旅行の約束を女にすっぽかされた話

小紫-こむらさきー

縊鬼

「ああ、お兄さんどうしたんだいそんな真っ青な顔をして」


 喉が乾く。水が飲みたいな。水辺に行くでもいい。べたつく暑さの中、雑居ビルの合間を抜けて彼女と待ち合わせの場所へ向かおうとしていた。

 そこで聞こえてきたのは、少し尖った高さのある声だけど、耳から入るとざりざりとしたヤスリで頭の内側を削るような声。 

 立ち止まって目を向けると、妙に艶っぽい男が腕組みをしてこちらを見ていた。

 長く伸ばした黒髪を後ろで一つに括っている男は、見るからに怪しい。首元が大きく開いた黒のカットソーを着た男の首筋や手首からは刺青が覗いているし、耳には大小さまざまなピアスが、ところせましとぶらさがっている。

 スッと通った鼻筋と薄い唇。それに切れ長の瞳の真ん中はカラコンを入れているのか綺麗な金色の瞳が暗闇だというのに爛々らんらんと光っている。


「どうもしていませんが……」


 どうしたんだいと言われても……近頃、やけに気分が良くて夢の中にいるみたいだ。だから、真っ青な顔をしているといわれてもピンとこない。

 少し前までは毎日仕事に追われるばかりでつまらなかった。人が首を吊って死んだっていう事故物件に住まなきゃならなくなってヘコんでいたりもした。だけど、最近気になる女性も出来て、やっと幸せになれるかもと思ったんだ。

 新手の詐欺か? 顔は恐ろしい程きれいだが、うさんくさいことには変わりない。


「それならいいんだが……なぁ」


 だが、俺に声をかけてきた男のあやしく輝く瞳で見られると、嫌だとか、不躾だと思えないから不思議だ。


「クック……お疲れのようだね。どうだい? ちょっと付き合って欲しいんだが」


「いや、これから待ち合わせがあって」


 俺は、鞄の中に何が入っているのかを思い出して、その申し出を断る。やばいものではないが、見られて予定を邪魔されたり、説教をされるのはごめんだ。

 男色の趣味はないはずなのだが、目を細めて唇の両端を持ち上げるなまめかしい彼の微笑みは、まるで極上の娼婦を目の当たりにした時のような気持ちになる。


って女なら、急用が出来たらしい。相手は待ち合わせ場所に来るはずだから、行けないと伝えてくれって頼まれてさぁ」


 なんで、こいつは俺が女と約束をしていたのを知っているんだ? 

 二人でレンタカーを借りてY県に旅行へ向かうはずだった。だから、目の前に居る夢みたいに美しい男からの魅力的な誘いを断ったというのに。

 それならもう、誘いを断る理由なんてない。


「……ぐっ、なあ、焦るなよ」


 女に対しての怒りがじわじわと胸に湧き上がってきて、いつのまにか男の白い首筋に両手を絡めていた。

 苦しそうな声を上げた男に気が付いて、慌てて両手を離して後ろに仰け反る。

 一瞬、脳裏に「警察」という言葉が浮かんだが、男は怒った風でもなく、少し苦しそうに眉をひそめただけで、口元には笑みさえ浮かべている。


「二人きりになれる場所まで行こうか」


 まるで全てを見透かされているようだと思った。

 そっと首に当てていた手を解かれて、気が付けば俺は男に言われるがまま路地裏にある煌びやかな建物へ連れて行かれていた。

 名も知らない黒髪の男は手慣れた様子でパネルを操作している。すぐに、カタンと軽い音を立てて鍵が落ちてきた。それを手に取った彼は、こちらを見て微笑みながら手招きをする。


「あの……どうして」


「オレの趣味だ。あんたは好きなようにすればいい」


 狭っ苦しいエレベーターに乗り、誰もいない廊下を無言のまま歩いて部屋の扉を開く。

 室内に籠もっていたのだろうか。なんだか甘いような煙たいような不思議な匂いに包まれた。占いの館とか、雑貨屋のお香に似ている香りだ。

 ぼうっとしていると、強く腕を引かれてベッドの上に二人でもつれこむように倒れた。


「ほら、こういうのが好きなんだろう?」 


 胸に抱えていた鞄をグイッと取られて、中にある太い麻縄を取り出された。

 登山コースが描かれた雑誌が足下に落ちる。

 見られたくなかったモノを急に露わにされて、カッとなった俺はさっき知り合ったばかりの美しい男をベッドの上に押し倒す。

 砂糖を喉に詰め込まれたみたいだった。喉が燃えるように熱い。水が飲みたい。


 男を押し付けた白いシーツの上は、漆黒の花が咲いたようだった。

 長い髪の男は眉を寄せてくぐもった声を上げる。欲望のまま彼の着ている服を乱暴に脱がせた。

 男の細すぎずゴツすぎない程度の妙に色気のある体に描かれた絵に目が行く。毒々しい赤が目立つ曼珠沙華の花が左手首から肩に伸び、肩には黒いアゲハチョウが翅の脈の一本一本まで綺麗に刻まれていた。

 胸にはトライバルというのだろうか? やからだとかDQNが好むような模様で狼だか犬が描かれている。

 なんでこんな人が俺なんかに話しかけたんだ? 色々なことを考えようとするけれどなんだかうまく頭がまわらない。

 真正面から男に覆い被さるように襲いかかり、欲望のままに男の首筋に歯を立てた。艶っぽい嬌声が耳から頭に染みこんでいき、上等な酒を飲んだときのように酩酊めいていしたような感覚に陥る。

 妙な雰囲気の男だと思いながらも、俺は欲望に身を任せるようにして名も知らない彼に馬乗りになる。


「お兄さん、真面目そうな見た目によらないコトするんだねぇ」


 首に両腕をかけられたまま、男はからかうようにせせら笑う。

 グッと体重をかければ男は苦しそうに表情を歪めた。けれど、口元には相変わらず薄ら笑いを浮かべている。


「なあ、あんた……おかしいと思わないのか? ここまで来て、やることが男の首を絞めることだって」


 喉が渇く。

 喉が乾く。

 のどが、乾く。


 男の声が、耳には入ってくるのに、何を言っているのかが、わからない。


「あんたの家、事故物件なんだってなあ。首つりが三件も四件も続いてる家。一ヶ月だけ住んでくれないか? って上司から頼まれたんだよな。それで、あの家で過ごしていて、なにもなかったのか?」


 聞こえないけれど、こいつが聞きたくないことをずっとまくし立てているのはわかる。首を絞めているのになんで話すんだ?


「うるさい! 黙ってろ」


 うるさい。

 うるさい。

 更に力を入れて首を絞める。


 けれど、俺を見上げている男の金色をした目は、爛々らんらんと輝いている。

 喉仏を強く押すと、ゴホッと咳き込む音がする。

 体重をかけるけれど、男は一瞬だけ表情を歪めただけで、またすぐにニタリと笑った。

 化け物なのか、それとも、これも、夢なのか。


「いやだね。静かにしてくださいと言えば黙ってやらないこともないが、俺だって気になることはある。なあ、ちゃんと考えてみろよ。あんたは朝から夜まで働いていてせっかく知り合った女とも満足に遊べない。相手の女は風俗で働いていて自分の事を客以上として見てくれているのかわからない。そんな状態で夢見心地になるくらい幸せだって? 嘘を言うなよ。それに……あんた、旅行へ行くなんていっていたが……」


 指先に力を込めるのに、男はなんでもないかのように喋り続ける。話している内容は相変わらず脳の表面をぐるぐる撫でるようにキチンと頭に入ってこない。

 普通の声量で話しているはずなのに耳が痛い。頭が痛い。

 うるさい。

 うるさい。聞きたくない。黙ってくれ。

 どうにかしてこいつを黙らせろと耳元で低い声が聞こえた気がした。


「黙れ!」


 喉が痛るほどの大声が口から出ていた。

 でも、男の表情は変わらない。首を絞められているとは思えないくらい美しい顔。俺をバカにするような嘲るような、なにもかも見透かしているような、声。


「聞いていたか? オレを黙らせるなら、静かにしろってちゃんと言ってくれよ?」


「静かに……静かにしてくれ」


「ああ、いいよぉ」


 男の声が、ワントーン下がったような気がした。

 それと同時に俺の体が動かなくなり、馬乗りになって見下ろしていた男の、金色の瞳が中心から徐々に鳶色へと変わっていく。


「ああ。縄、喉の乾き、青白い顔……。人をくびり殺したい衝動……。お前に憑いてるのは……縊鬼くびりおにだな」


 美しい顔をした男が、平坦な声でそっと呟いた瞬間、頭の奥が激しく痛んだ。

 目の色が変わっただけだと思っていたけれど、へらへらと笑っていて常に持ち上げって居た口角は綺麗な一文字を描いているし、目に宿る光もどこか冷たい。


「わざわざボクの首を絞めさせなくとも正体はわかったはずだが……今は不問にしよう」


 首元を優雅な手つきでなぞり、呆れるような声でそう言った男が、再びこちらを見下ろす。


「さて、縊鬼に憑かれているお前の処遇をどうするかだが」


 さっきまでのどこか嘲るような声ではなく、冷たく、刺すような声が俺に降り注ぐ。上体を起こした男と対照的に、俺の体は上手く動かないままだ。

 とても座ったままで居られなくなり、ベッドの上に転がるようにして倒れた俺は背中を丸めながら頭を両腕で抱え込んだ。


「運が悪かったな。あんたが狙ってたのはオレ達の大切なトモダチなんだ」


 強烈な獣臭と共に、耳元で軽薄そうな言葉が聞こえる。少し掠れたような声だが、さっきまで俺と話していた美しい男と似た口調だった。

 男が二人に分裂したのか? なんて思いながら、こじ開けるようにして無理矢理に目を開く。すると、男の足下には犬とイタチを足して割ったようなブチ模様の生き物が長い尾を振って立っていた。

 肉を噛み切るための鋭い牙。長い舌。湿った鼻……爛々らんらんと輝く金色の瞳。


「マダラ、食って良いぞ」


 人が変わったように冷たい口調の男が、俺にゴミを見るような視線を投げかけながらそう言い放って背を向けた。


「ひっひ……悪いな」


 笑いを含んだ声で親しげに語りかけてきた獣は、大きく口を開いて眼前に迫ってくる。目の前が真っ赤に染まって……そこで俺の記憶は途切れた。

 次に目を開いたとき、体が死ぬほど重くて、夢見心地だった気持ちよさはどこかへ消えていた。

 部屋には甘いお香のような匂いが残っていたが、綺麗な黒髪の男はどこにもいなかった。

 それから、ベッドの上に散らばっていた麻縄とY県の有名な自殺スポットに付箋の貼られた登山ガイドを見て鳥肌が立った。

 俺は、誘った女の子と一緒にY県の山へ行って首を括ろうとしていたのだ。あの男に会うまでは、それが良いことだと思っていたし、彼女も喜んでくれると信じていた。だが、目が醒めた後、急に自分が恐ろしいことをしていたことに気が付いて、縄もチケットも放ったまま逃げるようにホテルを出た。

 あれから、すぐに引っ越して管理会社を退職したし、例の彼女とも出会っていない。それに、例の美しい黒髪の男と出会った場所には近付いていない。

 なんとか転職をして、最悪ではないが、憂鬱な日常を過ごしながら、俺は時々あの時のことを思い出して身震いをする。

 彼と会わなければ、俺は、一体どうなっていたんだろう……と。

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