婚約破棄の破棄を破棄させていただきますわ。わたくしはもう疲れてしまいましたから。【黒猫学園短編集】
ヤマモトユウスケ
婚約破棄の破棄を破棄させていただきますわ。わたくしはもう疲れてしまいましたから。(1)
「アニエス・オベール! 現時点を以って、きみとの婚約を破棄させてもらう!」
パーティーホールに響いた言葉は、学期終了を喜ぶ学生たちの喧騒を止めるのに十分な大声だった。
内容もまた、注目を集めるのに十分な内容だった。
婚約破棄だ。
シャノワール魔術学園の若者たちが、興味津々になるのも仕方ない。
(仕方ない、と思うのですけれど。衆目を集めるのは、苦手です……。)
そう思って、アニエス・オベールは目を伏せた。
いつか来ると思っていた日が、ついに来たのだ。
学期末の試験を終えたあとの長期休暇前のパーティーという、公衆の面前で婚約を破棄されるとは思っていなかったが。
(うつむいては、いられませんね。)
全身にざくざくと突き刺さる好奇の視線に、四肢を切り刻まれるような錯覚を得ながら、アニエスは顔を上げた。
正面にいる男子生徒は、ベルナール・バルバストル。
金髪碧眼の美少年で、歴史の長いバルバストル伯爵家の長男で、アニエスの婚約者。
たったいま破棄されたが。
……傍らに、桃色髪の少女を侍らせている。
大きく胸の開いたドレスを着用した、肉感的な少女だ。
彼女を一瞥してから、アニエスはベルナールに視線を戻した。
「……理由をお聞きしても、よろしくて?」
「知れたこと。僕は真実の愛を見つけたんだ」
真実の愛、と言いながら、桃色髪の少女を抱き寄せる。
(ああ、やはり……。愛されていないのは、わかっておりましたけれど。)
その少女のことも、知っている。
いっそ毒々しいほどに鮮やかな桃色の髪と、豊満な胸部と臀部が熟した桃のようだから、内心でマドモアゼル・
婚約者であるアニエスのことを放って、公然といちゃついているのを、何度も目にしてきた。
……というより、何度も見せつけられてきた。
ベルナールは目を吊り上げて、アニエスを睨みつける。
「しかも、きみは我が愛に対して、陰湿な嫌がらせまでしていたそうじゃないか! 魔術史概論の講義のあと、ものを隠されたり、足を引っかけられたり……。陰湿なことだ。僕が受けていない講義で嫌がらせをするなんてね」
嫌がらせ。その言葉に、突き刺さる視線がいっそう鋭くなる。
アニエスは、肩を丸めて体を小さくした。
いっそ、消えてしまいたいくらいだけれど、家と己の名誉のために反論はしておかなければならない。
「……わたくしは、そんなことはしておりません」
「うそだ。我が愛の証言がある」
つまり、マドモアゼル・ペッシェがうそを吐いている可能性は考慮しない、と。
理不尽だ。
(けれど、それを言ってどうなるものでもないのでしょうね。)
だって、ベルナールは伯爵で、マドモアゼル・ペッシェは男爵位の家系だったはず。
対するアニエスは平民だ。
(わたくしの言葉は、信用が足りませんもの。)
黙ってしまったアニエスを追い詰めるように、ベルナールが意気揚々と続ける。
「そもそも、平民と婚約したことが間違っていたのだ。少しばかり金を持っただけの成金平民が、我がバルバストル家の爵位を狙っていたようだが、そうはいかないぞ」
「いえ、ベルナールさま。婚約はバルバストル家のほうから……」
「加えて! 加えて、だ」
アニエスの言葉を遮って、ベルナールが指を突き付けてきた。
「知っているぞ、あの貧相な留学生と密会していることは。ずいぶんと大胆な浮気ではないか」
呼吸が止まりそうになる。
慌てて、アニエスは声を張った。
「ク、クリスさんはただのお友達です! そのような言いがかりはおやめください!」
「どうだか。僕の目が節穴だと思うなよ? アニエス・オベール。きみが、僕という婚約者がありながら、あの留学生と温室庭園で逢瀬を重ねていたことは明白――」
「お待ちください、ベルナール殿」
そこで、待ったをかけたものがいた。
丁寧なガリアンセーズ語で割り込み、アニエスの前に立ったその男子生徒は、質素ながらも上質な魔術師のローブを身にまとった黒髪の少年だ。
「出たな、間男め! そんな尻軽でよければくれてやる」
「ベルナール・バルバストル殿。アニエス殿を尻軽とののしるならば、あなたこそ、そのそしりを受けるべきではありませんか?」
「なに!? 不敬だぞ、貴様!」
間男と呼ばれた少年……留学生のクリスは顔をしかめた。
「勘違いなさっているようですが、バルバストル殿。私はアニエス殿とそういう関係だったわけではありません。ただ、相談を受けていただけなのです」
「相談? ハ! 温室庭園という密室で、ふたりきりでいったいどんな不埒な相談を――」
「婚約者が浮気をしているけれど、家の立場も地位の違いもあるから、強く注意できない、と」
ぴんと張られた糸を断ち切るように、クリスが断言した。
「あなたはご存知ないでしょうし、知る気もなかったのでしょうが……」
クリスは告げるか少し迷うそぶりを見せながらも、言った。
「……泣いておられましたよ、アニエス殿は」
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