第9話 聞いてやるしかないじゃん

(お兄様があんな危険因子と出掛ける……そんなことあってはなりません。

しかし、あたしは彼の妻です。ここは彼の選択を信じて笑顔で送り出してあげるべきでしょう。でも、嫌なものは嫌ですね。どうしましょう)


 杏里もいろいろ考えているんだろうが、表情から察するにあまり機嫌はよくなさそうだ。


「まぁ、話を聞きに行ってくるだけだよ」


 彼女の着ているテニスウェアは汗のせいで透けており、胸元や脇の下のあたりはかなり色っぽくなっている。そして、首筋には玉のような汗が流れ落ちていた。

 ゴクリ……。

 つい喉が鳴る。


「なに?」

(あ、お兄様、今あたしの汗で濡れた体を見ましたね)

「あー、なんでもない。汗の始末はちゃんとしろよ」

「言われなくてもやるんだけど、保護者面しないでよ」

(畏まりましたお兄様。ふふ、お兄様はこんなにどうしようもなく生意気なあたしにも救いの手を差し伸べてくださるのですね。大好きなお兄様になら、いつでもどこでもどんなことでもして差し上げますよ。さあ、もっと命令してください)

「あ、そうだ。彩音姉さんに今日は遅くなるって言っておいてくれ。それと、夕飯はいらない」

「ふん、早く帰って来てよ。でないとママがうるさいからさ」

(クソ姉の動向を調べるチャンスです。あの女は絶対にお兄様を狙っている。そうに違いない違いない違いない違いない)


 そう言いながら彼女はさっきみたいなギャップある内面と外面を見せながら体に染み付いた汗を拭き取ると、タオルを持ってコートへと戻っていく。

 練習に戻った杏里を見て、ふと思ったことがある。


「杏里って結構可愛いよな」

「えっ!? 今なんて言った!」


 いつの間にか背後にいた杏里がオレの言葉を聞いて驚く。


「ん? 杏里って結構かわいいよなって……」

「は? うざっ、そんな安直な褒め方しかできないとか、男としての程度が知れるんだけど」

(お兄様があたしを可愛いって、可愛いって褒めてくださった。これはもう結婚するしかないよね! そうだよ、この流れだよ。このまま一気にゴールインしちゃえばいいんだよ。よし、そうと決まれば早速婚姻届を用意しよう)


 杏里の顔は変わらずむすっとしているが、心の中は荒ぶっている。何か勘違いをしているが、ここで下手に突っ込むと本性が出る恐れがある。

 適度に褒めてこれ以上病ませないようにしたつもりだけど、これだけでここまで荒ぶると匙加減が本当に難しく、今後どのように接したらよいのか悩んでしまう。

――カシャッ スマホのシャッター音が聞こえる。


「へぇー、あんたがそんな事言うんだ。意外だわ」

「あ、いや、その……」


 ニヤニヤと笑う美咲がオレの後ろから顔を覗かせてきた。美咲は鞄を肩に乗せながら気怠そうにこちらに歩いてくる。


(あいつ英二と血の繋がった妹のくせに、たまに英二に対して女の顔を見せるんだよな。妹だからとスルーしていたが、もしかして……)

「じゃ、行くか」

「おう」

「で、どこ行くんだ」

「アタシの行きつけの店で良いか」

(アタシのこと、たくさん知って欲しい)

「それで構わないよ」


 美咲の事を知る機会だしな。


 美咲は少し嬉しそうな顔をしながら先に歩き出す。オレは彼女の軽い足取りを追い掛け、その後ろに付いていく。

 美咲に案内された喫茶店は木造の落ち着きある場所であり、店内はジャズが流れており、コーヒーの良い香りが漂っていた。

 美咲は慣れた手つきでカウンター席に座る。そして、マスターにアイスコーヒーとオレンジジュースを注文していた。


「ここの店がアタシの行き付けなんだ。雰囲気も良くて味も良い。それにアタシの格好を見て怯える奴もいないしな」


 制服の上に着崩したジャージを羽織る彼女の座り方はヤンキーそのものであり、大概の人は彼女の態度を見て敬遠するだろう。だが、ここは客があまりいないようで、そもそも怖がる人間が存在していないのだ。


「改善したりはしないのか?」

「そんな気はねえな。めんどい人付き合いをしなくて良いメリットも大きいしよ。そもそもデメリットがメリットよりも大きかったらとっくに辞めてるっての。別にヤンキーにこだわりはねえしな」


 椅子の上に裸足で胡座を描き、ニカっと歯を見せて笑ってくる。


「まぁ、そうだよな」

「喧嘩だって売られたら買うだけだ。噂だとアタシから手を出しているみたいに噂に尾鰭が付いているようでよ、まあ周りの奴らが勝手に離れてくれてるからそのままにしてるがな。どうせ言っても信じないだろうから現状維持だ」

(それにアタシには英二だけがいればいいし、他の人間はどうでも良かったりする。他の男も女もアタシには要らねえ。アタシを救ってくれたこいつだけがアタシの拠り所で良い)


 美咲は思い切りオレに依存しており、ヤンキーをやっているのはオレ以外の面倒、あるいは余計な繋がりを断ち切るためという、計算高い一面をあらわにしている。

 彼女の心は脆く、壊れやすい。だからオレが守ってあげないといけない。


「お前ってあの生意気な妹にも優しかったんだな。前はもっと仲悪いと思ってたぜ」


 彼女の考えは概ね当たっており、表向き意地悪く接してくる杏里との仲は悪かった。

 アイスコーヒーを飲みながら、妹がしてきた邪険にしてきた演技を思い浮かべる。あれらの迫真の態度がみんな演技だったとは俄かに信じ難いが、暴力などの物理的な攻撃を未だに受けたことが無いなど、根拠が全く無いわけではない。

 褒めると確実に動揺するのもあって、杏里がオレに好意を抱いているのは決してオレの妄想で終わるものではなく、現実に起こりうる可能性があることも理解している。


「あいつが素直になれないのは知っている。だけど、本当はあんな感じの子じゃないんだ。仲良くしてやってくれないか?」


 美咲はストローを噛みながら、視線を外し黙ってしまう。修羅場を避けるためにはヤンデレたちの仲を取り持つのも必要なことであり、オレ以外の関係を作ることは彼女達の精神安定剤にもなる。

 オレにばかり依存していては、いつかどこかで破綻してしまう。だからと言って監禁ルート突入の危険から突き放すこともできない。やんわりと距離を開けることすら、特大の地雷を踏み抜くだろう。


「気が向いたらな」

(あんなクソチビと仲良くなんてしたくないが、他でもない英二からの命令だからな。聞いてやるしかないじゃん)

「そうか、ありがとう」

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