婚約破棄の破棄を破棄させていただきますわ。わたくしはもう疲れてしまいましたから。(2)
ガリアンセーズ王国の西部に、一本の巨大なトネリコの木がある。
それは一千年の歴史を持つ、求道者のための学び舎の群れ。
魔術の始祖、『知恵』のゾーエ・ザーニが作り上げた、シャノワール魔術学園である。
●
アニエス・オベールがはじめてクリスに出会ったのは、学期末パーティーから半年ほど前のこと。
場所は、学園内に多数存在する、小さな温室庭園のひとつだった。
巨大樹トネリコの入り組んだ枝の間にあるため、人がほとんど寄り付かない穴場である。
入学してしばらくしてこの温室庭園を見つけたアニエスは、ひとりになりたいときに訪れるようになった。
……というか、ひとりになれる場所を探していて、見つけた場所なのだが。
その日も、ひとりになるために訪れていた。
(不甲斐ないですね、わたくし。)
庭園のベンチに座って、ハンカチで目じりを押さえる。
ひとつ前の授業は、ベルナールも受講していて、いろいろと辛い。
だから、魔術史概論の時間まで、こうやって庭園で心を落ち着けるのが習慣となっていた。
……にゃあん、となにかが鳴いた。
ハンカチから目を上げると、足元で黒いものが動いた。
「あら、学長先生ではありませんか」
シャノワール魔術学園に住む黒猫。通称『学長』だ。
巨大樹トネリコに張り付くシャノワール魔術学園と、その周囲に広がる学園都市には、多数の猫が暮らしている。
魔術師にとって猫は身近な生き物で、駆除の対象ではない。
とりわけ、
アレルギーでもなければ、嫌う人間は少ない。
学長もそれがわかっているのだろう。
ぴょんと跳んで、アニエスの膝に乗って丸まった。
「慰めてくださいますの?」
にゃあん、と鳴く。
猫の言葉はわからないが、アニエスは勝手に『肯定』の鳴き声だと捉えた。
「……そうなのです。わたくしは、やはり、ベルナールさまに愛されていないようです。いえ、元より親同士が決めた婚約ですもの。致し方ないとは、思うのです」
溜息を吐いて、学長の背を撫で、喉をくすぐる。
気持ちよさそうにゴロゴロ唸った。
「ですが、わたくしが気に入らないからといって、顔を合わせるたびに『成金の平民』『獣くさい牛飼いの娘』と公然となじるのは、いかがなものでしょうか。……傍らに、堂々と恋人まで連れて」
(桃色の髪の……
マドモアゼル・ペッシェ。
男爵位は決して高い爵位ではないが、平民であるアニエスからすれば格上だ。
公然の浮気であっても、婚約者であっても、咎められない。
豪農オベール家の資産がそのあたりの貴族を凌駕してようとも、アニエス自身の格が高いわけではないのだから。
婚約者からの暴言や、その恋人からの陰口(ありがたいことに、ちゃんと聞こえるように言ってくださる)を思い出し、少し目じりを拭う。
「……ごめんなさい、学長先生。こんな愚痴を言ってしまって」
言って、膝上に視線を落とすと、黒猫の目が弓の形になって、閉じていた。
(……あら。眠っておられますの?)
かわいい。が、困った。
そろそろ温室庭園を出て、化粧室に行って涙の跡をなんとかしなければ、次の授業に間に合わない。
膝上で気持ちよさそうに丸まっている学長をどうするか、しばらく思案してから、
「別に、もういいですわよね」
アニエスは考えるのをやめた。
(どいてくれそうにありませんし、次の授業は魔術史概論。ベルナールさまはおりませんけれど、マドモアゼル・ペッシェが受講されておりますから。)
どうせ、また聞こえるように陰口を言われるのだ。
取り巻きの女子たちと一緒になって、平民だのなんだのと。
「学長先生がどいてくださらないから、サボるのも仕方ありませんね」
ひとりきりなのに、そんな言い訳をしておく。
アニエスは学長の艶やかな毛並みをまたそっと撫でて、微笑んだ。
「学長先生が、羨ましいですわ。自由で、気ままで……。わたくしも、そう在れたらよいですのに。家のことなど気にせず、自由気ままに生きられたなら……」
かたん、と物音がした。
はっと視線を学長から上げると、温室庭園の入り口に見知らぬ男子生徒が立っている。
黒髪に、上質だが使い込まれてすすけたローブ。
両腕で分厚い書物を何冊も抱えている。
彼はアニエスとばっちり目をあわせてから、気まずそうに視線を逸らした。
「失礼しました。今日も、この時間には帰っているものかと」
「いえ。……今日
「……重ねて失礼。その、おひとりになりたいのかと思いまして」
(『お邪魔』に加えて『ひとりになりたい』とは、つまり……。)
かあ、と頬に熱を感じる。
泣いているのを、見られていたのだ。
しかも、毎週。
恥を感じながらも、淑女として礼をする。
……膝に学長がいるので、座ったまま。
「お気遣い、ありがとうございます。でも、結構ですよ。わたくしはただ、庭園の花を愛でているだけですので。いつも通り、読書なさればよろしいかと」
強がりだ。
相手もわかっているだろうが、指摘せず、目元を緩めて微笑んだ。
「そうですか。では、お言葉に甘えて」
対面のベンチに、どさどさと書物が積まれる。
(ほ、ほんとうに本を読み始めるなんて……。)
静かに本を読み始めた男子生徒に、少し気まずくなって、アニエスはなんとなく話を振った。
「そちら、クリューガーの魔術書ですわね。獣魔術の大家、ジャルマン連邦のクリューガー家……しかも、原本ですか。ジャルマン語はむずかしいと聞いておりますけれど」
ちらり、と書物から視線があがる。
目元が笑っているのが見て取れた。
話しかけたことを嫌がってはいないようだ。
「僕にとっては、ガリアンセーズの言葉のほうが難しいのです」
「あら、ジャルマン連邦からの留学生でいらっしゃいましたか。失礼いたしました、あまりにも自然にお話しされるもので……」
「嬉しい限りです。たくさん練習しましたから。でも、実は敬語しか喋れないのですよ」
茶目っ気のある微笑みにつられて、アニエスも笑う。
「あなた……」
言いかけて、はっとする。
「申し遅れておりましたわ。わたくし、アニエス・オベールと申します。失礼ながら、お名前は……」
「……ええと。できれば、クリスとお呼びください」
クリスさん、と口の中で呟いてみる。
質素な格好で、留学生で、勉強家。
(シャノワール魔術学園への留学生に選ばれた、隣国の平民ですね。成績優秀者なのでしょう。)
家名を名乗らないのは、家名のない平民だからだろう。
アニエスの姓オベールだって、父親がオベール村の出身だから勝手にそう名乗っているだけだ。
……他人の生まれを深く聞き込むのは、いまのアニエスには難しかった。
「クリスさんは、獣魔術にお詳しいのですか?」
「専門です。アニエス殿は獣魔術にご興味が?」
「わたくしも、いずれは専攻したいと思っております。とはいっても、その、使い魔や魔物の研究ではなくて。実家が畜産関係なもので……」
「オベール……もしや、豪農オベール家ですか? 平原の牧場主を取りまとめ、散逸していた牧畜技術を集約し、ひとつの企業体として成立させた、あの……」
アニエスがうなずくと、クリスは驚いて目を丸くした。
「これはとんだ失礼を。まさかオベール大牧場のご令嬢とはいざ知らず」
「令嬢と言っても、わたくしも平民ですから。……所詮は成金、です」
「卑下なさってはいけません。アニエス殿の父君、母君が辣腕を振るったからこそ、いまがあるのでしょう。……それとも、だれかにそう言われましたか?」
まだ少し熱を持つ瞳でクリスを睨みつけると、おどけるように両手を挙げた。
「おっと。踏み込みすぎましたね、ごめんなさい」
「……いえ。こちらこそ、失礼を。もう話しかけませんから、どうぞ、お勉強の続きを」
「では、そうします」
クリスは微笑んで、またぺらぺらとページをめくる音が続く。
アニエスは本を読むクリスをぼんやりと眺めた。
(……たしかに少しジャルマン風のお顔です。凛々しい目つきで……。)
「どうなさいました? 私の顔に、なにかついていますか?」
「いいえ」
そんな風に、たまに他愛のない会話を挟みながら時間が過ぎて。
講義終了のチャイムが鳴り響いたあたりで、学長が「ふにゃあ」と目を覚ました。
のんきに体を伸ばし、アニエスの膝から飛び降りて、ぽてぽてと庭園の木々の隙間に歩き去っていく。
猫だけが通れる抜け道でもあるのだろう。
「マイペースなにゃんこですね」
「……クリスさん、猫のことをにゃんこと呼んでおりますの?」
「辞書にはそう書いてあったのですが。……児童用の辞書だったからでしょうか」
凛々しい顔で真面目にそんなことを言うものだから、アニエスは思わず笑ってしまった。
「いいですわよね、にゃんこ。わたくしも学長先生たちのように生きたいものです」
「にゃんこのように、ですか。それはいいですね。しかし、残念ながら私たちは時間に縛られた生き物なのです」
「あら、哲学ですか?」
クリスは本を抱えて立ち上がった。
「いいえ。私たちは学生だ、ということです。では、次の授業がありますので、失礼いたします」
そう言って、さっさと庭園を出て行く。
黒衣の魔術師を見送ってから、アニエスもベンチを離れた。
涙はとっくに乾いていたが、念のため、どこかで身支度を整えたほうがいいだろう。
(……クリスさん。来週も、来るのかしら。いえ、さすがに気まずいですわよね。気さくな方ですけれど、もう来ないでしょう。)
申し訳ないような、寂しいような。
……少し、もったいないような。
アニエスは残念に思いながら、温室庭園を出た。
しかし、予想に反して、クリスは翌週も温室庭園を訪れた。
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