母親になった瞬間

 子供を身ごもったと分かった時、私には絶望しかなかった。



 あの男は悪びれもせずに飄々ひょうひょうとして、私のお腹の子を自分の子だと認めた。

 周りの驚愕も何もかも、あの男は気にしていないようだった。



 ―――死んでやる。



 もう耐えられなかった。

 これ以上心も体も踏みにじられるくらいなら、この命だって惜しくはない。



 何度も何度も死のうとした。

 なのにあの男は、私が私に終止符を打つことすら許してくれなかった。



 そんなこと微塵も思っていないくせに、自分の妻だからいたわってやれと周りに命令した。



 それで私が死のうと暴れると、妊娠のせいで精神が不安定になっているからと、私を何もない空っぽの部屋に閉じ込めた。



 あの男には私を死なせる気がないのか、私が心配だからとうそぶいて、四六時中監視を置いた。



 私には分かっていた。



 あの男は口だけで私を心配するようなことを言いながら、その目は死ぬこともできずに苦しむ私を見てたのしんでいるのだと。



 悔しかった。

 憎かった。

 やるせなかった。



 そんな絶望と憎悪に身を焼かれて、また自分の首に手を伸ばした。

 こんなことでは死ねないと知っているのに、手に力を込めて首を絞める。



 気道が手の力で細くなる。

 呼吸ができなくなる。



 死を望む気持ちとは裏腹に、生きようとする体は酸素を求めて喘いだ。

 酸欠から、耳鳴りが響く。



 すると。





 ―――トンッ





 息苦しさの中に、ふとそんな小さな衝撃が走った。

 その衝撃は、お腹の中から。



「………? あなたなの?」



 首から手を外して、膨らんだお腹をなでる。



 ―――トンッ



 私の問いに答えるように、もう一度お腹を蹴られた。



 その瞬間、私の中に猛烈な勢いでもう一つの命の存在が広がった。



 今まで死ぬことで頭がいっぱいで、子供のことなんか考えてもいなかった。

 それなのに今の小さな衝撃だけで、私はもう自分が母親であることを悟った。



「あなたは、生まれたいの?」



 小さく問いかける。



 ―――トンッ



 またお腹を蹴られる。



「ここで生まれたとしても、幸せには生きられないわよ。それでも、あなたはやっぱり生まれたい?」



 ―――トンッ



 お腹の子は〝それでも〟と、お腹を蹴った。

 私の覚悟は、たったそれだけで決まってしまった。





「じゃあ、私にできることを精一杯やらなくちゃね。」




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る