第18話 愛音に見つかる
ひえええええっ!
「出るな!」
「ええっ⁉」
うろたえる鼻毛をつかんでぐちゃぐちゃにして、そのまま両手で鼻をおさえた。
「なんだよ! おまえが行けって言ったんだろ⁉」
「だまれ! ひっこめ!」
鼻毛もさすがにおれがあせっているのに気づいたのか、すっと鼻の穴にかくれた。
おそるおそる振り返る。
愛音だった。手にはハンカチをにぎっていた。今の風で飛ばされたのを拾ったみたいだった。
セーフ!
ほっと胸をなでおろす。
こんなの絶対、絶対、愛音に見られるわけにはいかない。それだけは。それだけは絶対にダメだ!
愛音は、ものすごくおこっていた。今にも火を吹くんじゃないかと思うほどだった。そう。愛音はいつもそうだった。おれが危ないことをしようとすると、本気でおこった。
いや、でも今、危ないことしてるのおれじゃねえし。
「先生が、川に近づくな、って言ったじゃん。」
すると友樹はまた、「へへへ」と笑って沢の方を指さした。
「お、俺の帽子がさ……。」
「ダメよ!」
愛音は叫んだ。
「水が増えた川って、すごく危険なのよ。」
「でもそんなに深くないし。だいじょうぶだよ。あともう一歩で届くし。水の流れもそんなに早くなさそうだし。」
へらへらと笑いながら友樹が答えた。それでも愛音はおこったままだった。
「こういう水って、見た目よりずっと速いんだよ。ちょっとでも足をすべらせたら、すぐに流されちゃうんだから。」
「だったら気を付ければいいだけだろ。」
友樹はもう一度帽子を見た。一度手をのばしかけ、無理だと思ったみたいで、もう一歩足を踏みだした。もう少しで帽子に指が届く。けれど、近くにはつかまれそうな岩は飛び出ていない。
あと一歩。あと一歩行けばとどくのに。
「いいから戻って。」
愛音はおこったままだった。おれは知ってる。愛音は本気でおこったらすっげえこわいし、なんのためらいもなく先生に言いつける。
「友樹、やめようぜ。」
「なんだよおまえまで。」
「だって愛音、こええし。」
愛音はそこでじろっとにらんできたけれど、
「樋口君、やめて。ほんとに、川って危険なの。とくに、こういう時は。」
「そうだよ。たかが帽子じゃん。」
「でも、あと一歩で届くんだ。」
「新しいの買えばいいだろ!」
おこられるのも先生に言いつけられるのもいやだ。
「あんだけぬれてんだから、もう使えねえよ!」
イライラと言った時だった。
友樹の動きが止まった。いつもみたいに「へへへ」と笑った顔が、泣きそうに見えた。
「……おれにとっては、たかが帽子、じゃないんだ。」
声がひきつっていた。笑いながらおれを見るその顔に、何かを感じて鳥肌が立った。
「うちさ、去年、親が離婚したんだ。」
がん、と、頭をなぐられた気がした。
別に、離婚なんて今時珍しくない。クラスにも何人かそういう奴、いる。いるけど、やっぱり去年、って聞くとちょっとショックだった。
「弟とおれ、母親と住んでるんだけど……いろいろ、大変でさ。お金、とか。」
そこでさっき見た友樹の弁当がまぶたの裏に浮かんだ。
たくさんの白いご飯と、おかずは卵焼きがふた切れ。切れた体操服の袋のひも。結んでまだ使い続けている。
前に、スマホは禁止だ、と言った。もしかしたらそれは、禁止じゃなくて……。
そういうことだったのか……。
「これさ、遠足のために、母ちゃんが買ってくれたんだよ。だからさ、たかが帽子でも、ムダにできないっていうか。」
そんなことを言いながら、「へへへ」と笑う友樹を見ていたら、それ以上引き留めるのが悪いような気になった。愛音も言葉が浮かばないみたいで困ったみたいに友樹を見ていた。
「それでも、絶対にダメ!」
「……オレが行こうか?」
鼻の中で鼻毛がささやいた。
「ダメだ! それだけは絶対に!」
思わず声を上げる。愛音はそれを、おれが友樹に言った言葉だと思ったみたいだった。小さくうなずいてくれた。
ごめん、そうじゃないんだ。
おれは、友樹に向き直った。
鼻毛に行かせるくらいなら。
「だったらおれが行く。」
「えっ⁉」
愛音がうろたえたような声を上げた。
「なんでだよ! 俺の帽子だぞ。」
友樹も声を上げた。顔が引きつっているみたいに見えた。思わず動きを止めた。
こんな真剣な友樹、見たことなかったから。けれども友樹はすぐにいつものへらへらした笑顔を顔に張り付けた。
「だいじょうぶだよ、これくらい。」
「おまえ、運動神経ねえだろ。おれは、スポーツ万能なんだ。」
「だめよ!」
「これくらい、平気だよ!」
止めようとする愛音の声をふりはらって、靴をはいたまま、水がびしゃびしゃとぬらす地面を歩いて川に入った。
一歩足をふみいれて、気づいた。
思ったより、流れが速かった。
靴の中に水が入るのは気持ちが悪かったけれど、今は、脱がなくてよかった、と思った。そして、別のことにも気づく。
靴をはいていない友樹の足元は、おれが感じている以上にふらついているんじゃないか。
「友樹! お前は戻ってこい。」
「来るなよ!」
「平気だって。」
おれは慎重に岩を渡り、友樹のところへ行った。愛音が見ているのが分かったけれど、おこられたらこわいからそっちを見なかった。
本当は親が離婚したことなんか言いたくなかったんだと思う。こんなところだって見られたくなかったはずだ。もちろん、先生を呼んで大ごとにしたくない。それくらい、おれにだってわかる。
だからこそ、どうしても友樹を助けたかった。それは友樹のためとかじゃない。
自分がそうしたいからだ。
「やっぱり俺が行く。」
友樹は言った。おれはうなずいた。そして、友樹のいるところまで行くと、友樹のつかまっている岩にしっかりと手をかけた。
「おれがここで支えてやる。お前が取ってこい。」
あいている方の手を出した。友樹はハッとしたようにおれを見て、うなずいた。
手をにぎり返してくる。その手が汗でびっしょりぬれていて、すべりそうだな、と、ちょっと不安になった。もういちどしっかりにぎり直す。
友樹は一度、不安そうにおれを見た。
今ここで友樹が岩から手をはなせば友樹を支えているのはおれの手だけになる。おれの手だけが、友樹を助けることができる命綱になるのだ。
その重圧に押しつぶされそうだ。でも友樹はもっと不安だろう。だって、おれが手をはなしてしまえば、その体は水に落ちるかもしれない。水の流れは速い。おれだって、この中に落ちたら自分で這い上がれるか不安になるほどに。
おれを信じてくれ、友樹。
小さくうなずいて見せた。
友樹は笑いを顔に張り付けたまま、うなずき返した。そして、岩についていた方の手を離した。
友樹のバランスをくずしてしまわないように、その手をぎゅっとにぎりしめ、友樹の動きに合わせた。しばらくじっとしてバランスを確かめた後、思い切ったようにもう一歩足を踏み出した。
「もう少し、体を低くしろ。そのままだと危ない。」
後ろから声をかけると、友樹はゆっくりとひざをまげようとした。
「だめだ。そうしたら倒れる。」
そう言って、中腰のまま手を伸ばした。
その指が、帽子をつかんだ。
そのときだった。
「樋口君!」
先に声を上げたのは愛音だった。ずるっと友樹の体がすべった。大きな水のかたまりが進路を外れて友樹にぶつかったのだ。おれはつかんでいる岩にしがみつき、思い切り友樹の手を引いた。
「落ち着け!」
友樹は何度か足をばたつかせ、足場を探した。おれも全身の力で友樹の手をにぎりつづけた。ようやくどこかに足をつけ、ずぶ濡れになりながら半身を起こした。ぬらしながらも、どうにか手には帽子をにぎっていた。
もう一歩足を踏み出した。友樹がおれの手をしっかりにぎっている。おれも手がすべってはなれないように、力をこめた。それでもバランスが取れないのか、次にどこに足を置こうか考えているみたいだった。
「樋口君、そこの岩。」
愛音の声がした。ハッとして顔を向ける。さっきまで高いところに立っていた愛音が、いつの間にか水際に来ていた。その水際が……思ったよりも遠いところにある気がした。
「なんでお前まで来てんだよ! 怪我したら困るだろ! 戻ってろ!」
「あたし、動いてない。」
愛音は、うわごとみたいに言った。
「水が増えてるのよ。」
「え……?」
思い出したみたいに友樹が自分の足を見た。
さっきは足首までしか浸かっていなかった。その足は今、ふくらはぎまで水の中にあるのだった。
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