忘れない記憶の記念日

志村麦穂

1 夫婦の記念日

「今日はなんの日だか覚えている?」

 私は彼に期待を込めて問いかけた。この日の、この質問を、今の生活と天秤にかけていた。彼とは結婚して今日で八年。仕方がない、潮時かもしれないと思わせてほしいのだ。

「もちろんだよ。ぼくたちが記念日を忘れられるはずないだろう」

 彼は事もなげに言ってみせた。同棲が結婚になって、結婚が日常になって。毎日のワイシャツのアイロンがけに、朝食のオムレツに、彼が反応を示さなくなって八年が経った。結婚当初は私が家庭に入ることに拘っていた彼も、三年、四年と経つにつれ、私が外にでることに構わなくなっていった。別に家計が厳しくなったわけではない。私への興味が薄れている、それだけのことだ。

「結婚して八年だね」

「あぁ、毎朝同じオムレツを八年間も食べ続けている」

「ごめん。たまには違うものを食べたいよね……私ってば」

「いやいいんだ。ぼくが君に言ったんだ。覚えているよ、毎朝好物のオムレツを作ってくれって。あの頃と変わらない気持ち、変わらない味さ。でも、最近はコレステロール値とかも気をつけなきゃいけない。分かるだろ?」

 彼はフォークでプレートのトマトをより分ける。オムレツを口にしたのも半分程度だ。

 彼は昔からケチャップは食べられるくせに、トマトが嫌いだった。昔は私が彼を気遣って作ったサラダも一口は食べた。オムレツも残すことはなかった。

「今晩はどうしようか?」

「いつもと同じさ。ディナーを予約してある。あの日の、あのホテルの夜景がよく見える最上階。君も覚えているだろう。夕方六時前には『思い出す』から、あの頃の気持ちのまま。ぼくたちが愛し合っていたことをしっかり確認できるだろうね」

「そうね、なにも変わっていないわ」

「そうとも、毎年やってくる気持ちも愛情もプロポーズしたときのまま。寸分たがわない記念日さ」

 念押しするように違わないと何度も言う彼。なにも変わらないと信じていた私。

 彼はほとんど口をつけることのなかった朝食を終えると、濃いコーヒーで流し込んだ。

「じゃ、また夜に」

 彼は『記念日』の詰まったカプセルの入ったピルケースを振って、仕事へと向かって行った。

 昔は何も言わなくても食べ終わった皿は流しまで下げてくれていた。昔の食事は彼と卓を囲んでいて、私の朝食は彼の残飯を片すことではなかった。

 私は今でも鮮明に思い出せる。彼だってそうだ。プロポーズを予感しながら、緊張で喉が通らなかったコース料理のメインディッシュのこと。なんどワインに口をつけても乾いた喉のこと。学生の恋愛みたいに我を忘れて貪り合った夜のこと。同棲とは違う、気恥ずかしさの入り混じった新婚生活のこと。すべて昨日のことのように、今からでも思い出せる。

 結婚記念日の詰まったカプセルを指の間で弄ぶ。

 ここ数年、この時期が近づくと思い悩む。飲まないべきか、飲んで思い出すべきなのか。

 私は覚えている。彼への燃えるような愛情を。傍に寄り添った心地よさを。彼だってそうだ、はっきりと私を愛したことを覚えている。記念日には、ふたりであの頃のような熱い愛を思い出す。

 私たちは過去をいつまでも覚えている。薄れることなく、鮮度を保ったままで、今日また思い出そうとしている。思い出は過去にならず、過去は現在に引き継がれる。寸分たがわぬ形のままで。

 しかし、現在は思い出ではない。

 あの頃の彼への愛情は変らないが、今の彼はどうだろう。私たちの愛はどうだろう。

 一年目の結婚記念日は今日まで思い出してきた。でも、八年目の記念日はどうだろう。彼は七年目の記念日と六年目の記念日の違いを指摘することなどできないだろう。一年目以降の記念日は思い出として残っていないから。彼が思い出すのはいつだって一年目の結婚記念日だけなのだ。

 私はきちんと覚えている。思い出を飲み込んで思い出さなくとも。七年目と六年目の違いも、なんなら五年目と四年目の違いも答えることができる。そして、八年目の違いも。

 私は洗面台の鏡の前に立って自分を見つめた。

 八年目に備えて美容院で伸ばしてもらった髪。朝から早起きして、アイロンで巻きウェーブをかけ、外用の気合をいれたメイク。下品にならない程度の赤みの強い口紅。整えたネイル。卸したての服。三か月かけて引き締めたお腹周り。

 あの頃と変わらない。いや、あの頃よりも努力した体。

 彼は気付かなかった。一年目と八年目の違いも。昨日と今日の私の違いにさえ。

 私は鏡の前で、手ずから巻いたエクステを引き千切った。

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