第16話 女心はわからない

 朝練が終わって、制服に着替えると、いよいよ自分の教室へと向かう。

 僕と莉愛は同じクラスだ。

 つまり、莉愛の浮気現場を目撃して以来、はじめて顔を合わせることになる。


「教室に行きたくない……」


 思わず、弱音が漏れる。

 なんせ、莉愛とのことだけじゃなく、怜奈とのこともある。

 ついさっき、サッカー部のチームメイト達から受けた妬みの声が、今度はクラスメイト達から浴びせられることになる。


 怜奈との関係性について冷やかされ、あるいは妬まれている僕の姿を、果たして莉愛はどんな目で見てくるんだろう。


 そういえば、僕が莉愛に浮気されたことを知っている人は、どれぐらいいるのか。

 今朝の部活中に、僕が莉愛に浮気されたことについて聞いてくる人はいなかった。


 僕に気を遣っているのかと思ったけど、もしかして知られていないのか。

 だとしたら、僕が怜奈をお持ち帰りしたという話が、当たり前のように広まっているのは変だけど。


 僕と莉愛が浮気以外の理由で別れて、そのあと怜奈と関係を持ったことになっているのか。それとも、僕が莉愛を裏切って、怜奈をお持ち帰りしたという話になっているかもしれない。


 噂なんて所詮、人によって受け取り方が違って、反応も違う。

 まあ、莉愛が僕と怜奈の噂を聞いたときは、莉愛が僕のことをどう思っていようが、心中穏やかじゃなかっただろうけど。


 莉愛は、怜奈と僕の関係を先に噂で知ったんだろうか。

 それとも、怜奈が直接、莉愛に僕達の関係性を話したんだろうか。

 些細な違いだけど、ちょっと気になる。


「教室に行きたくないって……新くん、誰かに虐められてるの?」


 その声に振り返ると、妙齢の女教師が立っていた。

 彼女は、葉月涼子先生。僕の幼なじみで、実の姉みたいな人だ。

 ウェーブのかかった赤茶色の髪を、豊満な胸まで伸ばしている。


「そんなわけないですよ」

「ほんと? でも、昨日……新くんのことを絶対に許さないって言ってる男の子達がー何人かいたから……」

「あはは……」


 心配そうにする涼子先生に、僕は苦笑いを返す。

 涼子先生の様子を見る限り、僕と莉愛と怜奈の噂は、少なくとも教師陣には流れていないみたいだ。


 教師陣でも、生徒達の恋愛事情にやたら詳しい人はいる。

 涼子先生もその類だけど、さすがに浮気だとかお持ち帰りとか、そういう話を教師の前でする生徒はいなかったんだろう。


「私はてっきり、昨日学校を休んだ理由が、いじめとかなんじゃないかって心配して……」

「心配しすぎですって」


 何もどころじゃないことはあったけど、恋愛事情に教師に足を踏み入られるのは気分の良いものではない。

 それが、昔から知っている涼子先生相手となると尚更だ。


「昨日連絡しようと思ったんだけど、こういう話は、ちゃんと直接会って話した方がいいかと思って」

「だから大丈夫だって、何もなかったですから」

「そうよね。椎名莉愛さんと別れた後に、双葉怜奈さんとよからぬ関係になったなんて、そんなことはなかったのよね」

「……」


 僕は絶句した。

 涼子先生の目は笑っていなかった。

 全て知った上で話しかけてきたのか。

 健全とは言えない付き合いをしている僕に、教師が目くじらを立てるのは当然だ。


「大丈夫よ。先生方で、知っているのは私だけだから」


 教師陣の中で、一番知られたくない相手が涼子先生だったんだけどな。


「でもね、あまりハメを外しすぎちゃダメよ。高校生になった新くんたちはもう、子供の火遊びじゃ済まないんだから」

「……わかりました」


 これ以上、噂を広げたり、変な憶測を生むようなことは慎むか。


「そういえば、昨日は美織がお世話になりました」

「うううん、気にしなくていいのよ。それより、美織ちゃんのご機嫌はちゃんと取ってあげたの?」

「ご機嫌……? ああ、美織は昨日、僕をゲームでボコったので、多分機嫌がいいと思いますよ」

「そういうことじゃないんだけどなあ……」


 涼子先生は、何故か呆れたように苦笑いをした。



⭐︎



 教室に入ったら、真っ先に莉愛の姿が目に入った。

 席が近い訳でもないのに、嫌でも目についた。


 軽い吐き気と頭痛がした。

 あの日のことを思い出してしまう。


 莉愛の席は僕の席より前だ。

 僕は莉愛に気づかれないように、自分の席に着く。


 なぜ、自分が莉愛に怯えるように行動しないといけないのか、わからない。

 浮気がバレた莉愛が僕の機嫌を伺うならわかるけど、まるで立ち場が逆だ。

 莉愛は堂々と自分の席に鎮座しているのに、僕は背中を丸めて座っている。


 もちろん、怜奈の件である意味肩身が狭いというのもあるけど、僕は莉愛に対して酷く怯えている。


 やはり、怖いのだ。

 

 莉愛の口から、本当は自分のことなんて愛していなかったと告げられるのが。

 楽しかった思い出も、全て偽りだったと告げられるのが、何よりも怖い。


 浮気されていた時点で、ある程度の覚悟はしないといけないのに。


 莉愛……お前は今、何を考えているんだ?

 

 莉愛の後ろ姿を眺めながら、そんなことを考えていると、


「……っ!」


 莉愛が突然振り返った。真っ直ぐに、僕を見つめてきた。

 

「……」

「……」


 何も言ってくるわけじゃない。ただ、僕を見つめてくるだけ。

 莉愛の眼差しは、穏やかなものだった。


 自分の浮気で別れた元彼氏に向けるものとは、とても思えなかった。


「あっ……」


 不意に、教室内の空気が変わった。

 空気を変えたのは、教室に入ってきた、ひとりの来訪者の存在だ。


 来訪者は、僕に軽く視線を飛ばすと、一直線に莉愛の座る席へと向かった。

 莉愛は来訪者に応対するように、向き直った。

 教室内が、ざわざわとし始める。


 その瞬間、僕はクラス内にどの程度の噂が流れているかを悟った。

 僕と莉愛──そして、今現れた怜奈との間に起きた出来事は、周囲の人間もある程度のことは周知のことだということを。


 教師の涼子先生が知っているんだから、おかしなことでもないか。

 ともあれ、今あの二人が接触するのは、あらゆる憶測を生むだろう。


「旭岡の元カノと今カノ対決か……」

「あれが修羅場ってやつ? おもしろそー」


 クラスメイトたちは軽口を叩いているけど、僕は全然面白くない。


 というか、どうして怜奈はこのタイミングで来たんだ?

 今日の放課後に、話し合うって決めてたはずなのに……


「椎名さん、今日の放課後、顔を貸してくれるかしら?」


 あ、そうか。あの二人は連絡先を交換していたわけじゃないのか。

 僕の口から直接、莉愛に顔を出すように話しかけるはずもないから、怜奈がわざわざ顔を出しに来たのか。


 その配慮はありがたいけど、なるべく目立たないところでやって欲しかったな。 

 噂を広げたり、変な憶測を生むことは控えようと思ってた矢先にこれだ。

 

「いいよ、新世が私と話してくれるなら」


 莉愛は、僕との対話を望んでいるのか。

 確かに、莉愛は僕に大量のメッセージを送ってきたけど、話すと気まずくなるのは浮気した莉愛の方なんじゃないのか?


 ということは、やはり、莉愛は何かしらの言い訳を考えているのか。

 浮気した女という肩書きは、今後の高校生活において、マイナスでしかない。

 だったら、その噂を払拭する為に、自分は浮気をしていないと言い出しかねない。

 

 そうなると、怜奈と関係を持った僕が不利になる可能性が出てくるな。


 でも、浮気がどうかなんて、僕がどう感じたかで話は決まる。

 僕に内緒で、他の男と手を繋いで歩いていた。

 それだけで、もう立派な浮気だ。


 何かやむを得ない事情があるならまだしも、僕にはそんな事情は見当もつかない。


「もちろん、新世も連れてくるわ。場所は──そうね、昨日の場所でいいかしら」


 怜奈の言葉に、莉愛は静かに頷いた。

 昨日の場所とは、どこだろう。


 そんなことを考えていると、怜奈が僕の元へやって来た。


「おはよう、新世」

「ああ、おはよう……怜奈」


 付き合っている彼女に酷なことを言うようだけど、今は話しかけてこないで欲しかった。


 怜奈が動くと同時に寄せられていた視線が、怜奈が僕に近づいたことによって、自分にまで向けられているからだ。

 クラスメイト全員が僕と怜奈を注目していて、莉愛もこちらをじっと見ている。

 

 気まずい気まずい気まずい……


「……ねえ、新世」

「な、何かな──ん、んん!?」


 怜奈は僕の制服のネクタイを掴むと、ぐいっと自分の方へ引き寄せ、そのままキスをしてきた。


 このタイミングで、ほんと、嘘でしょ……と思っても、時すでに遅し。


「んん! んんん!!」


 教室内が突然の出来事に、しんと静まり返り、怜奈が僕の唇をチュッチュと貪る音だけが鳴り響く。


 僕は怜奈を引き剥がそうとするけど、ネクタイを握られているので怜奈を離せない。


 視線を外すと、呆然としているクラスメイトたちの顔が見えた。

 その中には、目に涙を浮かべ、唇を噛み締めている莉愛の姿もあった。


 そんな莉愛の姿を見て、ますます莉愛の考えていることがわからなくなる。


 莉愛は僕のことを愛していないから、浮気したんじゃないのか? 

 だったら、あんなふうに悔しそうに泣いている意味がわからない。


 それとも、少しは僕に対する愛情が残っていたのか?


 ……あるいは……?

 

「ぷはっ……今朝の分は、これぐらいにしておこうかしら」

 

 今の莉愛ぐらいに、何を考えているのかわからない怜奈は、僕から唇を離すと、悪びれる様子もなく言う。


 しておこうかしら、じゃないんだよ。

 クラスメイトたちの前で、とんでもないことをしてくれたな!

 と口に出して言いたいけど、口から涎が糸を引いて下手に喋れない。


「もう、涎を垂らすなんて、赤ちゃんじゃないんだから……」


 だいたい、怜奈が舌を僕の口の中にいきなりねじ込んできたせいでしょ……

 なんて口に出したら、他の男子生徒たちから更なる反感を買うな。

 もう、取り返しのつかない程度には、恨まれてそうだけど。

 

 怜奈は白いハンカチで、僕の口周りを拭き始める。

 赤ちゃんか、僕は。


「これで綺麗になったかしら」

「あ、うん……ありがとう?」


 どうして原因を作った怜奈に、僕はお礼を言っているんだろう?


 怜奈はハンカチをしまうと、莉愛の方に視線を向けた。

 自分に対する挑発だと受け取ったのか、莉愛は怜奈を睨み返していた。


「ふふ、私の勝ちね」


 怜奈は満足げに呟くと「また後でね」と言い残し、教室から立ち去った。

 そんな怜奈の後ろ姿を、莉愛は黙って見送っていた。 

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