婚約破棄の破棄を破棄させていただきますわ。わたくしはもう疲れてしまいましたから。(3)
泣いていた――その事実を聞かされたベルナールは、うろたえて、目を泳がせた。
「な、泣いていたからといって、なんだというのだ!」
「女性を泣かせておいて、その言いぐさですか」
「勝手に泣いただけだろう! 僕が泣かせたわけじゃない!」
クリスは不快そうに眉をひそめるが、ベルナールはお構いなしだった。
「そうだ! 僕はただ事実を述べただけだ! 泣く方が悪い!」
アニエスが泣いていたことが、そんなに意外だったのか。
(わたくしに、興味がありませんでしたものね。不快なだけで、視界にいない間、なにを思い、どんな風に過ごしていたかなんて……。)
どうでもよかったのだろう。
成金平民の娘。
勝手に決められた婚約者。
嫌がって当然だ。
嫌がられて、当然だ。
けれど、嫌がられたほうの、アニエスは。
「あなたが傷付けたから、泣いたのです。そんなこともわからないのですか?」
クリスのセリフに、気づく。
そうだ。
(わたくしは、傷付いていたのです。)
「う、うるさい! ……わ、わかったぞ! 留学生、貴様、その女と組んで僕を騙そうとしているんだろう!」
「そうですわ! アタシをいじめる悪魔のような方ですもの、泣いたりする心はありません!」
アニエスの肩が、びくり、と震える。
(泣くことも、許されないのですか。わたくしは。)
「だいたい、貴様のような卑賎のものが、僕らに意見しようとするのが間違っているんだ! どこの田舎の平民か知らないが、まともな正装もなくみすぼらしいローブを着てパーティーに来るなど、言語道断! だれかコイツを摘まみ出せ!」
クリスはベルナールとマドモアゼル・ペッシェを順繰りに見て眉を顰め、指を二本立てた。
「では、卑賎の身ながら、ふたつほど申し上げてさせていただきますが」
「な、なんだよ」
「ひとつ。アニエス殿はそちらの女子をいじめてなどいません。温室庭園でアニエス殿が私と会っていたことを知ったのならば、気づいてもよさそうなものですが」
「気づく、だって? なんにだよ」
クリスは呆れ顔になった。
「アニエス殿は、半年ほど前から温室庭園に通っておりました。つまり……今期の魔術史概論の講義には、まったく出ていないのです。そちらの女性をいじめようがないではないですか」
ベルナールが目を剥いて、マドモアゼル・ペッシェを見た。
「……我が愛、どういうことだい?」
「ま、待ってください、ベルナールさま! そこの薄汚い魔術師! 証拠はあるっていうの!? 勝手にてきとうなこと言わないで!」
「馬鹿ですか、貴女は。……失礼、汚い言葉でした。授業ですよ? 出席を取るではないですか。講師に確認すれば、すぐにわかる話です」
そこで、騒ぎを見守っていた初老の男性が手を挙げた。
「確認する必要もありませんぞ、生徒クリストハルト。昨日、生徒アニエスの魔術史概論の成績を付けたところですので、おぼえておりますとも。出席数不足で落第ですじゃ。……話を聞く限り、情状酌量の余地はありますから、来期も受講することをおすすめしますがの」
マドモアゼル・ペッシェが口をパクパクさせて、しかし、分が悪いと判断したのか、むっつりと黙り込んだ。
ベルナールは信じられないものを見るかのように、教師とマドモアゼル・ペッシェを交互に見る。
押し黙ったふたりに、クリスが言葉を続けた。
「ふたつめ。そも、ベルナール・バルバストル殿がアニエス殿と婚姻を約束されたのは、バルバストル家の財力が低下したことに由来します。実家の経済状況くらいはご存知でしょうが……」
きょとんとしているベルナールを見て、クリスが大きな溜息を吐いた。
「……ご存じないようですので言っておきますが、バルバストル家は近年、領地の税収が安定せず、オベール家の財力を求めて婚約を持ちかけたのです。オベール家も貴族との繋がりが欲しかったため、バルバストル家との婚約を受けました。おわかりですか?」
「な、なにがだ。わかるように言えよ」
察していないのか、あるいは察したくないのか。
鈍いベルナールに、クリスはあっさりと告げた。
「婚約を申し込んだのはバルバストル家のほうなのだ、と申し上げております。あなたは伯爵家を存続させるため、アニエス殿をしっかりと繋ぎ止めるべきだった。それができぬとなれば、バルバストル家の財政はいま以上に悪化し……あなたは責任を負わされるでしょうね」
●
はじめて会った日の翌週、魔術史概論の授業に行かず、温室庭園でぼうっとしていたアニエスの向かいのベンチに、またしてもクリスが座った。
先週よりもたくさんの魔術書を積み上げていて、読書する気満々といった様子である。
「……ほかの温室を探そうかしら。読書の邪魔になるようですし、わたくしも泣きたいですし」
「いじわるですね、アニエス殿は。そんなに私がお嫌いですか」
「いじわるはどっちかしら、クリスさん。わざわざわたくしの泣き顔を見にいらしたの? いえ、泣いておりませんけれど」
クリスは微笑んだ。
「邪魔はしませんよ。ひとりで泣くよりも、婚約者の愚痴を言う相手がいたほうが良いでしょう? もちろん、アニエス殿は泣いておりませんが」
微笑む魔術師に、アニエスは白い目を向ける。
「……わたくしの事情を知ったのですね?」
「強がりを言わなくて済む相手も、欲しいのではないですか」
(おせっかいですわ。)
と、そう思う。
「とはいえ、私が知った事情は、大したものではありません」
クリスがぱらりとページをめくる。
「婚約者が公然と浮気をしているけれど、身分の差や実家の期待もあって強く言えず、人気のない温室庭園で毎週落ち込んでいる……ということくらいです」
つまり全部であった。
はあ、と溜息を吐いて、アニエスはベンチに腰掛ける。
「わたくしの愚痴は長くて陰湿ですわよ」
「構いませんよ。アニエス殿のお声はきれいですから、中身がどうあれ聞いていて心地よいのです」
「……そういうご趣味? なじったほうがいいのかしら」
クリスは面白そうに声を上げて笑った。
「やっぱり、いじわるですね、アニエス殿は」
それから毎週、ふたりはいろいろな話をした。
アニエスが許嫁や実家の愚痴を言い、クリスは本を読みながら相槌を打つ。
クリスが母国から送ってもらった珍しいお茶を持ちこんだ日もあれば、アニエスがお返しで茶菓子を持ち込む日もあって、愚痴はいつしかお茶会に変貌していった。
時折、クリスがアニエスの愚痴を聞いてベルナールの言動に憤りを見せたり、獣魔術を畜産技術に転用する話で盛り上がったり……。
そんな時間を過ごす中で、いつしか、アニエスにとって温室庭園は泣くための場所ではなくなっていた。
もちろん、きつく当たってくる婚約者は辛いけれど、そのあとにクリスとの穏やかなひとときがあるとわかっていたから、乗り越えられた。
(愚痴を言う相手はいたほうがいい、とおっしゃったけれど。)
ほんとうにその通りですね、とアニエスは思った。
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