第19話 じいちゃん!

 それで気づいた。おれの足もふくらはぎより少し上の方まで水に浸かっていた。

「友樹、動けるか?」

「動けない。動いたら、倒れる。」

 友樹は青ざめた顔で言った。


 水が増えている。水の流れもさっきよりずいぶん速くなっているのだった。


 もう、おれたちの力だけでは無理みたいだ。


「愛音。」

 おれは覚悟を決めた。

「なに?」

「いっしゅん、目、つぶってくれ。」

「え?」

「おれがいいって言うまで目をつぶってくれ! 頼むから!」

 愛音はむっとしたようにおれを見ていたけれど、真剣なのに気づいたみたいだった。わけがわからない、という顔をしながらも、だまって目を閉じた。


 それを見届け、おれは言った。

「頼む!」

「おう!」

 鼻毛が黒い風となって飛び出した。一直線に友樹に向かい、その体にぐるぐると巻きついた。


 ざばああっと水しぶきを上げて友樹の体が宙を舞い、靴を脱いだところまで戻った。鼻毛がおれの鼻に戻るのを確認し、

「愛音、もういいぞ。」

 声を上げた。愛音は目を開いた。はっとして、

「……樋口君は⁉」

「おーい、ここだ!」

 ずぶ濡れの友樹が手を振った。

「どうなってるの⁉」

 おどろいたみたいに言ったけれど、返事はしなかった。


 とにかく、ここから離れなきゃ。


 ゆっくりと腰を上げた、その時だった。

「守君、あぶない!」

 愛音の声がした、と思ったら、ずるっとすべって全身が水の中に引き込まれた。


 水の塊が襲ってくる。わけのわからないまま頭が石に当たった。


 愛音の声が聞こえた気がした。


 それでもとにかく手を動かし、顔を上げようとした。けれども水の塊が右から左から、上から下からおそってきて、どこが上なのかわからない。


 何かに手が触れた気がした。それをつかもうと必死になって動かした。けれどもそれは、指の間をすり抜けて行ってしまった。


 それで、パニックになった。


 めちゃくちゃに腕を動かした。口を開いたら空気ではなくて水が入り込んだ。


 助けて!

 気がついたらそんなことを思った。

 誰か!


 そのときだった。



 古い家がまぶたの裏に浮かんだ。

 亡くなったじいちゃんの家の縁側だった。

 小さな庭には池があり、そのにごった水の中に、大きな鯉が何匹もゆっくりと泳いでいた。幼かったおれはじいちゃんのひざの上にすわり、その上にはスケッチブックがあった。

「お前の名前は、じいちゃんがつけたんだぞ。」

 そう言って、じいちゃんは、青いクレヨンで「まもる」と、書き、となりに、「守」と、書いた。角ばった大きな字だった。

「いつもだれかに守られてるんだぞ、おまえは。」

 じいちゃんは、笑った。

「だからおまえも、大切な人を守るんだぞ。」

 いきなり場面が変わった。


 じいちゃんが、社の前で手を合わせる後姿が見える。

 それは、「蛤神社」。じいちゃんの家の近くにある小さな神社だった。願いが叶う、というので有名らしかった。

 じいちゃんは両手を合わせ、目を閉じて祈った。


「私が死んだ後、子供たちをお守りください。孫たちをお守りください。幸せに生きられるように見守っててください。」


 じいちゃん!

 強く思った時だった。


 今まで水にもぐっていた顔がぐっと引き上げられた。


 言ってみれば、つり上げられた魚のような。


 そう。鼻毛だった。


 ロープのような鼻毛はまっすぐ遠くの木の枝に巻きつき、リールを巻くようにおれの体が水から引き揚げられた。


 おれは両手でその真っ黒な鼻毛をつかんでしがみついた。

「あ、ありがと。」

 思わず礼を言った。けれども鼻毛は返事をしない。

「おい、鼻毛。」


「愛音が!」

 鼻毛の硬い声がした。

「おまえを助けようとして水に飲まれた。」

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