しゃらん。

 しゃらん、と音がした。


 私が前職に就いていた頃。つまり少し昔の話だ。


 そこは高層ビルの六階で、日が落ちると誰も居なくなる階だった。定時を過ぎれば人通りが無くなる。オフィスビルの一角にはよくあることだ。通るのは警備や清掃の人間だけ。なので当然灯りも無い。ビルの管理者は環境活動に興味でもあるのか、それとも極端な吝嗇家なのか、とにかく消灯が徹底されていた。

 つまり、真っ暗闇である。廊下も部屋もない。全部が全部黒で塗り潰されている。時折非常灯だけが緑色のピクトグラムを輝かせている。まぁ、逃げ出したい気持ちは解る。闇は人間の恐怖心を煽る簡単な手段の一つで、人の形をしているならそれだけで怯える理由にして良いだろう。


 およそ、人がうろつく環境ではない。

 そこに、しゃらん、と音が響いたのだ。


 金属音、しかも鈴の音のように聞こえた。ここは都会のど真ん中。田舎なら狸だの狐だのに化かされたと笑い話で済むかもしれないが、狐狸妖怪の類はとんと見ず聞かずの世界である。何せ高層ビル街にそそり立つ摩天楼の一本だ。野生動物がいたら、どこかの動物園から逃げ出した個体だろう。

 そんなわけで、獣に化かされた線は消した。


 だが、選択肢を消したところで問題は何も解決しない。

 夜中の巡回なんて普通なら一人で十分な作業だ。当然私は一人きりでそこにいた。

 思い返せば、本来の担当者の曖昧だが安堵を含んだ笑みが脳裏を走る。人手不足のため、応援で駆けつけた事情を知らない新参者に、嫌な役割を押し付けたのだとその時気付いた。

 運が無いのは平常運転だ。仕方ないと腹を括る。そして、


 しゃらん。


 私の足音と同時にその音が来た。先程よりも遥かに近い。廊下一本挟んだ先に、金物の楽器が居る。

 二度目の音で確信に近いものが持てた。鈴のような凛とした音色とは少し違う。あれは恐らく、錫杖だ。金輪が連なり擦れ合い、音を奏でて歌うもの。

 であれば、持っているのは僧だろう。


 高層ビルの中に?


 理由は幾つか考えつく。例えば、地鎮の時に何かあった。例えば、ビルが建つ前の建築物に由来する。頭の中で渦巻くそれらは結局憶測の域を出ない。

 とにかく、居る。それだけが解ることだ。非常灯の緑色に照らされ顰め面をする作業着の男と、錫杖を持った僧。傍から見れば意味不明な絵面になるだろう。


 迷っていても仕方がないし、こんな事を報告する訳にもいかない。ちなみに、本当に危険だと判断したら警備会社に連絡を入れて人員を割いてもらうという手段も当然あった。あったが、それは辞めておいた。何故ならこの手のビルに設置されている監視カメラに何か写っているなら、こちらに連絡が来ないわけがないからだ。

 

 もしくは、何か写っているのが常態化している。

 

 どっちにしろ連絡するメリットは無い。迷った挙げ句に職務を執行しようと踏み出す。悩むだけ無駄だ。そういうことにした。


 しゃらん。


 音と互いに近づく。

 がらりと扉を開きつつ、トイレの個室を確認して回る。音がしたのだから誰かいる。誰かいるなら退出を促さなければならない。そういう業務だ。

 ただし、帰ってくれる相手であるとは限らない。



 しゃらん。

 

 立地の割に安物のカーペットを踏みしめながら直線の廊下を歩いて、曲がり角まで辿り着いた私の耳にその音が四度谺する。

 

 ちょっと待て?

 私は頭の中で例の音を反芻する。


 音が一定だ。つまり、相手は一定のリズムで、しかもかなりゆっくり歩いている。概算だがあと三十秒ほどでこちら側に顔を出すことが何となく解る。


 この音が音だけでなく、持ち主のいる錫杖が鳴らしているものだと仮定したらどうだろうか。迷惑なやつがこの時間、この場所に現れるのが常態化しているのだ。つまり、私は応援でこの現場にいる間、こいつと付き合っていく必要があるということで、いるかどうか判断のつかない音源に怯えながらうろつけと言われているわけだ。

 ここまで思考すること三秒ほど。



 そのままそろりと三歩下がる。幸い足元は安物とはいえカーペット。靴の音を消すには十分な素材だ。


 じっと待つ二十五秒は灯火が蝋燭を溶かすようにじりじりと永く感じられる。


 そして、


 ──しゃら──


 金輪が擦れるその瞬間、


「わっ!!!!!!!」


 大声を出してやった。

 そうしたら、


「ぎゃー!!!」

 である。


 ぎゃーではない。悲鳴を上げるな馬鹿者。

 曲がり角を直角に曲がって、そいつの顔を拝む。拝もうとした。が、それは失敗した。尻餅を突いているのは虚無僧姿のなんだかよくわからないものだ。


「お客さん、困るんですよ。この階はオフィスですから、定時を過ぎたら退出していただく事になってるんです」

 ちなみにこの時間はカードキーでロックされているので、実体のある存在は行き来できない。考えられるのはこの尻餅虚無僧がこの姿で出勤している社員だということ。もしくは突然現れるタイプの迷惑な存在であるかのどちらかだ。


 正直どっちでもよかった。


「立てます?」

 聞けばコクコクと頷く虚無僧。杖に体重を載せて、しゃらしゃら鳴らしながら立ち上がる迷惑尻餅虚無僧。


「その格好で出勤してるんですか」

 詰問する。相手の困惑する顔が見えた気がしたが、こちらも仕事である。どう返事すべきか迷ったのか、しばらく俯いたあと首をふるふると振る迷惑尻餅虚無僧。そりゃそうだ。普通の人間があんなにゆっくり歩くわけがない。


「じゃあ不法侵入ですか? それともトイレ借りて一時間くらい籠もってたとか?」

 再び同じような素振りを返す迷惑尻餅虚無僧。煮え切らない野郎である。男かどうかは判断がつかないのが難点だ。


「本当は警備の人呼ばなきゃいけないんですけど、あなた、私以外の人に見えると思います?」

 我ながら間抜けな質問だ。

 三度横に頭を振る迷惑尻餅虚無僧。お前は横振り型の水飲み鳥か何かか。他のリアクションはできないのか。


「もともとここに住んでました?」

 今度はアキネイター(質問に答えるとデータベースの中から登録されているキャラクターの中から特定するサイトの名称だ。昔一瞬流行った)になる私。

 馬鹿が二人雁首を揃えている状態になってしまった。


 今度も首を横に振る迷惑尻餅悲鳴虚無僧。思案顔のアキネイター。


「ここから出られない?」

 縦に振られる首。初めての反応だ。


「カードが無いから出られない?」

 縦。

「つまり物理的な障害に阻まれていた?」

 縦。

「暗い場所じゃないと移動できない?」

 縦。

「私に憑けます?」

 やや仰け反る迷惑尻餅悲鳴虚無僧。早く答えろよといらつくアキネイター。それに気圧されたのか、編笠が縦に揺れる。

「外に出たい?」

 縦。

「じゃあ取り憑いてください。暗いルート通ります。外に出たら投げますんで、不法侵入は止めてください。少なくとも私のいる場所ではやらないでください。約束は守れます?」

 縦。縦。何度か揺れた。


「ところで、なんでずっと黙ってるんですか。さっき普通に悲鳴あげたじゃないですか」

 聞いても迷惑尻餅悲鳴迷子虚無僧は黙秘を貫いた。



「あのう、くろかわくん」

 休憩所兼事務所に戻ると、私に夜回りを押し付けた上司が怯えた声を出した。

「はい」

「ちょっと遅かったね……何かあった……?」

 あったから遅いのだが。

「いえ別に。珍しいことは起きませんでした」

 いつものことなので。


「あっ……そう、それなら良いんだけど……」

「外の見回りもやっといたので、休憩入ります」

「あ、うん。はい」

「ところで、監視カメラに何か写ってました?」

 リアルタイムで見ていることも可能だったはずだ。

「えっ……あっ……いや、なにも……」

「そうですか」

 つまり独り言を言う私が写っていたわけだ。



 ちなみに翌日、応援の件は解除になった。勤務場所が遠かったので、あの迷惑尻餅悲鳴迷子虚無僧には一定量の感謝をしておく。

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