3月31日③

 目の前が真っ暗で何も見えない。けれど、恐怖は全くなかった。僕にとってそれは無害であると心根の奥に刻みこまれ、すっかりと心地の良いものになっていたからだ。


 見て見ぬふりをしてごまかしてきた劣等感、そんなものを受け止めてくれる存在など、いるはずがないと思っていた。慶花はもちろん、両親にも話すことなど出来ない内容を、赤の他人に話せるわけないと思っていた。けれど、そうではなかったのだ。


 他人だからこそ、家族に向けるべきではないものを向けることが出来る、受け止めてもらえる。まるで、幼児をあやすように背中をさすってくれる壱菜の温もりが、とても安心した。


 「,,,,,,ごめん、幻滅したよね,,,」


 こんな質問をする自分に嫌気がさす。壱菜なら、僕に対して慰めの言葉が出てくることを分かっている。だから、わざとらしい同情を誘うようなことを言って慰めてもらおうとしているのだ。そんな自分の魂胆が、また僕の心を暗くしていった。


 「大丈夫だよ,,,たとえ慶斗が、どんなに自分のこと、嫌いでも、私は全部全部、それ含めて認めるから。だから、今は何も、考えなくていいよ?」


 「ありがとう,,,」


 熱に浮かされたように、頭が働かない。羞恥心だとか情けなさだとかが、浮かんではすぐに消えて行ってしまう。だが、それもまた心地いい。このまま何も考えずに、ただ曖昧に全てを流してしまえば、きっと楽になるだろう。


 もしかしたら、この関係は良くないのかもしれない。お互いに依存しあって、慰め合わなければ心の整理ができないなど、良好な関係とは言えない。とはいえ、それは世間一般の話だ。僕たち、というには僕はまだ化物になり切れていないけど、僕たちは化物だ。そういう、化物なりの在り方があっても、いいのではないだろうか。


 しかし、まだ僕には捨てきれていないものがあった。それは慶花の存在だ。彼女の存在が、僕を化物と人間の間で繋ぎとめている。きっと、僕が望めば壱菜は僕を受け入れてくれると思う。妹への羨望と嫉妬を捨てて、彼女の兼愛に身をゆだねれば、きっと楽だ。にもかかわらず、未だに人間に未練を残しているのは、それでは慶花から逃げ続けるということだからだ。


 慶花は僕の憧れで、自慢で、大好きな妹だ。そして、それと同時に羨望の対象であり、僕にとっての絶望そのものだった。ゆえに、僕は彼女との実力や才能、努力の差を見せつけられた日から、ずっと逃げたままだ。この引っ越しも、さっきの電話すらも僕は、慶花から逃げた。


 ならばこそ、僕が一番にすべきことは、壱菜に依存することではなく、慶花とちゃんと向き合って、立ち向かうことではないのか。


 「僕は、まだ慶花と面と向かって、思いを伝えてない。ずっと慶花から逃げ続けたままだ」


 言葉にしてみれば、それだけ。けれど、たったそれだけのことを、僕は未だに行っていなかった。顔をあげようとすると、まるで逃がさないようにするように、壱菜は僕の頭をホールドした。


 「もういいんだよ、そんなこと、しなくても,,,逃げることは、本当に悪いことなの?」


 視界が壱菜で満たされて、彼女がどんな表情をしているのか分からない。けれど、きっと悲しそうな顔をしているのだろう。僕がしたことなど、たかが少し体を張って、彼女に肯定の言葉を投げかけただけ。それなのに、彼女は必死に寄り添って、支えようとしてくれた。


 けれど、まだ壱菜に甘えてはいけない。僕は僕だけの力で、慶花という存在に立ち向かわなければいけない。共依存の関係ではない、もっと自立した関係にならなければならない。そのためには、慶花ともう一度話す必要がある。

 

 「本当にありがとう、壱菜。でも、大丈夫だよ。僕はもう、慶花から逃げたりしない」


 逃げるのはこれが最後。それを告げる相手は、きっと壱菜ではなく慶花なのだろうけど、ここで宣言することが何より僕にとって大事な意味を持っていた。


 壱菜の顔を直視したくなかったが、しっかりと見据える。僕はまだ、彼女の好意に応えるには、覚悟が足りなさすぎる。化物になりながらも人間でいることを捨てきれない僕に、壱菜の愛に報いることはできない。


 「僕はしっかりと壱菜に報いるためにも、慶花と話してくるよ。今まで思ってたことも、これからは慶花を超えてやるってことも。それが終わったら、必ず君に応えて見せる」


 「,,,,,,分かった。本当は、今すぐにでも、貴方が欲しいけど、我慢する。けれど、これだけは約束、して」


 無表情な壱菜からは、感情を読み取ることが非常に難しい。それでも、彼女も僕と同じく覚悟を決めたことだけは分かった。そして耳元で囁かれた言葉には、彼女からの心からの本音が乗っていた。


 「どんな私を見ても、逃げないで。私、どうにかなっちゃいそうなの。慶斗が私以外の誰かに、親し気にしてると、殺人衝動で、一杯になっちゃう。だから,,,私からも、逃げちゃ、駄目だよ?」


 「分かった、約束する」


 壱菜からは、あの晩の化物よりも濃密な、明確な恐怖というものがにじみ出ていた。それは、きっと単純な殺意や本能よりも、深くて濃い何かだ。そうして、彼女は僕の顔をしっかりと見つめると、にっこりと笑った。不思議と、可愛らしさよりも妖艶さを含んだ、彼女らしからぬ雰囲気だった。


 思わず、壱菜に見とれてしまっていると、些か乱暴なノックが響いた。かなりの力で扉を叩いていて、ドアが衝撃で揺れている。しかし、不自然なのは何の呼びかけも無い事だ。インターホンが壊れているからと言って、この部屋は1Kなのだ、大声を出せば普通に聞こえる。にもかかわらず、ただ無言で扉を叩き続けるのは、あまりにも非常識だった。


 「,,,壱菜、化物が向こうからやってきたことって、ある?」


 「無い、けど扉の前にいるのは、多分人間じゃない」


 台所から素早く包丁と果物ナイフを取り出すと、壱菜は玄関の前に立った。僕もポケットに入ったままだった、例のお守りをを取り出して構えた。刃を出すと、壱菜が何かを感じ取ったようにこちらを向いた。僕が感じた嫌な気配を、彼女も感じたのだろう。


 「それ、何? すっごく嫌な感じがする」


 「さっき変な人から貰った。多分、人間じゃないものに対して効くみたい」


 少し怪訝そうな顔をしたが、それどころではないと判断したのか、壱菜はそれ以上何も聞いてこなかった。彼女は軽く返事をすると、後ろ手に包丁を隠し持ちながら、ドアを開けた。鍵をかけていなかったので、扉の前にいた者は入ろうと思えば入れたのだ。しかし、何者かはそうはせずに、ドアを叩き続けた。


 後から考えてみれば、その行為は鍵が開いているとは思っていなかったという、極めて人間的なものではなかったのだろう。何者かにすれば、鍵が開いていようとなかろうと、こうして誘い出した人物を確実に処理するための作戦だったのだ。


 それは一瞬のことだった。壱菜が少しドアを開けると、その隙間から鈍い銀色の何かが飛び出し、壱菜の胸を貫いた。あまりにも刹那のことだったので、すぐには何か分からなかったが、それは刀身だった。壱菜を突き刺したまま、何者かが部屋に入ってきた。


 「っ! ごふっ,,,ご挨拶が過ぎる,,,」


 「,,,どうして死なない?」


 現れた何者かは、どこにでもいそうな普通の大学生くらいの男だった。しかし、その手にはおおよそ現代では見かけることのない凶器を持っていた。銀色の何かは、西洋剣だった。ゲームやイラストの中でしか見たことのないそれは、剣先から鮮血を溢れ出させていた。


 僕は考えるよりも先に、体が動いていた。何故こいつは普通にしゃべっているのだとか、そんなものをどこから持ってきたのだとかは、不必要なものとして自然に切り捨てていた。とにかく、この常識のない化物を殺すことだけが全てだった。


 西洋剣を持った男の左手を切り落とそうと、お守りを構える。手にしたそれには、切る機能など備わっていないというのに、切れるという本能的な確信があった。実際、それは男の左腕の関節ごと容易く切り飛ばして見せた。


 「,,,不足だ、不足不足、全くもって不足だ」


 男は、その生気を感じない顔を毛ほども変えず、一滴も血の出ない自らの左腕を見た。やはり、このお守りは化物に対してのみ効果を発揮する代物らしい。男を警戒したまま、横目で壱菜を見る。苦しそうにしながらも、胸に刺さった剣を抜いて、臨戦態勢に入っていた。


 「壱菜、大丈夫か?」


 「ん,,,死ぬほど痛いだけ」


 「それで、どうする?」


 「殺す」


 一言、明確な殺意を見せながら、不足不足と言い続ける男に、壱菜は止めを刺しに行った。だが、男も残った片腕だけで、壱菜の猛攻をいなし続けている。すると、男は壱菜から大きく距離を取って、僕の方向に向かってきた。しかし、想像したような攻撃は起こらず、僕の横をすり抜けていった。


 男は、僕の後ろに落ちていた血に濡れた剣を手に取ると、こちらを向いて一言こういった。


 「お前は駄目だ」


 「はぁ? お前、何言って」


 「今度は頭を潰す」


 「っ、待て!」


 左腕を落とされてもなお、男は壱菜を抹殺せんと、人間離れした動きを見せる。壱菜もなんとか対応しているが、徐々にダメージが蓄積している。そもそも、包丁と西洋剣ではレンジが違いすぎる。いくら壱菜が男と同等、それ以上の運動能力を発揮しようとも、この差は大きすぎた。


 しかし、不思議なのは、男の戦い方だ。壱菜には問答無用で剣を向けるのに対し、僕に対しては全くと言っていいほど無関心だ。無関心、というよりは努めて無視を決め込んでいると言った方が正しいかもしれない。客観的に見て、僕が男の脅威になりえるというのは明らかで、それと同時に壱菜よりも動きが鈍いというのも確かなのにだ。


 その証拠に、僕は壱菜と男との攻防にほとんど介入できていない。隙を見て男に近づくが、狭い室内で動きづらいこともあって、壱菜の邪魔になってしまう。男は、以前の化物とは違いその戦い方に理性を感じさせた。


 「不足だ不足、こんな化物相手なら、もう少しまともなものを用意して欲しいものだ」


 「化物は、お互い様。片腕でそんな鉄の塊、ブンブン振り回さないで、敷金が戻ってこなくなる」


 「そういう問題じゃ、ないでしょ!」


 お守りを突き立てるが、ひらりと躱されてしまった。二対一という状況で、男は片腕を無くしている。その状況でも僕たちは、男に対して決定打を持てないでいた。壱菜は男の間合いに踏み込めずにいる。そして、僕もまた隙をつこうと努力するが、そのことごとくを回避されてしまっていた。


 僕は、実験も兼ねて火花を散らす二人の間に、捨て身で飛び込んだ。突きを主体にした、攻守バランスのよい攻めをする男。その猛攻を搔い潜りながら、肉を切らせて射程を詰めようとする壱菜。そんな中、無策で飛び出した僕を、相変わらず男は見逃した。


 先ほどの僕は、防御などを一切していない、無防備な状態だったというのに男はそれを無視した。男の「お前は駄目だ」という言葉の意味が、意図は分からなくても理解することはできた。


 「壱菜、頼みがある」


 「はぁっ,,,はぁっ,,,な、に?」


 「今からあいつの隙を作るから、僕がどうなっても構わず壱菜はあれを仕留めるんだ」


 「,,,分かった、けど無茶しないで」


 今のところ、時間も相まって大した騒ぎにはなっていない。こんなことを外で白昼堂々していたら、一発で通報待ったなしだ。いくら室内で戦闘しているとはいえ、こうもドタバタとしていれば、近隣の住民が不審がってしまう。


 この狭い室内では、あの男の西洋剣に軍配が上がる。それを埋めるためには、何故か狙われない僕が先陣を切って突撃しなくてはならないだろう。僕は、男に向かって駆け出した。ほんの数メートル距離を詰めるだけの、わずかな時間。男は、僕をよけることが不可能と判断したらしい。


 「あれの不足のせいだ、腕の一本ぐらいはいいだろう」


 「っ!」


 男の剣先が、僕の右肩を刺突する。以前の僕ならば、この速さについていくことが出来なかっただろう。だが、今や壱菜から受けた血のおかげというものか、男の動きがとらえることができた。それにしても、やはりというかなんというか、男は僕たちが化物であるということを知らなかったらしい。


 僕はてっきり、壱菜が何人も化物を殺して回るものだから、それに危険を感じた化物の一人が壱菜を殺しに来たのだと思っていた。だから、躊躇なく壱菜に刃を突き立てることができたのだと。けれども、実際は男は壱菜が化物だと知らなかった。それと同時に、何故か僕を殺さない理由も謎だった。


 だが、そんなことはどうでもいい。どうしてだとか、なんでだとかよりも重要なのは、男が壱菜を殺すつもりだったという点だけだ。僕はそれを、決して許さない。


 体制を崩せば、男の突きをよけることもできた。しかし、体制を崩せば男は壱菜を殺しに行くだろう。男は明らかに以前の化物とは違い、油断や隙を見せることがほとんどなかった。僕たちが男に与えられたダメージは、不意打ちの一撃だけなのがそれを物語っている。


 なので、もう一度不意を突かせてもらうことにした。


 「っ! なんだと!」


 「捕まえた!」


 僕は、右手に持ったお守りを左手に投げ渡して、男の突き刺しを甘んじて受けた。男は、一瞬刺してすぐさま抜き出そうとしていた。そのままそれを許してしまえば、今度は左腕を狙われておしまいだ。だから、僕は刺さった刃を掴んで、体ごと押し込んだ。滅茶苦茶痛いが、剣は容易に抜けなくなってしまった。いや、抜けないというよりは、抜かせないと言う方が正しいかもしれない。


 「貴様っ! 自分が何をしているのか分かっているのか! そんなことをすれば、二度と動かなくなるぞ!」


 「お生憎様、その程度だったら治るよ。僕もお前と同じようなものだから」


 「何を言っ」


 困惑の声を出した男が、何かを言い終わる前にお守りの射程距離に入る。もちろん、剣は刺さったままなので刀身がどんどん赤黒く染まっていくが、気にせず進み続ける。そして、左手に持ったお守りを、男の心臓に刺しこんだ。


 「壱菜!」


 「ん,,,」


 完全に動けなくなった男に、壱菜が詰め寄る。壱菜の持つ包丁は、僕のお守りとは違いただの既製品だ。ところが、壱菜の一刀は男の首を両断して見せた。男の体からは、最初から何もなかったように、血の一滴すら出なかった。


 「,,,,,,あぁ、不足不足、どこまでも不足、だ」


 そう言って、男は塵になっていった。壱菜の部屋には、僕たちの血痕以外何も男がいたというものが一切消え去ってしまった。それは、僕に突き刺さっていた西洋剣も同じだった。つまり、どういうことかというと、僕の傷を塞ぎとめていたストッパーがなくなったおかげで、僕の傷口は大変なことになってしまった。


 「ぐっっ! いっっった!!」


 「もう! 無茶しないでって、言ったのに!」


 右肩から、まるで噴水のように血が飛び散る。彼女の部屋を汚してしまう申し訳なさもあるが、もうどうしようもない。それより、一気に血が流れ出たせいか、目の前がぼやけてきた。前とは違い、死が近づいてくるような感覚は無いが、意識を保っているのも無理そうだ。


 「い、ちな,,,部屋汚して、ごめん」


 「悪いと思うなら、その怪我を早く直して、片付けを手伝って」


 霞む視界で、壱菜のジトっとした視線を感じた。この程度の怪我で卒倒するようでは、まだまだ僕も化物とは呼べない。僕は、壱菜の温もりを感じながら、意識を落としていった。


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 彼らが謎の男たちと戦っている間、男が持ってきた持ち物の中の、スマホが振動していた。その着信をかけた少女は、命令を下してからかなり時間が経っているというのに、男からの連絡がこないことに、憤りを感じていた。


 「少しは知能があるからと、手をかけたのに。女一人になにを手間取っているのですか,,,」


 持っているスマホは、少女が兄と買いに行ったものとは全く違う、青色のものだった。少女は、自分と男との接点を毛ほども感じさせないよう、徹底していた。


 「,,,とにかく、何か非常事態が起こったということでしょうか。あれには兄さんを傷つけないよう、きつく言っておきましたけど、何かあったのかもしれません」


 不意に、少女は最悪の未来を想像した。それは、大好きな兄が自分を置いていってしまう未来。彼女にとって、それは許すことのできない未来だった。

 

 「仕方、ないですよね。ええ、仕方ないです」


 少女は、その妄想を振り払うように、楽しいことを考え始めた。すなわち、それは兄に会いに行くということだった。今朝のことを口実に、会いに行こう。そして、兄に寄り付いた害虫を、駆除してあげよう。


 「ふふっ,,,兄さん、大好きですよ」


 少女は、最愛の人物に向けて静かに愛を募らせた。

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