独り歩き
増田朋美
独り歩き
その日も暑い日であった。それでも、日常というものは続いていくもので、こんな暑い日でも、いつもどおりにご飯を食べて、暑い暑いと言いながら生活していくものであるが、もうこんな生活なんて!と思ってしまうほど、暑い日であった。
その日、杉ちゃんたちは、いつもどおりに、水穂さんにご飯を食べさせようと、奮戦力投していたところであった。のだが、
「ごめんください。磯野水穂さんはいますか?」
いきなり女性の声が聞こえてきたのでびっくりする。杉ちゃんがとりあえず、
「ああ、暑いからとにかく入れ。」
と、言うと、
「そういうんだから、大丈夫よ。入って。」
というのだから、誰かが一緒に来たということであった。でも、その人は、こんにちはも言わないし、何も挨拶もしない。
「はあ、一体誰か一緒に来たのかな?」
杉ちゃんと水穂さんは顔を見合わせた。すぐに鶯張りの廊下が、二人分の足音をけたたましい音で鳴らした。
「こんにちは、今日はね、あたしが所属しているサロンで、有名な人を連れてきたの。ぜひ、彼の演奏を聞いてほしいと思って。」
そう言いながら入ってきたのは、ブッチャーの実の姉の須藤有希である。そして一緒にやってきたのは、なんだか真っ白な顔をしていて、とても頼りなさそうな、一人の男性であった。
「紹介するわ。私の友達の、藤井さん。名前は藤井由紀夫さん。私、今年から、サロンに通い始めたんだけど、そこで知り合ったの。見ての通り、障害があって、お話はできないけど、紙にかけばだいたい通じるから、それで仲良くなって。」
有希は、そう言って彼を紹介した。深々と頭を下げた男性は、やはり挨拶も何もしなかった。
「サロンというと、何かなあ?」
杉ちゃんがそう言うと、
「そういえば前に理事長さんから聞いたことがありますよ。廃店になったスーパーマーケットを買い取って、精神障害のある人がそこに通ってるって。」
と、水穂さんが言ったので、そういうシステムのある、福祉施設なのだとわかった。
「それで、今日は、何をしにここへ来たんだよ。」
杉ちゃんがそう言うと、
「だから、彼の演奏を聞いてほしいの。よろしくおねがいしますよ。なにかコメントしてちょうだいよ。」
有希は、彼をピアノの前に座らせた。
「はあそうか。じゃあとりあえずやってみな。そういう口の聞けないやつの演奏って、興味ある。」
杉ちゃんが言ったので、藤井由紀夫と呼ばれた男性は、そのとおり、ピアノを弾き始めた。有希の説明によると、飛び上がるというタイトルのピアノソロ曲なのだが、ピアノ曲にしては和声も、調性も、曲の形式もクソくらえになっているようで、水穂さんが思わず、
「なんだか、現代音楽の典型っていう感じですね。ショスタコーヴィチの交響曲に似たものがあると思います。」
と呟いたほどだった。
「そうだねえ。僕から言わせると、ジャイアンの歌よりもひどい。」
杉ちゃんがそういうのも無視して、彼は10分ほどあるその曲を弾き終えた。
「どう?なにか感想を言ってよ。彼の演奏、すごいものがあるでしょ。」
有希に言われて、
「そうですね。確かに、ショスタコーヴィチの曲に近いものはありますね。現代音楽で有名な牧野由多可の作品にも近いと思いますよ。でも、一般的に受け入れられる曲ではないのではないでしょうか。」
水穂さんは、正直に言った。
「そうそう。言わせていただければ、有害人物である澤井の作品よりひどいよ。まあ、褒め言葉と受け取ってくれや。今でこそ、ザ・フーみたいに、暴力的な演奏で人気ものになったバンドもあるくらいだから。」
「そうですねえ。沢井忠夫さんは、確かに画期的なものがあるんですけど、楽器を神聖なものと捉える人にとっては、そう見えるかもしれませんね。」
杉ちゃんに言われて水穂さんもそれに合わせた。
「そうそう。そんな派手なパフォーマンスしなくてもいいと思われるほど、今のやつはオーバーアクションで有名なやつ多いからねえ。まあ、そのくらいだと思ってや。」
杉ちゃんがそう言うと、廊下から、拍手が聞こえてきたのでまた杉ちゃんたちはびっくりする。
「今の演奏、ピアノでは確かに暴力的かもしれませんが、邦楽にしてみると、また違うかもしれませんよ。ぜひ、お琴で演奏させてください。よろしくおねがいします。」
「花村さん!」
やってきたのは、間違いなく花村さんであった。
「廊下を歩いていたら、演奏が聞こえてきたものですから、最後まで聞かせていただきました。邦楽の世界では、こういう演奏が多く行われていますから、ぜひ、邦楽に編曲させてもらいたいです。」
「はあ、そうですかって、こんな不協和音だらけの曲が、繁盛すると思う?」
杉ちゃんが急いでそう言うと、
「いえ、大丈夫です。こういう型破りな作品は邦楽ではよくあることなので。いろんな人が、こういう作品作ってますから、その中の一つとして、採用させていただきたいです。」
と、花村さんは言った。
「そうなのねえ。まあ、邦楽の世界はまた違うのかなあ。僕はよくわかんないが、とりあえず、そういうことだったら、採用してもらおう。ピアノと琴ではまた違うからねえ。」
杉ちゃんが間延びした声でそう言うと、
「とりあえず良かったじゃないの。花村さんに採用してもらって。これで、あなたも疫病神から脱出できたじゃない。それなら、ここへ来て、本当に良かった。」
有希は嬉しそうに言った。
「藤井さんとおっしゃいましたよね。先程の作品の譜面をいただけませんか?」
花村さんに言われて、藤井さんは、カバンの中から、手書きの譜面を取り出して、花村さんに渡した。譜面は手書きの譜面で、書き直したところが少しもない。多分、即興で書いたんだろう。そうなると、余計に彼の曲に対する能力というものは、すごいものだということになる。
「それでは、少し手を加えさせていただくかもしれませんが、こちらを邦楽で演奏させていただきますね。また、デモテープができたら持ってきます。」
花村さんは、風呂敷づつみを開けて、楽譜をその中にしまい込み、風呂敷づつみを閉じた。藤井さんと呼ばれた男性は、花村さんに向かって丁寧に座礼した。もともと口が聞けないので、態度で示すしかなかった。
それから、数日たって、有希のもとに、カセットテープが一本送られてくる。今どきカセットテープとは、おかしな事かもしれないが、差し出し人は、花村義久さんであった。有希はカセットテープを、プレイヤーに入れて、聞いてみる。確かに、独奏琴と、琴三面、それに低音楽器である17弦のために書き直されている。タイトルは、飛び上がるで同じなのであるが、ピアノのときのような、暴力的な演奏はすべてカットされていて、穏やかな邦楽曲に変貌していた。有希は、彼にとって大事なものが取り除かれてしまったようで、非常にがっかりしてしまった。もちろん、ショスタコーヴィチのような演奏はお琴ではできやしないから、それは、仕方ないことでもあるけれど。でも、こういう洗練された邦楽になってしまうと、なんだか、藤井さんが本当に書きたかったものとは違うのではないかと思ってしまうほどである。
付属の手紙には、演奏会で、演奏させてもらうと書かれていた。それを見て有希は、邦楽が、洋楽の助けを借りなければ成り立たないというのが、改めてわかったような気がした。
もう一度、繰り返して聞いてみるが、たしかに、暴力的なパフォーマンスを要求する曲ではなくて、とても、洗練された邦楽である。でも、それは、藤井さんが書いた曲とは偉い違いであるようなきがする。有希は、この曲を、藤井さんが書いたものではなく、花村さんが勝手に直してしまった、偽作のような気がした。そのうち、食事の合図があって、有希は自室から出て、食堂に行った。食堂のテーブルには富士市から発行されている、「広報ふじ」と呼ばれる広報誌が置いてあった。有希はそれを取って、読んでみると、イベント欄に、邦楽演奏会と書いてある。なんでも富士市内に存在する社中が集まって、演奏することになっているらしいが、もしかしたら、花村さんも、これで演奏するわけではないか。それなら、偉いことになる。有希は、演奏会に乗り込んでやることを決めた。
そして迎えた演奏会当日。有希は演奏会にいってみた。場所は富士市の文化センターだ。邦楽の演奏会なんて、出演者の身内か、あるいはよほどマニアでないと来ないことは、有希も知っていた。だから、演奏会はすぐ入れた。本当に閑古鳥が鳴いているという場面にふさわしいほど、人はこなかった。有希は迷わずに、椅子に座った。
それから五分ほどして、演奏が開始された。演奏される古典筝曲というものは、どうせ日本の季節感とか、松を称える歌とか、そういうものばかりである。今の時代には到底通用しないものが多くて、何も面白くない。中には、現代的なものを演奏した社中もあったが、それもどうせ変なロックのリズムを演奏しているだけのことで、何も面白くなかった。邦楽とは、そういう音楽になってしまっている。それをなんとか打破しようと試行錯誤しているというのが現状だと思う。
「それでは、続きまして、花村義久社中の演奏です。曲名は、飛び上がるです。」
と、アナウンスが流れ、花村さんの率いる社中が舞台に登場した。この社中も一般的な社中と変わらない。花村さんも、他のメンバーさんも、みんな着物を着て、立奏台と呼ばれる椅子に座って弾けるような台に載せたお事の前に座っている。邦楽の社中だから、指揮者と呼ばれる音楽をまとめるものは無いけれど、全員が楽器に手を載せたのを確認して、花村さんの合図で演奏が開始された。確かに、花村さんの演奏なので、それぞれのメンバーは演奏技術があって、やはりきちんとされている演奏でもあった。カセットテープに録音されているのとはまた違う、一体感があり、何故か有希は、藤井さんの音楽をぶっ壊したという気持ちにはなれなかった。曲は、ピアノで弾いた原作とは違い、三部形式になっていて、形式のあるものになっている。そのあたりも藤井さんの作ったものとは違うものになっていたが、演奏を聞いたものには、これだからこそ感動するのかもしれない。
曲が終わると、眠そうに聞いていた聴衆は、いきなり大拍手をした。花村さんは、社中のメンバーと一緒に琴の前に立って、一礼した。拍手は更に、大きくなる。もしかしたら、これは、花村さんの権力の影響かもしれなかった。それだって十分考えられるだろう。花村さんという人は、ある程度曲がったことでも通せるくらい権力のある人でもあったから。
とにかく、この演奏は大成功に終わった。それは間違いなかった。
それからまた数日立って、有希が何気なく動画サイトを立ち上げてみたところ、先日行われた花村さんたちの演奏が掲載されていた。もちろん原作は、藤井由紀夫としてクレジットされていたが、曲の八割強は花村さんが書いたと言っても疑いなかった。有希は、反論したかったが、曲を素晴らしいと称賛するコメントも多かったので、否定的な意見を書き込むことができなかった。
その日は、有希がいつも通っているサロンに行く日だった。有希たちのような障害のある人の社会的な居場所は、今の世の中どこにも無いことで知られている。一応、サロンでは何をしてもいいと言われているので、勉強しているものもいれば、なにかものを作っている人もいるが、雰囲気は決して明るい場所ではなく、どこか世の中から追い出された悲しみを、分け合うための場所でもある。有希も藤井さんもその一人であった。藤井さんは、今日も、五線譜を開いてなにか書いていた。曲が浮かんでくるのだろうか。有希は彼の姿を眺めながら、彼のような人は、花村さんのような人に助けてもらわないと世の中には出られないんだと思った。本当に可哀想だけれど、そうするしか無いのだ。
独り歩き 増田朋美 @masubuchi4996
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