第21話 とうとう愛音に

 おれたちは今、川から外れたところにいた。人が三人も立てばいっぱいになりそうなその土の地面は、踏みなされていた。崖の手前に柵がたてられていて、生い茂った木々の間から、下の方に川が見えた。流れはゆっくりに見えた。


 おれたちを助けた後、鼻毛はこの場所を見つけておれたちを下ろしてくれたのだが。


「あれは一体、どういうことなの?」

 愛音は、スマホをいじりながらちらっと上目づかいにおれを見た。親にメッセージを送っている。


 何と愛音はジャケットのポケットにスマホを入れていた。それも、海に行くときみたいな防水加工のケースに入れられていたのだ。


「それは……。」

 もう、おれの鼻の穴から鼻毛は出ていない。

 さて。どこからどう、話したらいいのか。

 思わず考えこんだ。


 リリリリ。

 鋭い電子音。


「もしもし。」

 愛音は電話を取った。お母さんみたいだった。スピーカーにしているわけでもないのに、電話口から、大きな声を上げて泣いているみたいなのが分かった。

「守君もいっしょだよ。助けてくれたの。」

 愛音はそう言って電話をスピーカーにした。

『守⁉ そこにいるの⁉』 

 お母さんの声がとびこんできた。おこっているんだけれど、とちゅうで、すん、と鼻をすする音がした。


 お母さんも泣いていたみたいだった。


「え、なんでお母さんが愛音のお母さんといるんだよ。」

『先生からあんたたちが川に流された、って連絡あったの! それで愛音ちゃんのお母さんのところに連絡して、一緒に電話がかかってくるの待ってたんじゃないの!』

「友樹は⁉」

『え?』

「樋口 友樹。あいつもさっきまでいっしょだったんだけど……。」

『樋口君は無事だって。樋口君が先生にあんたたちが流された、って教えてくれたらしいから』


 友樹の奴。なんで大げさに言うかな。鼻毛がいるんだからだいじょうぶなのに。


 また、イラっとしてしまった。


「……ごめん。」

『まったく、何やってるのよ! 心配したんだから!』

 あー。またおこられた。おれ、こういうパターン、多いんだよな。


 くっそー! 友樹の奴。


 そう思いかけて、考え直す。


 友樹のせいにするのもちがうよな。助ける、って決めたのは自分なんだし。


「『沢を渡るコース』の、真ん中ぐらいの撮影スポットみたいなとこにいるから、今から下山する。」


 おどろいた。


 ここには何の看板もついていないのに、風景だけでどこにいるのかわかるみたいだった。

『わかったわ。先生にそうやって伝えておく』


 愛音のお母さんも、この山にはくわしいみたいだった。その声には愛音に対する信頼、みたいなものが感じられた。


「なんか、色々すげえな。スマホ、持ち歩いてんだ。」

「この山には何度も来てるの。」

「そうなのか?」


 いつもの愛音からは想像ができなかった。どっちかというと大人しくて、家で遊ぶのが好きなんだろうな、って思ってたから。


 愛音はポケットにスマホをしまい、立ち上がった。


「ここ、スマホ使えるんだよね。天気も変わりやすいし。いくら遠足、っていったって山だしさ。何が起こるかわかんないから、準備は念入りにしろ、って、いつも言われてる。……行こう。」


 いくつか枝分かれしている道の一つを選んで歩き始めた。おれも愛音の少し後ろを歩きながら、

「下まで行くのにどれくらいかかる?」

「いつもだったら一時間ぐらいで行くと思うけど、今日は道もぬかるんでて危ないから、もう少しかかるかも。」


 愛音は足場のいいところを選びながら、ふつうの顔して歩いていくけれど、足を一歩踏み出す度にくつから水がしみだすのも、びっしょり濡れているせいで、服が体に張り付いているのも気持ち悪かった。


 少し後ろを歩きながら、だんだんいろんな不安が頭をもたげてきた。

「先生、心配してるかな。」

「お母さんの口ぶりだと、大騒ぎになってるみたい」

「ま、でも、友樹が無事ならよかったよ。」

 愛音はうなずいた。

「そうね。樋口君は『守君なら大丈夫だから』って言ったの。なのにあたし、とっさに飛び込んじゃったから。」

「……なんでそんなことすんだよ。それでお前がおぼれたら意味ねえだろ!」

「だいじょうぶだと思ったのよ。」

 愛音は、ぷん、と、顔を背けた。

「水泳は得意だし、スイミングスクールで、おぼれそうになった時の救助の仕方とか、川でおぼれたらどうすか、ってちゃんと習ったんだから。」

「でも。」

「仕方ないでしょ! 心配だったんだから!」

 少しほほをふくらませた。そしてやっぱりおこったみたいに、

「あんなの鼻の中に飼ってる、って知ってたらそんなことしなかった。」

 口をとがらせた。

「飼ってねえし。」

 じろっと見て来た。だから、

「あんな危ないこと、もう絶対するなよ」

「わかった」

「約束だぞ」

「わかったってば!」

 おこったみたいに答えた。そして今度は、

「あれは、なに?」

 と、聞いてきた。

「あー、それは。」


 なんて答えよう。


 考え込んでいると、さらにつっこんできた。


「あの鼻の穴から出た太いロープ。あれ、手品かなんか?」


 ちゃんと答えないからおこってるみたいだった。いや、そんな顔されても。おれだって困ってるんだ。いまだに毎日、夢だったらいいな、って思ってるくらいなのに!


「SNSでうわさになってたあれ、もしかして守君のことだったの?」


 言いたくない。言いたくないけど。

 うなだれるみたいにうなずいた。

 と、鼻の奥がもぞもぞした。


 いやな予感に背筋が冷たくなる。

「や、やめろっ!」

 おれは叫んだ。

「出てくんな! お前はそこにいろっ!」


 愛音はますます顔をしかめて、

「何言ってんの?」

「ダメだ! しゃべんなよ!」

 鼻毛はまだしゃべっていない。でも、もぞもぞが大きくなる。

「守君?」


 ダメだ、これ、絶対出てくる!


 おれは両手で鼻をおさえた。もぞもぞが最大級に大きくなった。


「やめろおおおおっ!」

「じゃじゃーん!」

 おれの悲鳴と、鼻毛の雄たけびが重なった。


 と思ったら、ぴっちりとじたはずなのに、おれがおさえた手の隙間から、黒くて太い鼻毛が飛び出した。


「きゃああっ! な、なんなのよ、これ。」

 愛音が真っ青になって動きを止めた。

「鼻毛でーす。」

 鼻毛は体をくねらせながら、その毛先を愛音の目の前に突き出した。

「は、鼻毛?」

 愛音は真っ青になってあとずさった。


 い、いやな予感。


「や、やめろ。」

「んんんんん。」

 鼻毛がうなった。

「やめろおおおおっ!」

「うううううううんっ!」


 ぽんっ。


 毛先に飛び出したのは、そのビー玉みたいなふたつの目。


「いやあああああっ!」

 愛音の叫びが森中にこだました。

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