【距離1メートル/後半】まだ近い!

 リビングに続くドアを美優が開けると、スパイシーなカレーの香りが漂ってきた。

 何度も来ている家なのに、2人きりの今日は変に意識して緊張する。


 美優はそのまま、綺麗に片付いたカウンターキッチンの中に入り、炊飯器の蓋を開けた。白い湯気と共に艶々と輝くご飯が食欲をそそる。


(えーっと、ふむふむ。その皿に、ご飯をよそって、カレーはそこの鍋で、サラダはもう個々に盛り付けされてあるっと、飲み物は――)


「って、美優! 別に俺は話さないなんて言ってない! ジェスチャーしなくていい」


「えっ、ええ?! もぉ、光ちゃん早く言ってよ~。恥ずかしいじゃん」


 もう手振りをつけなくていいと言っているのに、美優は怒っているのか何なのか、両腕を曲げて拳を握り、胸の前辺りで左右にふりふりと振っている。


(それは何なのか……わかんないけど、とりあえずアイドルみたいにラブリーだよ!  みーちゃんっ! )


「か、勝手に勘違いしただけだろ。人のせいにすんなよな」

「光ちゃんのいじわるっ」


 くぅ


(今のは俺の心の声じゃない! いじわるって言うみーちゃんにくぅぅってなった俺じゃない! )


 お腹から可愛い音をさせた美優は、顔を真っ赤にして、急いでしゃもじを持って大袈裟に振り上げる。


「光ちゃん、お腹空いたでしょ? 早くご飯食べよっ」

「はいはい」


 こういうのは指摘しないでやるのが優しさだ、と美優の歳の離れた兄が教えてくれた。美優は隠そうとしているが、なかなかのブラコンである。一人暮らしをしている美優の兄はあまり実家に帰ってこない。たまの帰宅は美優のツンデレモードを発動させるので、俺はそれを眺めるのが大好きだ。


(みーちゃんのツンデレモードは朔兄さくにい限定だからな~。俺も妹欲しかった)


「ちょっと、光ちゃん。ご飯食べないの? 」

 立ったまま妄想してにやけていたら、美優がこちらを怪訝な顔で見つめていた。


「わりぃ、ちょっと考え事」

(妹verみーちゃんの)


 俺はご飯とカレーをよそった。

 美優の家のご飯を食べるためのテーブルは長方形で4脚椅子があり、普段は長辺に2脚ずつ椅子が置いてある。


 用意が整って後は食べるだけなのに、無駄にくそ真面目な美優は変なことを言い始めた。


「ねぇ、光ちゃん。私達って今日はどのくらい離れたらいいの? まだ『』初日だからイージーモードだよね? 」


「へっ? なにそれ? 明確な距離なんてないけど? 」


「光ちゃん! ちゃんとやらなきゃ駄目だよ! 練習で出来ないことは本番でも出来ないって先生にもいつも言われてるでしょ? 」


(それは剣道部顧問の言葉かい? そもそもこれは本番なんてないけれど……?)


 何故だか俺を見つめる美優の目は少し潤んでいた。


「私……嬉しかったんだよ? だって、本来練習出来ないものを光ちゃんがやろうって言ってくれたから! ネットでも書いてあったもん。『練習なんてない。ぶっつけ本番だ』って! 」


「美優、なんか勘違いしてる?  俺は距離を取る練習をしようって言ったんだけど」


「違わないよ。私ちゃんと分かってるもん。だから私は一生懸命頑張ってるの」


 美優は今度は俺の顔をちらちらと見ながら、もじもじと身体を揺らし始めた。


(恥じらいがあって異常に可愛いけど、なんだ? )


「んーと、まぁ、じゃあ1メートル?  学校の席の距離ってそんなもんだろ? 」


 俺の言葉を聞いた美優はショートパンツのポケットからメジャーを取り出して、なんとテーブルの距離を測り始めた。


 いつもの対面だと遠かったらしく、長方形のテーブルの短辺と長辺に90℃の角度で隣り合う。


 くぅぅぅ


「――これでばっちりだよ、さぁ食べよう!」


 さっきよりも大きなお腹の音には、つい顔を背けて笑ってしまった。美優は何故か腕を回して誤魔化そうとしている。


(みーちゃんっ! 俺を萌え死にさせる気かっ? 耳と目が幸せだよ……)


 具材たっぷりのチキンカレーに、海老とゆで卵、ブロッコリー等の入ったサラダがテーブルに並ぶ。


「「いただきます」」


 部活終わりでお腹が空いていた俺達は、ろくに話さずにもくもくと口を動かす。


 お代わりしたカレーライスを俺が平らげたとき、美優が話しかけてきた。


「今日筋トレきつかったねぇ」

「あぁ、もう腕ぱんぱん――」


 少し机から乗り出した美優の腕が俺に向かって伸ばされる。目の前にはフォークに乗ったゆで卵。


「はい、あーん」


 フォークに刺さっていない卵は、揺れて落ちかける。落ちないように俺は――


 ぱくっ


 フォークごと卵をキャッチした。口で。


「筋トレ後はたんぱく質がいいんだって」


(あーんって、えっえっこれって……)


「ふふふ~」


 自分のフォークを両手で握りしめた美優が1メートルの先で幸せそうに笑う。


 緊急事態に理解の境地を越えた俺の脳みそは何故か、4等分のゆで卵を丸のみするよう指令を出した。


「ぐぉっ」


 卵の黄身が俺の喉に絡み付いて苦しめる。


「光ちゃん!」

 美優が麦茶の入ったコップを渡してくれたので俺はそれを流し込んで、苦しみから解放された。


「あ、ありがと。美優」

「へへっ、2回もしちゃったぁ」


 その言葉によく見ると俺のコップは右側にちゃんと置いてあって、俺が持っていたのはウサギ柄の美優のコップだった。


(昔から美優のことは女の子って意識してたから、したことなかったのに。

これは、これは、始めての……)


「光ちゃん、ファースト間接キス・ダブルアタックだね」


「なっなっ……」


「約束通り1メートル離れてるもんね。オッケーだよね! 」


「だ、だめだっ! まだ近い! 近すぎる!!」


 俺の声はファースト(間接)キスの嬉しさと悲しさに大きく響いて、

「顔真っ赤だよ? 」という美優の声は弾んでいた。



 もっと遠距離で練習する必要がある。

 俺の心がこの無邪気な小悪魔から一生離れなくなる前に。


 俺は『身の丈にあったラブコメ』を望んでいるのだから。

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