜。といっても、判断に困っているという点では、僕も同じだった。慶花は、どちらかというと深いところまで人を寄せ付けないタイプだ。だから、学校の打ち上げや遊びに行くのも、必要以上にはしなかった。そんな慶花が、こんなに積極的に壱菜に話しかけるというのは、珍しいことだった。


 「慶花がそんなに言うなら、僕はいいけど。壱菜は?」


 「じゃ、じゃあ,,,お言葉に甘えて,,,」


 「嬉しいです。では兄さん、カレーの材料で良いので、スーパーに行ってきて下さい」


 「りょーかい、じゃあ少し出てくる」


 「はい、行ってらっしゃい」


 僕は、稀なこともあるものだと、大してよく考えずに買い物に出かけた。後ろでは、慶花と壱菜が何かを話していて、僕は二人が仲良くなれればいいなと、呑気なことを考えていた。


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 「少し待ってください。壱奈さん,,,でよろしいかったですか?」


 「あ、はい。一上壱菜です」


 私は、慶斗の後ろ姿を見送ると彼の妹である、慶花さんと二人きりになりました。この人はなんというか、彼と本当に兄妹なのかと疑ってしまうほどに、綺麗でした。整った顔に綺麗な銀色の髪、外国のハーフなのでしょうか、良くも悪くも普通の慶斗とは、遺伝子レベルで違うくらいです。


 「へぇ,,,兄さんと、随分と仲が良いんですね? もう、名前で呼び合ってるなんて」


 「名前で、呼んでくれと、頼まれたので」


 本当は名前で呼ぶよう強制しましたけれど、話を合わせてほしいと慶斗からのお願いなのです。今の私は、彼と学友,,,嘘でもちょっと嬉しいです。


 「すみません、別に何かしようって訳じゃないんです。少し、兄さんについて少し聞きたいことがあったので」


 「はぁ,,,あんまり、彼について、良く知りませんよ?」


 これもまた嘘でした。慶斗については、生年月日から血液型諸々、聞き出せるだけ調べていました。だって、大切な人のことを知りたいと思うのは、普通のことでしょう?


 「大丈夫です。兄さんについて聞きたいのは、最近の行動です。どうやら、私に何か隠してるみたいなんです,,,酷いですよね」


 「へ、へー,,,そうなんですか,,,」


 「ですから、お隣の壱菜さんであれば、何か知っているのではないかと思いまして,,,何か心当たりとかありませんか?」


 隠し事,,,どう考えてもここ最近の私と慶斗との関係ですね。それに付随する化物たちの話を、慶斗は話していないようです。彼との秘密,,,慶花さんも知らない、私たちだけの秘密。それは、私にとってあまりにも魅力的なもので、誰にも渡したくありませんでした。


 私はてっきり、少しくらいここ数日の話しているかもと思っていました。けれど、全く状況の開示をしていないみたいです。だったら、慶花さんには何も知らせず、このまま私たちだけの秘密にしてしまっても、構わないですよね。


 「いえ、彼と知り合ったのも、最近なので,,,変わった様子とかは、分からなかったです」


 「いえ、こちらこそ急に変な質問をしてすいません。私、兄さんについて知らないことがあると、とても不安になるんです」

 

 これは俗に言う、ブラコンという奴なのでしょうか。こういう時、固まった表情筋は役に立ちます。私は彼女の、慶斗に対する並々ならぬ思いに引っかかりを感じましたが、それをおくびにも出しませんでした。


 「そうだ、壱菜さんにも聞きたいことが一つありました」


 「,,,何でしょう?」


 「私の髪色、何色に見えます?」


 私は首を傾げました。だって、慶花さんの髪は、誰がどう見たって綺麗な銀色でした。肩くらいの長さのボブ? というものだったでしょうか。私は髪形に疎いのでよくわかりませんが、大変よく似合っていると思います。


 「綺麗な銀色に、見えますよ」


 「そうですか、いきなり変な質問をして申し訳ありません。気にしないでください」


 そういって、慶花さんは微笑を浮かべたのです。その笑みの本当の理由が分かるのは、そう遠くないことでした。

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