婚約破棄の破棄を破棄させていただきますわ。わたくしはもう疲れてしまいましたから。(4)



「は、破棄だ! 破棄する! 先ほどの婚約破棄は、破棄させてもらう!」


 その場にいる全員が、ぽかんと口を開いた。

 破棄を、破棄する。


(この騒ぎをなかったことにしようと……いうのですか。)


 アニエスもまた、完全に虚を突かれて、なにも言えなかった。

 真っ先にベルナールに食って掛かったのは、マドモアゼル・ペッシェだった。


「ちょ、ちょっとベルナールさま! アタシはどうなるんですかッ!」

「うるさいッ、この嘘つき女め!」

「ううう、嘘つき女ですって!? アタシがアンタを落とすためにどれだけの時間を割いたと思って――」


 マドモアゼル・ペッシェを振り払って、ベルナールが二歩前に出る。

 アニエスの眼前に。


「な、なあ、アニエス! 僕が悪かった! きみの家も、ほら、貴族階級とのつながりが必要なのだろう? だったら、互いの利益のためにも、今回のことは水に流してだね……?」


 パーティーホール中から浴びせられる白い目をものともせず、ベルナールは媚びた笑みでアニエスを伺ってきた。

 いままで見たことのない顔で、正直、いままでのどんな表情よりも、気味が悪い。


(……破棄を取り消せば、家の面目は立ちますし、お父さまもお母さまも助かりますよね。)


 でも。

 でも、だ。

 そっと、視線を横に向けてみる。

 助けてくれた黒髪の魔術師は、真面目な顔で首を横に振った。


「アニエス殿。それは、あなたが決めることです」

「そう、ですわね……」

「ただ……そうですね」


 クリスはアニエスを見つめて、微笑む。


「私は、アニエス殿が生きたいように生きられるならば、それがいちばんだと思います」


 生きたいように、生きる。


(お父さまとお母さまのことを、考えるなら。わたくしは、やはり、ベルナールさまと結婚した方が……いいのでしょう。)


 頭では、そうわかっている。

 わかっているのだが。


(わたくしは、どう生きたいのでしたっけ。)


 憧れを思い出す。

 膝の上でくつろぐ、のんびりとした生き物。

 驚くほどあっさりと、覚悟が決まった。

 アニエスはふわりと微笑んで、ベルナールに向き直る。


「ア、アニエス……?」

「ベルナールさま。婚約破棄の破棄を、破棄させていただきます」

「な……ッ!」


 うしろ向きに歩いて、ベルナールから三歩、離れる。


「わたくしはもう、疲れてしまいました。あなたに付き合うのも、家の野望に付き合うのも」

「だ、だがッ! 僕との婚約を破棄すれば、きみだって立場がなくなるのだぞ!」

「そうですね。……きっと勘当されるでしょうけれど、致し方ありません」


 貴族から受けた婚約破棄の撤回という温情・・を、自ら捨てたのだ。

 商会の今後を思えば、父母はアニエスを切り捨てざるを得ない。


(商人ですもの。不良債権を抱えてはいられませんわ。)


 確かな覚悟を決めたアニエスに、しん、とホールが静まり返る。

 愚かな男の愚かな行動のために、ひとりの女性が家族を捨てようとしているのだ。

 だれも、なにかを言えるような雰囲気ではなかった……ひとりを除いて。


「アニエス殿。家を出て、どうなさるおつもりですか」


 その、ひとり。

 クリスは、まるでお茶会の途中であるかのように、ごく自然にアニエスに問うてきた。

 変わらない自然体に、アニエスの表情が少しだけ和らぐ。


「そうですわね。どこかの教会に身を預けて修道女になるか、あるいは冒険者として身を立てるか……。攻撃魔法はあまり得意ではないのですけれど、自由に生きたいと思います」

「つまり、今後の予定はないと。そういうことですね、アニエス殿」

「予定って、そんな軽い言い方……。まあ、そういうことではありますけれど」

「では、私の心も決まりました」


 横にいたクリスが、アニエスの前に立った。

 困惑するアニエスの正面から、膝を付いて右手を差し出してくる。


「え、ええと。クリスさま? いったい、なにを……」

「アニエス殿。アニエス・オベール殿。どうか、私と結婚してくださいませんか」


 急な告白だった。

 一拍置いてから、言われた言葉の内容を理解して。

 かあ、と頬に熱が上がってくる。


「ク、クリスさん? そんな、御冗談を……!」

「冗談ではありません。愛しております、アニエス殿」


 慌ててベルナールがクリスに掴みかかろうとしたが、さすがに見かねたのか、ほかの生徒たちが羽交い絞めにした。

 あるいは、羽交い絞めにしたほうがもっと面白いものを見られると思ったのかもしれないが。

 頬に手を当てて、アニエスはうつむく。


「こ、困ります……。クリスさん、わたくしはもはや婚約を解消した身。傷物ですのよ?」

「ご自分を卑下なさらないで。アニエス殿に傷などひとつもありません。あなたの高潔さは、だれよりも美しいものです」

「ですが、わたくしのような不良債権、クリスさまの将来にとってもよくありません。勘当されても、わたくしが婚約解消後に他の殿方と結ばれることを、オベール家が許すはずが……」

「債権などとは思いませんが、たとえどのような負債であっても背負ってみせましょう」


 クリスは己の胸に右手を当てて、貴族の礼の姿勢を取った。


「いままで申しておりませんでしたが、私の名前はクリストハルト・クリューガーと言います。隣国ジャルマンにおいては公爵位で……アニエス殿は、ご存知ですよね?」


 名前を聞いて、アニエスは固まった。

 クリューガー家。

 魔導書に刻まれた魔術の名門の家名。

 両手足を掴まれたままのベルナールが、うさんくさそうにクリスを睨んだ。


「クリューガーだと? ジャルマン連邦の、獣魔術の大家のか? ばかばかしい、ならばなぜ、いつも貧相な格好なのだ。冗談もいい加減にするのだな」

「私の悪癖ゆえ、です。貴族としてはお恥ずかしい限りですが、使える金はすべて、魔法書や実験器具につぎ込んでしまうもので……正装は魔術師のものしか持っておりません」


 魔術師の正装。つまり、ローブだ。

 魔術学園であるこの場所では、ある意味、着飾ったドレスなどよりもフォーマルと言えた。


「……なぜ、今まで黙っていらしたの?」

「聞かれませんでしたので。アニエス殿にいつ知られるか、知ったらどういう反応をするか、楽しみにしていたのですが……。自ら明かすことになってしまい、残念です」


 しれっとそんなことを言う。

 いじわるですね、とアニエスは半目になる。


「オベール家も、我がクリューガー家が相手であれば、不服はないでしょう。もちろん、アニエス殿が実家との縁も切りたいならば、私は姓のないアニエス殿を我が家に迎えるだけですが。些細な差です」

「さ、些細って……」


 巨大な問題だと思うのだが。

 アニエスは、胸の奥からこみ上げてくる『なにか大きな感情』を必死に押しとどめつつ、努めて冷静にクリスに向き合った。


「いけません、クリスさん……クリスさま。あなたがクリューガー家の嫡男であるならば、なおさらいけません。一時の感情に身を任せて、わたくしのようなものを娶ってしまっては……」

「返事はいいえノンですか。いじわるですね、アニエス殿は。しかし……」


 黒髪の少年は、アニエスだけを見つめて微笑む。


「……私はあきらめが悪く、しかも空気の読めない男です。アニエス殿が修道女になったなら、教会まで毎日求婚しに行きます。冒険者になったなら、どんな危険な冒険にもついて行き、あなたの隣で戦いながら愛を囁きます。私は、あなたの自由に寄り添っていたい……いけませんか?」


 きゃあ、と見守っていた女子生徒たちが黄色い声を上げる。

 それほどまでに情熱的な言葉で。

 アニエスはもう、耳から蒸気が出そうなくらいだった。


「……困ってしまいます」

「いじわるのお返しです」

「もう。クリスさまのほうが、ずっといじわるですっ」


 アニエスは、視界を涙でにじませながら、最後にもう一度だけ確認の言葉を投げる。


(最初に会ったときとは、まるで違う涙です……!)


「ほんとうに……わたくしで、いいのですか?」

「あなたがいいのです、アニエス殿」


 そう、言うから。

 アニエスは、差し出された右手に、己の右手をそっと乗せた。



 ●



 その後。

 オベール家との縁談を失ったベルナールは、バルバストル家から勘当された。

 かろうじて魔法の才能があったこと、そしてバルバストル当主からの少しばかりの慈悲で、魔法学園の庭園団ブリガード・ド・ジャルダンの下働きを紹介され、下男となった。

 広大なシャノワール魔術学園に数多ある庭園の下男は、過酷な仕事である。

 毎日、敷地を走り回され、半泣きで働いている姿を目にするようになったとか。

 バルバストル家の財政状況は厳しいままとなったが、情けない兄の姿を見て「自分は悪い女性に騙されないようにしよう」と生真面目な弟が再建し、なんとか没落は回避している。

 ……まだまだ予断を許さない財務状況ではあるようだが。


 マドモアゼル・ペッシェはというと、騒動のあと、体調を崩して自主退学した。

 ようするに、地元へ逃げ帰ったのだ。

 あの分厚い面の皮でも、さすがに耐えられなかったのだろう……と生徒たちは口々にうわさした。

 その後の去就は、ようとして知れない。

 男爵家の離れに隔離されているだとか、冒険者に身を落としただとか、いろいろな噂はあるが……噂は所詮、噂である。


 さて、めでたく結ばれたアニエス・オベールとクリストハルト・クリューガーはというと……。


「クリスさま。ジャルマンの言葉は、やっぱり難しいですわ」

「がんばっておぼえてください。厳しくいきますよ」

「いじわるね。もっと優しく教えてくださってもいいではありませんか」


 小さなベンチに並んで座り、肩を寄せ合ってジャルマン語の勉強をしていた。

 ベンチの前には低いテーブルがあって、そこにはお菓子とお茶と、ジャルマン語の教科書が積まれている。


「優しく教えていますよ? ただ、早くジャルマン語で愛を囁いてほしいだけです」

「……もう。クリスさまったら」


 アニエス・オベールは実家と折り合いをつけ、クリューガー家の庇護の元、学園を卒業した。

 卒業後はジャルマン連邦へと渡ってクリューガー家に嫁入りし、クリストハルト・クリューガーの妻となった。


「だいたい、そんなに急がなくたって、問題ありませんわよ」

「どうしてです?」

「だって、これからは……」


 ジャルマン連邦の、クリューガー家の領地。

 その広大な土地の一画には。


「……ずっと、一緒ですもの」


 こぢんまりとした温室庭園があるという。

 わがままを言わない夫人が、珍しく夫にねだって作ってもらったその温室庭園は、ふたりが出会ったシャノワール魔術学園の庭園と、そっくりなのだそうだ。



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