第一章 『家』あなたは私を通りすぎる

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 空気に水気がふくまれただけで、身体からだが重たくなるのを感じる者は少なくないだろう。

 六月のじゆん……東京はまだも明けていないのに、年々夏が長くなっていっているような気がする。もうすっかり気温は三十度近いし、雨が降った後もすずしくなるどころかし暑いとさえ感じる気候だ。

 それでも公共のせつならばたいがいの場所はれいぼういているから、不快な思いをするのは徒歩や自転車での移動の時ぐらいで済む。

「もうすぐ夏か……」

 ふとつぶやいた独り言に、改めてこの季節を実感させられる。

 早く夏が来て、そして夏が終わればいい。

 いつだって夏が来るのをうとましく思っている。

 ──あの時から、夏がきらいになった……。


 大学へ向かうために駅前を急ぎ足で歩く青年──かれの名は、とうとおる

 どちらかと言えば背が高く、下半身のコンパスも広めの青年は、器用に人の流れを読んですいすいと目的の場所に向かって歩く。

 まるで透の足もとだけ別の時間が流れているように、なめらかな動きだった。

 ある意味、彼が今の時間をきよぜつしているのかもしれない。周りからあたえられる音、熱、人の存在そのものをなかったようにして。

 節電と言いながらも流れ落ちたあせを十分に冷やしてくれるだけの冷房が利いた電車に乗ると、車内では小さなスクリーンでお昼のニュースを流していた。国会の予算審議、芸能ニュースではだれかがけつこんを発表したとか、そしていつぱんニュースでは事件や事故が報道されていた。

 まもなく目的の駅。降りるぎわに、ニュースのテロップが目に入った。


『なお、ゆく不明は東京都品川区……大学教授のゆうづきさとさん(56)……』


めずらしい名字だ……でも、どこかで聞いたことがあるような──)

 大学教授だと言っていたが、少なくとも透がざいせきしている学部の教授ではない。そもそもどこの大学なのか。

 一体、どこで聞いたことのあった名前なのか。

 多少気にはなったものの、大学りの駅で降りた時に、勢いよく雨が降り出してきた。カバンからたたがさを出している間に、そんなモノ思いは忘れてしまった。

 今日は一日中降ったりやんだりの天候になると、予報では言っていた。

(帰りにはやんでいるといいけどな……)

 ぼんやりとそんなことを考えながら、歩き出す。

 その時五メートルほど前を、友だちといつしよに歩いているひとりの女性の後ろ姿が彼の目に止まった。楽しそうに笑う、かたを過ぎるぐらいの長いかみと、あわい桜色のワンピースが、とうめいなビニールの傘の下から見える。

 かのじよのことを知っている。もう十年も前から、知っていた。

 彼女は自分が後ろにいることは気づいていないだろう。それでも視線が合わないように、こちらに気づかないように、注意深く、そして自然にふるう。彼女は友だちとのおしゃべりに気をとられたまま、透とはちがう校舎の入り口に向かっていった。

 ──それでいい。

 ぐうぜん、同じ大学に通うことになって、こうして通学路でニアミスすることはあっても、おたがいに話しかけることはしない。何も悪くない。ケンカをしたのでもなければ、悪意があったのでもない。ただ気まずいだけ。

 彼女とこの先、話すことも友人として接することもないと、透はその時思っていた。

 透はとある過去から、彼女だけでなく、周囲の人との深い付き合いをけていた。

(誰かと一緒に行動するのは、もうごめんだ)

 先ほどかつての〝仲間〟の少女が友だちと仲良く歩く姿を後ろからながめていた透は、心の中でそう呟いた。今も学校内での人付き合いを避けるため講義が入っていない水曜日の午後は、学校側がしゆうしていた何かしらの雑用──アルバイト的なものを引き受けていた。

 今現在たのまれている雑用は、来年度の入学希望者への見学会用に用意するガイダンスの冊子編集だった。夏期きゆうの間に学生が見学に来るので、六月中に印刷に出さなければならないのだという。印刷する前にページ順がちがっていないか、必要なことは入っているかなど、用意されたチェックこうもくしるしを付けていく。もくもくとひとりでする作業はとても気分的に楽で、悪くないバイト料も保証されていて、透は満足していた。

 いつもの毎日──そして、それがいつもと同じように過ぎると、透は思っていた。

 黙々と作業を続けていた透は軽くろうを感じ、肩のストレッチをしながら窓の外に視線を向けた。窓の外はまだ雨が降り続いている。おおつぶの雨は窓をしきりにたたいていたが、それ以外の音がない世界では音楽のように思えた。そんな雨の音を聞きながら作業を進めようと、再び透は手を動かす。目の前にある紙のたばは紙の下部に小さくページ番号がってある。それとわたされていた資料と見比べて、間違いがないか再びチェックする。

 ふと、表紙にえがかれた学士ぼうをかぶったコミカルなフクロウの絵が目に入った。

 フクロウは知恵のしようちよう、森のけんじやとも呼ばれている鳥。そう呼ばれているのかは知らない……いや、知らなかった。

 知らなくて、教えてくれた人がいた……。

(──フクロウはね……)

 いつしゆんおくとびらがこじ開けられそうになるが、無理やりめる。夏になるとふと思い出す記憶。どこまでも続く森、そしてフクロウの鳴き声。忘れたかった思い出だらけの夏。

 透はフクロウの絵を裏返しにして、作業の手を早めた。


**********


 十六時半。

 帰宅するころにはすっかり雨は上がっていた。あまけのビニールをかけられた夕刊を取り出すため、キーチェーンからポストのかぎを取り出して開いた。夕刊を取ってくるのは、子どもの頃からの習慣のようなものだ。

 この日の夕刊の一面は新法案についての話題。そしてソーシャルゲーム業界のとあるしんこう会社がおどろくべき急成長をげているという話題。医薬品の取引に関する新たな問題など、どれもこれも、今の透には関係ない話に思えた。

 ──そして。

「っと、セーフ!」

 新聞と広告のすきから、一通のふうとうこぼれ落ちそうになった。れた地面に接する前に、からくもその封筒をつかみ取る。あてに書かれていたのは、父でも母でもなく、自分の名前。

おれての手紙?)

 今時のれんらく手段はメールがつうだ。郵便物は書類を入れる必要があるものとか、文章だけでなく実物を送らなければならないこうが大半だ。だから自分宛てに何のへんてつもない封筒──どこかのぎよう名とか、店の名前とか書かれていないもの──が届くのは不思議な感覚だった。

『藤家 透 様』と、ワープロ印字された文字が表面に書かれている。

「俺に手紙なんて……誰だろ?」

 とりあえずまた落としそうになって濡らすのも困るので、透は家の中に入った。

 新聞をテーブルの上に放り投げると、手紙を裏返してみる。そこに差出人の名はなかった。少し変だな、と思いながらもあまり気にめずにふうを開ける。

 中から出てきて最初に目に止まったのは、トランプぐらいの大きさのカード。

 それにはピエロのような絵が描かれており、絵の下には『私は最も弱く、最も強い』という文章が書かれていた。

(どこかで見たことあるような……気のせいかな?)

 みようかんのあるカードに一瞬、何か思い出しそうになった。けれど自分の中でどこか記憶をり起こそうとするのをやめてしまう。

 封筒の中身をかくにんすると、何枚かの便びんせんと、とある場所までの旅券が入っていた。便箋を広げて手紙を読んでみると……。


『藤家 透 様


 この手紙が届いた時、きっと奇妙な気持ちになっているでしょう。

 手紙の最後に差出人であるぼくの名前を書きますが、できれば『誰だったか』と思い出しながら読んで下さい。もし、思い出した名前と顔が、最後に明かす僕の名前といつしてくれれば幸いです。

 十年前、ほんの数週間ですが一緒に過ごした仲間──あの日を覚えていますか?

 現在僕はとあるエンターテインメント制作会社を経営しています。

 今回、豊かな自然かんきようの中でカードゲームをするというかく『カンズ』のサンプリングをじつすることになりました。このサンプリング・ゲームに、あの時の仲間であるみなさんに、参加、協力してもらいたいと思い、手紙を出しました。

 かいさい期間は八月の十三日~十五日の二はく三日。ゲーム開始は十三日のとうちやく後より十五日の午後六時まで。

 もしこの手紙をあやしいとか、何かのじゃないかと不安に思われた場合は、六月の第二火曜日に発売されるゲーム雑誌『月刊デュエル』をご覧下さい。そこに僕の会社の広告と共に、この『カンズ』イベントの企画をさいしています。

 そこに書いてあるホームページアドレス(雑誌を入手しなくてもこの手紙の下記にアドレスが記載してあるのでご安心を)にログインして、トップページにあるユーザー登録ページからこの手紙の最後に書いてあるパスワードを入力してログインして下さい。

 ログイン後に参加者専用のけいばんに切りわるので、様々な情報を確認できると思います。

 つまり、ちゃんとしたスポンサードのあるプロジェクトのいつかんであります。

 もちろん、個人的に同窓会としてみんなに会えるのをとても楽しみにしているので、参加してくれることを願ってやみません。

 ゲームに参加してもらえれば、サンプリングのほうしゆうとして、二泊三日の行程で十万円の謝礼金を用意します。

 そしてゲームで、好成績を残した参加者にはべつ、賞金を用意しているのでご期待下さい。もちろん、たいざい中の食事から必要品まで用意しますので、身ひとつで気軽に参加してもらえれば幸いです。

 ただし、どうふうしたカードは後で必要になるので、忘れずに持ってきてほしいのと、他の参加者にカードのがらや内容は言ってはいけないことをお約束下さい。

 ゲームに不正があった場合には賞金はもちろん、謝礼金の減額にもつながるからご注意を。

 またその間はけいたいやタブレット、その他の電子機器などではきんきゆう時以外、外部と連絡を取れなくなるのでその期間にどうしても連絡を取らなければならないなどの事情がある人は前もって教えておいて下さい。

 気になるゲームの賞金は、当日のお楽しみです。

 ちょっとだけ明かすなら……少なくとも勝者は百万円以上になるのは約束します。だから、本気でゲームにいどんで僕の会社のサンプリングに協力してくれることを願っています。


 開催場所はあの十年前の森──旅券も一緒に送付しているので、もし参加できない場合は僕に一報して、お手数ですが返信用封筒を改めて送るので、旅券や同封したカードの返送をお願いします。

 また希望者がいる場合には自宅から会場までのそうげい車を用意するので、その場合にも旅券の返送をお願いします。

フォレストAC CEO 夕月 そら


 手紙はそこまでで、もう一枚の紙にゲーム参加者への注意事項やめんせき事項などのようこうが入っていた。その細かい書類を読む前に、透の中で記憶の扉がこじ開けられていく。

 宛名──夕月空、その名前に覚えがあった。

「夕月……あ──」

 透はTVのスイッチを入れ、取り入れたばかりの夕刊の記事も見る。そこには最近TVでCMをやっているゲーム会社の名前と、夕月空の名前と写真が出ていた。

 確かに、その顔を知っている。あの手紙が本当に彼から来たのか……もしかして自分と彼との過去を知っている第三者のけた詐欺か何かではないかとも心配になる。

 とにかく情報を求め、TVらんでニュースのやっている番組を探す。

 だが時間的に天気予報やバラエティ番組に切り替わっており、ニュースが始まるのはもっとおそい時間まで待たねばならない。

 手紙をにぎりしめたまま、透は自室にもどるとPCのスイッチを入れた。

 ウェブのけんさくらんに名前を入れて検索する。

『夕月 空』

 いくつもの記事が出てきた。

 検索ワードで彼の名前と共に出てきた夕月空のかたがきは『ゲームクリエーター』であった。しかも彼の制作したゲームは国内だけでなく海外でも人気が非常に高く、人気シリーズはハリウッドでの映画化も予定されているというじようきようだった。

 空がこの業界に入ってから四年目らしい。十八の頃から空はこんな世界的に有名なクリエーターとしてかつやくしていたのかと知った透は、驚きと共にみような胸の痛みを覚えた。

「あいつ、こんなにすごいことを……」

 空は子どもの頃から並はずれた知能を有していたが、身体が弱く、世間知らずなところがあって、いつも透のことを「リーダー」としてたよりにしてくれていた。

 透が感じている胸の痛みはたぶん、くやしさに似たような感情。

 自分をずっと頼りにしてきた空が、ただのいつかいの大学生である自分とはおよそかけはなれた世界で活躍していることに対してのせんぼう

 少しほこらしくて、少しうらやましい。

 だが、そんな書き込みの他に、つい最近こうしんされたニュース記事が引っかかる。


『ゲームクリエーター、夕月空氏の母でもあり、T大学教授の夕月聡子さんが○日の夜、大学の研究室を出てから行方がわからなくなっている。警察は事件と事故両方の可能性で──』


「……そう、か──」

 偶然なのか、十年ぶりのコンタクトがなければ思い出したりもしなかっただろう。消印を見ると、少なくともこの手紙を出した後に空の母親は行方不明になったのだ。

 ある意味、十年ぶりの同窓会的なさそいではあったが、こんな時にどう返事をしたらいいのかわからなくなる。しゆさい者の母親が行方不明で、全国のTVで放送されているなんて──。

 不意に今日の登校時に『彼女』を見かけたことも頭の中で繫がり〝偶然〟と呼ぶにはあまりにも心が落ち着かない。とにかく情報を──。

 手紙に書かれていたアドレスを打ち込む。とても短いドメインだったので、あっさりとそのページに辿たどりつく。もっとも、検索ワードでも問題なくヒットはしただろう。

 自動的に最新作のプロモーション・ムービーが再生され、思わず目を見張る。音楽も映像も、そしてナレーションも、だんゲームをしない透から見てもどこか心かれるものがあった。

 空の上に城があり、海の底に王国があり、森の中にようせいすみがある。

 子どもの頃に夢を見たような世界が、そのまま形になった──。

 ひどなつかしい気持ちと共に、どこか切なく、さびしさが込み上げてくる。いつから自分たちはそのような世界を忘れてしまったのだろうか。

 あの頃の自分はばんのうだった。望めば空も飛べると信じていた。どこに行けばいいのかわからなくても、どこに行ってもいいのだという自由に満ちあふれていた。

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